書評『韓国語をいかに学ぶか』
*本稿は、外国語教育学会からの依頼を受けて執筆した、辻野裕紀による『韓国語をいかに学ぶか:日本語話者のために』(野間秀樹著、平凡社新書、2014年)への書評である。『外国語教育研究』19(外国語教育学会、2016年)のpp.164-171に掲載されている。註や参考文献一覧などは省略したため、引用される場合等には、上記の雑誌をご覧いただきたい。(写真は韓国ソウルの国会図書館)
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1. はじめに
本書は、「日本語で生まれ育った人々が、韓国語をいかに学ぶか」(p.10)について詳らかに論じた書である。しかし、「いかに学ぶか」という文言から連想される効率、ハウツー、マニュアルなどといった、嗤うべきあさましさとは無縁である。また、狭隘な「韓国語礼讃」の如き趣向とも一定の逕庭がある。本書は、韓国語や言語一般を言語学的地平、言語教育学的視座から虚心坦懐に活写することで、読者に豊かなる学びを慫慂しようとする、〈韓国語の世界〉と〈言語の宇宙〉への開かれた窓である。
2. 本書の結構と梗概
本書は、「はじめに」、第1章から第6章、そして「あとがき」などから成る。
第1章は「韓国語=朝鮮語は学びたくなる言語である」と題され、韓国語を学びたくなる理由として、「韓国語が日本語と共に生きている、親しき言語であることを知る=隣近所性」、「日本語との絶妙の近しさに、日々、知的な歓びを得る=相似性」、「〈ことばが心と心を繋ぐ〉という体験ができる=体験性」の3点が挙げられている。
第2章「学び始めに」では、とりわけ入門期における韓国語学習の構えが論じられている。学習の初期段階で、その後の進展が分かってしまう「開票速報の法則」を長年の教師経験から説き、最初の一、二か月が韓国語学習にとって決定的に重要であることを強調している。また、「〈話されたことば〉にとって発音は全てである」と象徴的に述べ、発音の重要性も指摘している。著者によれば、韓国語圏はまだ韓国語のヴァリエーションに対する経験値が低く、ソウル方言話者を中心とする韓国語母語話者は、非母語話者の韓国語のみならず、共和国(北朝鮮)や中国朝鮮族の朝鮮語など、自分たちとは異なる発音の韓国語に寛大ではない(p.47-48)。つまり、韓国語母語話者に非母語話者の「訛った」発音を自然に受け入れる雅量は期待できないということである。そして、このことは動もすると発音によって一方的な価値付与までされてしまう可能性があるということを意味する。そこでは到底「会話は中身が大事」などという、発音を軽んずる者の詭辯は通用しないわけで、「通じればいい」と居直る学習者に対して、こういう反駁の仕方があったのかと、偏に感服する。
第3章「言語から学ぶ」には、〈文字と発音〉、〈語彙〉、〈文法〉、〈表現〉の各々について、韓国語学習の面白いエッセンスや韓国語研究の精華が鏤められている。就中、出色は〈文法〉であり、著者の学殖の片鱗が垣間見える。例えば、「文法」は役に立たないというニヒリズムを一蹴し、そもそも「文法は役に立つのか」という問い自体が間違っていると断ずる(pp.127-128)。そして、役に立たない文法論が嫌なら、なぜ役に立たないかを見据え、役に立つ文法論に作り替えていけばよい(p.138)とし、著者の拠って立つ文法観、文法論を提出している。著者の考える文法とは「その言語に内在する〈かたちと意味〉の体系」(p.134)であり、既存の文法論の限界は「〈文を超えるもの〉が文法論の対象となっていないこと」、「〈書かれたことば〉を基礎に文法論を構築していること」(p.142)の二点に存すると見る。
第4章は「〈教える〉ことから〈学ぶ〉ことを見る」という題で、教える側の視点から見た韓国語や言語教育をめぐる諸問題が縷々として語られている。その具体的なトピックは、音韻現象の説明法から、教師論、日本の韓国語教育史、「外国語」教授法の思潮変遷史とその問題点、母語論、非母語論に至るまで、極めて多岐に亘る。
