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「ほぐしばい~よみほぐし実践編~」のつくりかた【単語稽古】

「もみほぐしは演技に置き換え可能か?」の問いをもとに、見ているだけで体がほぐれる演技「ほぐしばい」の探求を続ける俳優・辻村優子。
その新作「ほぐしばい~よみほぐし実践編~」は、いよいよ4月3日に初日を迎えます!(ご予約受付中)
本作では、観客は施術台の上で横になり、テキストの発話と手技による施術を組み合わせたパフォーマンス「よみほぐし」を体験します。発話されるテキストは、複数人から採取された言葉によって構成されており、いくつかの(実際には)存在しない景色を描きます。辻村の口から語られるイメージは、手技によってもたされる固有の感覚と交差することで、どのような〈景色〉を立ち上げるのか。「ほぐしばい」プロジェクトの集大成となる、リラクゼーション型パフォーマンス最新作。
今回からは、その創作の過程をレポートしていきます!



演技からテキストをつくる!

さて、稽古の過程を話しはじめる前に今作をどのような仕組みで立ち上げていったのか、その順番をお伝えする必要があります。今作の稽古は複数のセクションに分けて行われており、各セクションの仕事が融合することでテキストが編み上げられています。

セクションとご協力いただいた方々のご紹介です!

・単語稽古担当:今宿未悠さん私道かぴさん(安住の地)吉田萌さん
・文章稽古担当:蜂巣ももさん(グループ・野原)
・編集稽古担当:渋木すずさん(円盤に乗る派/ちょっとしたパーティー)
・聴覚担当:カゲヤマ気象台さん(円盤に乗る派)
・視覚担当:中村大地さん(屋根裏ハイツ)
・演出担当:中尾幸志郎さん(散策者)


このほかに実は「宮城野」パートと呼ばれる稽古も並走していますが、それについては公演期間終了後に過程を公開していく予定です。

「単語稽古、文章稽古、編集稽古」というのが、テキストを生成するプロセスです。そしてテキストの創作と同時に演技についても練っていくので「稽古」としています。テキストと演技を同時にってどういうこと?と思われるかもしれません。私も実際の稽古期間の中でたびたび「どう進めてけば?」となりました。
しかし、振り返ってみると間違いなくそのようになっていたので不思議です。どのように進めたかは続く章でご説明するとして、まずはこの「単語稽古、文章稽古、編集稽古」がどういう事をするものか具体的にお話します。

単語稽古って?


企画書に描いたイメージ図

まず、ご協力いただく方には現場においでいただき、二人でお話しつつその日のお疲れもお聞きして、施術箇所を決めます。そして、もみほぐしを受けて頂きます。施術中に感じたことや浮かんだことを、もみほぐしを受けながら、あるいは受けた後におしゃべりをします。この辺りはその人にあった方法を取りました。共通しているのは、その会話を録音させてもらうこと。その中で出てきた言葉や文章を「キーワード」として次の文章稽古に繋げます。


文章稽古って?


企画書に描いたイメージ図

まず、単語稽古の中から抽出された「キーワード」達を並べます。そこから言葉の検証と施術を往復する形で稽古を進め、作品の施術中に読む「テキスト」を編んでいきます。さらにその「テキスト」はどの部位にどのような触れるのがふさわしいか、手の態度、すなわちこの作品におけるサブテキストも同時に考え、「テキスト」から「演技」を立ち上げていきます。

編集稽古って?


企画書に描いたイメージ図

文章の稽古で創作した「テキスト」と「演技」(言葉と施術の組み合わせ)の構成の仕方を検討し全体をつくっていきます。そして、通して稽古しフィードバックをもとに修正。これを細かく繰り返し、観客の被施術時間をどのように運ぶかの「流れ」を決めていきます。

なんでこのつくりかたになったのか?