第5章「学習書に学ぶ」には、優れた学習書、教科書とは何かについて、著者の見解が明瞭に述べられている。また、その根拠と共に、著者が吹挙する具体的な学習書リストも付されている。著者が学習書に求める要件はおそらく一般に考えられている水準よりも遥かに高く、端的に言って、半可通が無手勝流で言語の学習書など書いてはならないという峻厳なる戒めとも読み取れる。
第6章「他に照らし、自らを鍛え、共に在る」は、〈対照言語学的視座〉と〈共に在る私たち、共に在る言語〉を核として展開され、本書の掉尾を飾る章でもある。
3. 本書を貫く思想をめぐって
本書において刮目すべき重要な事柄は数多あるが、本書全体を貫く重要な思想の関鍵を整理すると、主に(1)全体への志向性、(2)言語場論、(3)対照言語学的視座、(4)言語道具観、目的論的言語観からの脱却、の4点に集約されるであろう。
3.1. 全体への志向性
本書には至るところに〈全体への志向性〉とでも呼ぶべき視座が伏流している。ここで言う〈全体への志向性〉とは2つの意味がある。1つは、全体を可視化せよという〈記述の全体性〉、もう1つは、腑分け主義、要素還元主義的な構えを捨てよという〈把握の全体性〉である。
〈記述の全体性〉は、主体を学習者にとれば、〈全体を一望俯瞰したい欲求〉と言ってもよい。これが充足されないと、韓国語の渺漭たる水面を前に、学習者の隔靴掻痒の感はいつまでも揺曳することとなる。記述の全体性は、用言の活用や音韻論的交替、形態音韻論的交替などの記述において特に威力を発揮する。とりわけ、音韻現象の描写は、全体性を常に意識していないと、直ぐさま誤謬の温床となる。なお、本書は、用言の活用を所謂「語基論」に立脚して提示しているが、語基論は記述の全体性の有用さを示すのに好個の材料である。因みに、当該平面の〈全体〉を摑み、各〈部分〉が〈座標全体〉の奈辺に位置するのかを正確に言語化できるかどうかは、語学教師がきちんと言語学的な思考ができているかどうかのリトマス紙となる。言語の記述においては、一斑を見て全豹を卜してはなるまい。研究でも教育でも忌避される、体系性を欠いたアド・ホックな説明や過度の一般化、論理の飛躍の類は、多くの場合、全体が見えていないことに起因する。全体性を志向するということは、システム=体系を重視するということでもあり、構造主義言語学の基本的な考え方でもある。
〈把握の全体性〉は、さらに私のことばでパラフレーズすれば、〈局在主義的言語観〉から脱却し、〈ホリスティックな言語観〉を重視する思想である。著者のホリスティックな言語観は、言語音を要素の集積ではなく、統合されたゲシュタルトと見做し、セグメント以上にプロソディックな側面の重要性を強調したり(pp.96-99)、「文という部分を足してゆけば、談話という全体ができたり、テクストという全体ができあがるわけではない」(p.145)と喝破し、〈談話やテクストの全体をいかに営むか〉という戦略の意識化を推奨しているところ(p.146)などに顕著に見える。そして、言語それ自体がどの断面をとっても部分の単なる集合ではないのだから、当然、言語学習においても、謂わば〈部分的最適化〉は〈全体的最適化〉を齎さない。
3.2. 言語場論
著者は、本書に限らず、いろいろな媒体で〈言語場〉という術語を好んで用いている。言語場とは、文字通り「言語が行われる場」(p.126)のことである。未だ人口に膾炙した用語とは言えないが、本書を読み解くキーワードのひとつである。言語学の泰斗・河野六郎博士が古今に冠絶する名著『文字論』の中で「対話の場面は話手と聴手の二人の人間を包む言語的場を構成する」と述べているところから発展させ、狭い意味での「対話の場面」のみならず、話されたものであれ、書かれたものであれ、言語が実現するあらゆる場を、著者は言語場と呼ぶ。
言語を見るにあたってなぜ言語場が重要であるかというと、「言語はいかなる言語場において実現するものかによって、その言語のありようも大きく異なってくる」し、「用いられる語彙、文法、表現なども、場によって大きく変わってくる」(p.126)からである。著者は、言語教育=言語学習においても、この言語場を常に顧慮することが大切であることを本書の中で再三再四説いている。言われてみれば当たり前のことのようにも思われるが、試みに手許の教科書類を瞥見するだけでも、こうしたことに意を用いていないものが存外多く、一驚を喫する。退嬰的な教科書的例文の不自然さの多くは言語場という視点の欠如に胚胎する。
本書が強調する、〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉の、〈存在様相論的非対称性〉とでも呼ぶべき、位相的異なりも、言語場論的差異に直結するものである。〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉を峻別し、これまで等閑に付されてきた前者を正面から解析することで闡明されるものは極めて多い。例えば、〈話されたことば〉においては、日本語でも韓国語でも、述語文よりも非述語文のほうが多く生起する(pp.153-155)などといった言語事実は、談話研究者ならともかく、初めて接する読者は、愕眙するであろう。こうした、〈話されたことば〉の克明なる記述と分析は、既存の文法論がア・プリオリに前提としてきた様々な事象に対する反措定となる。
3.3. 対照言語学的視座
言語教育において、対照言語学的視座を重んじるという思想も、本書全体を貫徹している。例えば、韓国語の単母音ひとつとっても、日本語の対応物と一々較べながら、説明がなされている(pp.83-86)。
言うまでもなく、対照言語学的視座は、所謂「負の転移(negative transfer)」を未然に防遏し、効率的な学習を進めるという意味で、重要である。しかし、本書の志はもう少し深い。著者は、「韓国語と日本語の相似性は、学習の能率といった面だけではなく、その相似性のゆえに、言語そのものへの関心の醸成という、学習者の知的な思考を培うといった面でも、大きな役割を果たす」(p.215)と述べている。つまり、対照言語学的視座には、単に効果的な学習を促すなどといった功利性を超えて、学習者の内発性に基づく知的好奇心を励起するという、より重要な職能もあるのである。思えば、かつてフランス語を専攻していた私自身も初学者の頃、日韓両言語の似て非なるありように接して、知的欲求が亢進し、比喩的に言えば、脳細胞が賦活されていくような感覚を覚えた経験がある。それが斯界の一介の研究者、教育者となって、現在も韓国語の研究と教育を続けている大きな動因となっている。
著者は、対照言語学的な方法について、「〈他を照らすのに、自分自身から出発する〉、そのことによって〈他を照らし、自らをも知る〉という方法である」(p.337)とも述べている。そして、「忘れてはならない。私たちは、自らを知るために他を照らしたのではない。どこまでも、他を知るためにこそ、他から出発せず、自分自身から出発したのであ」る(ibid.)と附言する。
一方で私は、非母語を学ぶことを、自身の母語たる日本語を〈自然的な所与〉ではなく、〈意志的な選択〉として捉え、かけがえなき〈自己表現言語〉として引き受け直す契機と捉えている。言語とは、母語であれ、非母語であれ、〈引き受けるもの〉である。そして、〈非母語を知るために母語を見るのではなく、母語を知るために非母語を見る〉というキアスムを重要視している。これは、他者への関心とは異なり、自己への関心は普遍的であり、さらに〈手続き的知識の宣言的知識化〉はその逆と比べて知的高揚感がより得られやすいと考えるからである。思想家の内田樹氏も言うように、学びとはその「意味や意義が事後的に考量される」ダイナミックなプロセスであり、例えば、韓国語の授業を受講して、結果的に韓国語は全く習得できなかったが、日本語について詳しくなったという事態も教育の効用として全面的に肯定されるべきものである。この点ではもしかすると著者と意見を異にするかもしれないが、言語教育にあって、目標言語のみを見るのではなく、母語と目標言語の間を自由自在に遊弋する、謂わば〈跨境的〉なる学びを志向する点は、私が理想とする言語教育と吻合する。
3.4. 言語道具観、目的論的言語観からの脱却