普通の演劇作品だったら、まず何を演じるか、の、テキストとなるものがあり、そこから演技を作っていきますが、今作は逆方向からとでも言いますか、まず演技(もみほぐし)があって、そこからテキストを作っていき、
さらに生成されたテキストを再び演技に還元する、という方法をとっています。
ーなぜか。
それを説明するのは前作「ほぐしばい~実話怪談編~」での発見が関わっています。

「~実話怪談編~」本番後に残ったモヤモヤの正体。それを紐解くには演技にとってのテキストとは一体何なのか、ほぐしばいにとってのテキストとは何なのか、そういった事にもっと足を踏み入れて考えなければいけないのではないか。そんな予感がありました。パフォーマンスとしてその時考えられるアイデアを出し切ってなお、本番でお客さんと対峙して初めて浮き彫りになったものとは何だったのか。これはあくまでわたしの仮説ですし、その限りでない観客ももちろんいると思いつつお話します。
お客さんが舞台を見る時、それは「何が」語られているか、語られる内容の方に注目されるのではないか。そしてそれが「いかに」語られているかという演技の仕方は「何が」の前で透明になっているのではないか。ということ。
劇を観に来たお客さんが「難しくてよくわからなかった」という感想を言うのはつまり、「何が」語られているのかを理解するのが難しかった、と言っているのではないか。劇を観ることそのものの難しさを指しているわけではないのではないか。観劇、という意味なら、目の前にいる役者を見る、声を聴く、だけで十分成立しうるはずなのに「難しい」と言ってしまえるのは、何かそこに「見るべきものがあるはず」と思われていて、それが何かと言えば、「何が」語られているかという内容の事ではないだろうか。
となると、俳優の演技は(そのような感想を持つお客さんの前では)内容を伝えるための手段として機能していることになり、演技が「いかに」されているかという問題は観客にとって透明になっているのではないか。
もし問題が現れるとしたら、語られている「何が」と俳優の演技の「いかに」の嚙み合わせに違和感を感じる時。「なんでこの演技なんだろう」と初めて俳優の演技の質が問題となって表れてくる。
もちろんこれは非常に極端な話ですが、たとえばそんな構造が、テキストと演技の関係に隠されているとしたら。
「~実話怪談編~」に限らず、私はつねにこの「いかに」に当たる演技の部分を探求し、同時に目的としてきました。しかし一度それを非接触型のテキストを用いた上演スタイルにすると、お客さんの意識は自然に「何が」語られているのかの方に向かい、そのため、内容と演技が噛み合わせ不一致に感じられ、違和感として受け止められていたのではないか。ざっくり言ってしまえば多くの観客の方々に「なんで実話怪談でこの演技なのか」と思わせたのではないかと思います。

なぜ実話怪談を選んだかについてはすでに創作記録の中で紹介させていただいているのでここでは割愛します。
しかし、私がやりたい事は一貫して「演技の探究」です。演技は私にとって最大の目的であり同時にその手段でもあるわけです。そのことを実践しお客さんにも納得してもらえるようなテキストの在り様はどのようにしたら可能なのか。
そこで着目したのが、演技が立ち上がる順番です。
つまり、テキスト(がすでにあって)そこから演技を考えるから、演技がテキストを表現する手段のような位置づけになってしまうのかもしれない。だったら、その順番を逆転させることで、テキストと演技の関係を撹乱させられないだろうか。
そんな発想から、テキストの創作過程を演技の稽古と位置づける方法を発想しました。まず、演技をする(この場合の演技とはもみほぐしのこと)。その演技からテキストを作る。そしてそのテキストをまた演技に還元する。
そんな風に稽古を進めていきました。

ご協力をお願いする

もみほぐしを受けておしゃべりをする。ざっくり言えばそんな事をする単語稽古。ご協力頂きたい方…と考えた時に「体と言葉について自分なりに取り組んでいる方」にお願いしようと思いました。そして、その言葉は誰か一人のものでなく、色んな人の言葉が混じるといいな、同じように足に触れられても、イメージする事も話すことも、話し方も、色々あると思うからです。
色んな人の体や言葉が紙面上に混ざっているといいな。ということで3人の方にお願いしました。
そのお三方とは、
私道かぴさん(安住の地)、 吉田萌さん、今宿未悠さん、です。

私道かぴさん(安住の地)とは、松井周の標本室で出会いました。標本空間vol.2「遊び場的標本空間」でわたしは「ポーズを着る」というWSを行った
のですが、その時かぴさんが「身体感覚の【言語での】共有は可能か?」というWSをされており、体の内側の感覚にこんな風に興味を持っている方がいるなんて…ほぐしばいの話をしたい!と思い、今回満を持してお声がけしました。

吉田萌さんも同じく松井周の標本室で出会い、(そう考えると標本室って自分にとって本当に大きいな)その後、萌さんの「壁あるいは石、平たいメディウム」がありました。私はこの作品で音声と映像で協力させていただいてるのですが、その際交わされた会話の中で、体の内と外、その境界としての服、などのテーマが萌さんから語られたことがとても印象に残り、今回お願いしたいと思いました。

今宿未悠さんは神保町PARAアーティストコースミーティングで出会いました。今宿さんがプレゼンで話されていた、マイクを体内に入れて発声しその音をスピーカーで聴くというアイデアからなぜか、揉ませてほしいと強く直感し「ぜひもみほぐしをさせてくれませんか?」とお声がけしたのが出会いでした。その後無事わが家でもみほぐしを受けて頂くことが叶い、その時のことを詩の形にして共有してくださいました。単語稽古の着想にはこの出来事が大きく影響しているかもしれません。

では、お一人につき2日間ずつ(計6日間)行った単語稽古の日々を振り返っていこうと思います。

私道かぴさん(安住の地)


稽古のあとのかぴさん

最初の稽古は年明け後まもなくの乗る場にて。乗る場の近くにあるおいしいパティスリーでガレットデロワをおやつに買って、甘いカモミールティーを準備してお迎えしました。この稽古2日間のあと、かぴさんが書かれたご自身の記録を共有してくださいました。今回は引用の形でかぴさんの視点も交えながら書いていきます。

まずかぴさん、前作の創作プロセスにまつわるnote記事を読んできてくださっていた。

起き、布団に入ったままほぐしばいのnoteを全部読んだ。扱うテーマが怪談に行った理由に「なるほどな〜」と思う。背中にぞくっとくる体感型の物語を「怪談」とするなら、確かにそういう体感作用のある芝居はなかなかできないよなあ。心や脳、目だけが動いている観客状態から脱するにはどうすればいいのか。それこそアトラクションみたいになってくのだろうか。

1月9日のかぴさんの記録

そしてこの稽古に至るまでの経緯をご説明。とはいえ、実はまだこの段階では実話怪談編の本番についての記事が書けていなくて、まだ自分の中での前作への整理はついていなかったのですが。しかし大きいのは先述した通り、テキストと演技の関係が目的と手段の関係に陥りやすいこと。それに気づくまでの話しをしました。そして、いずれこのnoteシリーズで公表することになる、性産業と「宮城野」についてのお話をしました。

そもそもどうして今「ほぐしばい」をさらにバージョンアップするのか、そしてなぜこの稽古体制(色々なターンの人が数回に渡って辻村さんと稽古し、つくりあげていくバトンタッチ方式)なのかを聞く。印象的な話がいくつもあった。「俳優(辻村さんはは役者ではなくて俳優と言う)の技量も言葉にしたい」という言葉に深く頷く。「俳優自身が演技論を話す場がないのはなぜ?と思って」「演出家と対等にやり合うためにも、1アーティストの方法論を魔法みたいなもののままにして、言葉にしないのはだめだと思った」と言う。そうか、と合点がいった。今日読んだnoteも、こういう考えからまとめられたものだったのだ。感覚で、とか天才型、とかではなく技術職であるからにしてきちんと言語化は(やろうと思えば)可能なはずなのだ。そうでなければ役者はいつまでも「こんなに長い台詞覚えてすごいね」とか「〇秒で泣けるなんて演技派だね」みたいな認識しかされないだろう。友人の画家が「絵がうまいね」と言われて「そう訓練されてるからね」と答えているのを見て以来、芸術においてもみんな技術職なのだ、できるのはその技術を持っているからなのだ、という考えがすとんと落ちて、皆がこのスタンスで居られたらいいのになあと思った。その気持ちを思い出す。

1月9日のかぴさんの記録

色んな事を話しながら、今回の稽古どう進めましょうか?とお聞きしてみたり。なにせ、もみほぐしからテキストを書く方法なんて初めてだし、どうするのが適切かも、何かとっかかりになるようなことをやってみないとわからない。会話しながら、連想ゲームしながら、とか案の中で、まあ、やりやすいようにやってみよう!と、まずはかぴさんに触れさせていただくことに。
最初は「手」にオイルで触れました。なぜならその姿勢の方が話しやすそうだから!