著者は、「外国語」教授法の思潮史に通底する〈言語は道具である〉という考え方を〈言語道具観〉と称している。また、〈何かの目的のもとに言語を傅かせる思想〉を〈目的論的言語観〉と呼ぶ。言語道具観への批判は、内田樹氏や黒田龍之助氏など、いくたりの論者の著作にも見えるが、著者もかかる所見を、鼎を扛ぐる筆力で論難している。「言語に定式化して示せるような目的のためにのみ、言語を使うわけではない。漠然たる目的や、茫漠たる無目的のためにも、人は言語を営む」、「話し手の「目的」や「意図」といったものは、事実上、ほとんど後付けされたものである」、「ことばは時として愛の形そのものである。(中略) そうした言語場で形となるのは、予め共通の行く先など存在しない言語である。その証拠に、愛の言語もしばしばなかったことにされてしまう」、「学習者の心のどこかに常にあるとも言ってよい、言語における心理的な欲望、社会的な欲求といった漠然たるものも、決して軽視できない。(中略) 心の領分に関わる営みとしての言語がある」、「母語とは「コミュニケーション」の名で強調される対他的な動因を云々する以前の現前であって、私たちが〈在る〉ことの世界に関わっている」(pp.250-255)…。我が意を得たりである。言語を矮小化する巷間の不見識に対して、言語の道を驀進する炯眼の士は、このように椽大の筆でいくらでも抗辯しうる。言語道具観、目的論的言語観は、洋の東西を問わず、言語教育界に蔓衍する、唾棄すべき宿痾と言ってよい。著者は、〈言語を問う〉ことの重要性も述べているが(pp.258-260) 、これも言語道具観という桎梏を否認することによって可能となる。言語が単なる道具ではないからこそ、問い得るのである。教室における教師と学生という片務的な関係においては、ある種の温情主義的態度 ――「今はまだ分からないかもしれないが、とりあえず黙って覚えよ」といった構え――も仮言的には奏功すると思われるが、本書は定言的にそれをよしとしない。言ってみれば、〈情理を尽くして〉言語を言語で問い答えること。本書はこうした絶えざる営為の過程を最も重要視しているように読める。母語、非母語を問わず、言語を言語で語る〈メタ言語的行為〉もまた〈言語を学ぶ〉ということなのである。そして、かかる営みの反復が我々の引き受けた複数のことばをいよいよ螺旋的に彫琢していく。こうして本書の思想は私の言語観と一体不二のものとして交叉する。著者はさらに「言語は貨幣と交換できる商品のようなものではない」(p.338)とも述べている。これは言語のみならず、学びの対象全般についても同断である。
最後に、驥尾に付して、教育についての鄙見も記しておこう。本書が強く主張する通り、言語を単なる道具へと矮小化してはならない。一方で、学習対象や学習行為を何かのための手段へと貶める思想は、言語教育に局限されない。惜しむらくは、教育一般にも瀰漫し、〈文化資本〉(ブルデュー)などといったタームは巧まずしてそれを助長する。しかし、勉強することによって享受しうる、何かの役に立つとか、分かると楽しいなどといったものは副次的な結果に過ぎず、学ぶという行為自体が既に楽しく無条件に貴いものである。何の役に立たなくとも、理解できなくとも、勉強は圧倒的に楽しくて貴い。学びは、衒いや贏輸、栄利聞達などといった、功利的な次元から最も遠いところに据えられねばならない。勉強は自由にしてそれ自体が目的であり、ホイジンガやカイヨワ的な意味で、学びは〈遊び〉( jeu)である。マックス・ウェーバーの社会的行為類型に従って、〈価値合理的行為〉と言ってもよい。人文学の斜陽化の中で、大学教師は学問の意義以前に、こうした〈学びの愉悦〉をもっと真率に獅子吼してよいと愚考する。
4. おわりに
以上、『韓国語をいかに学ぶか』の綱領と寸感を述べた。さらには本書の趣旨を私なりの言辞で換言、敷衍しつつ、浅見についても併せて諸々開陳した。本書は、全体を通して、諧謔も交えた雄渾な筆致で綴られてはいるが、内容はその実、外連味のない禁欲的なものである。学習者も教師も、そして、韓国語を学んだことのない読者も、本書を味到することによって、より豊かな学知の水路へと導かれ、韓国語の面白さ、光彩陸離たる言語の世界の奥深さを必ずや感得することになろう。