「じゃあ、まず手やってもいいですか」と提案してもらい、ハンドをもんでもらった。左の手をもんでもらっている間、「普段はお客さんとどんな会話するんですか」と聞く。日々のお疲れの悩み(子ども産んで、とか受験がとか)が多いという。そんな会話をしながら、触ってもらっている間は言葉の間がある方が心地いいな、と思った。先ほど喋っていた間よりも、すこし開いた方がすっと入ってくるというか、何かひとつ違う次元なのかもしれない。ふと見ると、辻村さんが手をもみながら、真剣な目で、しかし床と椅子の間みたいなところに視線を落としているのを見て「揉む時ってどこを見ているんですか」と聞く。「どこ見ているのか、わかんない!」ということで、右手を目つむってやってもらった。ぽつぽつ話ながら、途中で「あ、いま手が6本あった(もう一本あると思って揉んでた)」という言葉がおもしろい。こちらも目をつむって施術を受けていると、内部のことに気がいく。より深く揉んでもらっている気持ちがする。続いて腰や頭を施術してもらった。受けている時、目をつむっていると、開いた時に世界が想像より大きく見える。頭は話していたのではっきりしているのだけど、身体が還ってくるまでにちょっと時間がかかる感じ。

1月9日のかぴさんの記録

確かに、揉んでいる時目は開いているけど、何を見てるんだろう。
「見る」ことがあるとしたら、それは掌や指にあるセンサーが感じている何か。あるいは全身の肌が感じている硬さや重さ、その総体が脳内で描く状況。感じるほどに、見るも聞くも触れるも、その境界が自分の中で曖昧になっていく感じがします。

ご提案いただいた、目を閉じて揉むというのは初めてでした。かぴさんが書いているのと同じ意味かは分かりえないけど、私も目を閉じると触れてるものをもっと感じられた。硬さや柔らかさや温かさの解像度がぐっと上がって、体の内側にまで触れているような感じになりました。指に一本ずつ触れていたら、何度も繰り返すその動きが心地よくなっちゃって、小指まで触れ終わっていたのに、もう一本、と無いはずの6本目の指を探して、私の手は一瞬中空を揉んでいました。

かぴさんとした体にまつわるおしゃべりで出てきた言葉やイメージ。かぴさんの話してくれた、熊の解体の話しが印象的だった。熊が捕れたらすぐにさばいて川の水にさらす。皮を剥いだ熊の形は人間に似ている。話を聞きながら、行ったこともない山奥の川の流れと、水中を五色の吹き流しみたいにたゆたう熊の内臓が私の脳内に描かれた。

痛み
内臓の色はいろいろ
人間の内側は暗黒
見ていなかったらないかもしれない
体の中に内臓ってほんとにあるのかな
触れられたところがあらわれる
高熱のときに見た夢

わたしの稽古記録用ドックスの引用

一日目の稽古が終わってあと、わたし話しすぎてしまったのでは?と迷いが出た。はなしを聞く、聞いてる、聞けてるってどうなっていたらそれができてると言えるのだろう。取材やインタビューではない、俳優にとっての聞くってどういうことなんだろうということを考えていました。
というのも、この稽古の直前にあった公演、屋根裏ハイツ「すみつくす」に出演中、サウンドスケープを行った身体で舞台に上がってみた回があって、それがすごく「ほぐしばい」の実践に影響を与えてくれました。その体験から、ほぐしばいとは発話の仕方ではなく聞くことの技術ではないかという方向が定まりました。
だから、演技(ほぐし)からテキストを立ち上げる=聞く事からテキストを立ち上げる、とも言い換えられるのではないかと考えていました。それで自分が喋った内容からキーワードを抜き出すというより「聞く」ことから何か立ち上げられたらと思っていたのでした。

確かに施術を再現している辻村さんの身体は全身運動のように重力を流れる動きで伝えている(この動き自体も水の中に立って揺れているようでとても魅力的なのだけれど、施術を受けていたら見られないので残念)。この体重移動だと、手や指を感じるよりも受け手が自分の身体を感じるという。その点において「ほぐしばい」はやる技術ではなくて聞く技術なのではないか、という仮説。「目をつむって施術すると、奥までよく見える気がした」という前回の振り返りも興味深かった。

1月11日のかぴさんの記録

二回目の稽古は一回目の翌々日。
この日かぴさんがおやつに、とイチゴ大福を持ってきてくれました。うれしい!また甘いお茶を淹れました。
前回の稽古の後に浮かんできたイメージ。暗闇に浮かんでいる自分の体。その暗闇は、朝になれば消える類のものではなく、単に「」として存在している。前も後ろも無い感じ。「無い」がある感じ。闇に溶けて自分の体がどこにあるかわからない。触れられた所だけが闇の中から浮かび上がる、重力から解放されている。色とりどりの臓器が暗闇の中に浮かんでいる。そんなイメージが浮かんだことを伝える。
実は「よみほぐし実践編」で使うテキストは最初、かぴさんの書かれた「いきてるみ」の中にある欠損の話か、2023年にYAUで創って静岡のストレンジシードで上演されていた「わたしが土に還るまで」の九相図についてのテキストをお借りできたらと思っていたのでした。欠損や腐敗、体にまつわる感覚は必ずしも心地よいものばかりではない。痛みだって、ある。そんなところにも自分の興味は向き始めているのだと思います。

最近始められた合気道では「稽古の中で痛みが許容されていて、それが何か対等に扱われている感じもする」と言う。施術のあと「身体にどこか痛みとかないですか?」と聞いてくれたことを思い出す。痛みの有無の確認、それを与えること、与えられること。関係性をきちんと結ぼうとすること。

1月9日のかぴさんの記録

「いきてるみ」の一章を使おうと考えていたが止められた旨を聞いて、確かにあれは怖すぎるのかもなあと思った。書いている間のことはあまり覚えていなくて、うまく質問に答えられなかった気がする。実際に床に寝転んで足がない場合や手がない場合の気付いていく順序を決めた。あの時自分には、確かに足も手もなかった気がする。

1月11日のかぴさんの記録

暗闇のイメージから連想しておしゃべり。
かぴさんにとっての暗闇の感じ:意外と近くにある。あっけなく出てきそう。電気や光がなかったらすぐそこに、たとえば夜の海。
辻村:闇は分断。寝て起きる間に全然違う場所に行く。前回の目を閉じた施術は、奥の方まで見える気がした。
寝るって何?
かぴさん:滞在先では仲がいい人ができると寝れるようになる。
暗闇が怖いのは、溶けてなくなる感じがするから。でもそれが気持ちいい時もある。
かぴさん:歯医者さんの椅子、最初は接地面を意識するけど、はじまると接地面が消える。

この日はお顔と肩甲骨まわり、わきの下のリンパを流すような施術を行う。
揉んでいる内に、だんだんアイデアが湧いてきて、最後にこんなことをしました。
・施術の最初と最後に必ずやるお客さんの全身に触れる振付けに、口で効果音をつけながらやる(実は心の中でいつもSEをつけていたことに気づいた。さする時に「ぞざあああ」とか伸ばす時に「んぐいーん」とか)
・その動きと音のイメージから湧いてきた状況を、触れながら即興で語ってみる。
・かぴさんに、私の体を触ってもらう

即興の時の録音データです。リンクに飛ぶと聞けます。(約5分)
おそらく、この実践がよみほぐしの走り出した瞬間だったと思います。

かぴさんに私の体を触ってもらったのは、触ることばかりしていたけれど触られる、も思い出した方がいいなと思ったから。うつ伏せで視界が閉ざされた中に、かぴさんの手が浮かび上がる。それは手の形をしているというより、私に対する「態度そのもの」がそこに見えるようで、こんなにもあけすけに伝わってくるものなのか、あらためてリラクゼーションサービスの提供の名の下に人に触れている事の危うさを思ったりした。

「ひとつ思いついたんですけどいいですか」という提案がある。それは、辻村さんと私の立場を交代してさわるというものだった。「同僚とか触ってたらぜんぶわかる」という話したあとなのでちょっと緊張しつつ、伝われ〜と思って触らせてもらった。2日間で聞かせてもらった色々な人生の局面、そのすべてを経験した身体がここにあるのだな、そしてこの身体はいろんな人をほぐしてきたのだな、と思うと心の底から「どうか少しでも楽になってほしい」という気持ちが湧いて、背中と腰、お尻に足までなるべく包み押すように触った。辻村さんの身体が小さくて、やわらかくてきゅんとする。いつか行ったストリップで「女の子だけ、特別だよ」とストリップ嬢が私の手を取り、彼女のつめたい乳房に当てた時と同じ気持ちが湧き上がった。どうか癒されてほしい、この後、もうこの身体が、この人が、理不尽な目に合いませんようにと思った。まるで大真面目な祈りの儀式みたいだった。その小さな足を靴下越しに触って恐る恐る「終わりです」と告げると、「初恋のことを思い出した」と言ってもらえてうれしかった。さわるのは、思ったよりもずっと気持ちや念の仕事なのかもしれない。こんなことを職場で繰り返している辻村さんは本当にすごいな、と思った。

1月11日かぴさんの記録


吉田萌さん


今日のおやつはキスチョコ

続いて、吉田萌さんとの2回の稽古の様子です。
1回目は乗る場で。こんなことをしました。
・これまでのことを説明
・ワンシーン体験してもらう(前回のかぴさん稽古の最後に即興で行ったことを再現)
・短めのにもみほぐしを何通りかする
「これまでのことの説明」稽古にご協力いただく方々にそのつどさせて頂くのですが、何度も語り直すことで自分の中でも言いたい事がはっきりしてきました。
主に、実話怪談編からどのようなことを考えて、よみほぐし編の稽古の仕方にたどり着いたか。テキストと演技の関係を撹乱するための稽古の仕方。さらに今回は「お客さんをまっすぐ気持ちよくする」というテーマがあることもお話しました。(なぜそのテーマになったのかはいずれ)

そしてさっそく前回のかぴさんの稽古で誕生したデモンストレーションのよみほぐしを受けてもらいました。その方が稽古の進め方を相談しやすくなるかなと思い。デモンストレーションのよみほぐしを受けた萌さんの感想は、
・辻村によって言葉と身体が繋げられてる感じ。
・サロン乗る場のカゲヤマさんの音楽みたいな効果を感じる。自分の肉体が風景化する感じ。
・話が持っているイメージと触られてる感覚の持つイメージ。触っているモノになってる感じもあった。駅のフロアにもなっていた。

もまれてる感じではなくイメージになってる感じ。もともと身体を触られるのが苦手。緊張する。でも辻村の施術はいつもなんかどろっとした感じになる。一瞬深いところに行ってもどってくる感じ。
自分がいびきかいてる意識ある。その中でずっと辻村の手が続いている。
一瞬変なこと考えたり。飛躍。話のイメージと、たしかに施術を受けている現実。肉体を忘れてその話の媒体になっている。重なっている、かろうじて繋ぎ留められている。
声の聞こえ方とか肝心だったと思う。悪夢でささやかれるような、ささやきのバランス。熱でうなされてるときに横で言われてことに影響を受けるような。

1月15日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

即興を経て私が考えていたのは、部位によっては気持ちよさがスペクタクルと相性のいい部位もあると思う。たとえば腰をもみながら難破船の話、とか。物語のスペクタクルと快感の波の相性は良いんじゃないだろうか。
それに対して萌さん。移動の話とは相性良さそう。肉体の風景化みたいなことは屋根裏ハイツの辻村の演技を見た時も思った。どこから声が出てるんだろう、と。その感覚に繋げてサロン乗る場での施術を受けた体感を思い出していた。自分な体が溶けてどろっとするような。

その後は短めのもみほぐしを何パターンか受けて頂きました。
うつぶせで足~腰下半身。あおむけでお顔回り~肩首。
萌さんとは、「触れられる事」を起点として、自分の皮膚や皮膚の内側、あるいは外側のこと、どう関係していくか、という話をたくさんしたのが印象的です。触れられる物理的な感触もありつつ、でも「接する」事象そのものについて考えるような時間でした。
稽古記録が膨大にある中でnoteを書くときにいつもどうしようかと悩むのは、その人との時間で何が自分(辻村)に残っているか、事後的に編集しなければいけないことです。萌さんとのお話しは、輪郭をつけすぎないであくまで自分(辻村)の中に漂ったままにしておきたい。そんな感じだったので、その時の記録のごくごく一部をここに書いておこうと思います。

萌さん:施術中に思い出してた。個人が抱えてる内側を強化していきたい欲望が実は自分にはあって。今までは自分の欲望を外の何かに依拠する形で実現しようとしてた。自分なんてものは幽霊で、風景そのもの。

屋根裏ハイツの辻村の演技を見た時に、自己を消失させるのではなく、環境に積極的に関わっていく、自分がアプローチすることで風景になっていくってことも出来るんだなと思った。消失させることで、ではなく。

今稽古してて、共演者は「自分は俳優として作品に技術を提供してる」という話をしてた。その感覚が自分にはなかった。今の自分の全てにおいて言える事。

サロンの接客のnote読んで、接客と演技に関連性があると思ってきたが、自分の場合は接客は技術の提供ではなく自己消失と思っていた。今まで自分は完全に自己喪失型でやってたけど本当にそれでいいのか。自分みたいなものが一切定着しない。
(辻村:萌さんが言ってる言葉、喪失と消失、どっちだろう)

1月15日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

その後、かぴさんにもお願いしたのと同様に、萌さんにも私を触ってもらった。その時の私の感想。
足に触れられてるとき:へび、いか、かにの長さや形のイメージ。
触れられたあとに残響が残る。触られるのが左足から右足に萌さんの手が移っても、まだ左足に萌さんの感触が残っていた。
浮かんだアイデア①:耳元で水のペットボトルをちゃぷちゃぷやる、空間の遠いところから近づく、足音とか、施術台でない場所で出される音によるスペクタクル。
浮かんだアイデア②:二幕構成。うつ伏せが一幕で仰向けが二幕。
時間が経ってくると意識は内面に入ってくる。最初は具体的な景色とかのイメージだったけど、時間が経つと記憶とかのほうに発想が行った。
特に揉んだりせずにただ手が置かれて長く触られてるのが良かった。

萌さんの感想:腕の中で手首が格段に温かかった。確かめたくなる部分は長く触っていた。海産物系のイメージを浮かべてた。お土産でもらった魚のことを思い出した。たちうお!急に考えが飛躍するのは触れてる時にもあるんだなって思った。

辻村は触り方の湿度が高いそれは、手の個性、触り方の個性。
萌さんのイメージに、広島のでかくて広くて浅い川が出てきたそう。
水の話と相性いいかも、と触れられて私も思った。

2回目の稽古は1月の終わりころ。少し間が開きました。
場所は三鷹にあるわが家です。

この日は足湯から

Nanoriの公演を終えたばかりとのことでしたので、リラックス効果が期待できるコースをしようと思い、この日は足湯から。写真手前にあるのは観賞用バズボムとキャンドルです。火の揺らぎ、物質の溶ける様子がアイデアとして使えないかなと思って置いてみました。

しゅわしゅわを眺める萌さん
「観賞用バスボムの呼吸。バスボムが息をしている」

バスボムと庭の景色とキャンドルの火を鑑賞しながら足湯。沈黙の時間。

続いてオイルを使った足のリフレクソロジー。
揉まれながら萌さんがしてくださった話のメモ。

家の話、子どもの頃の記憶、宇治川、広島の川、鷹の台の玉川上水。
揉まれて家の事を思い出す。自分にとっては家が身体的な事。自己喪失しやすい自分にとって家を知る事は身体や居場所を獲得していく様な行為、身体を知る。ということと繋がっているからもみほぐしを受けると家の事を思い出すのかも。
モノを配置したり自分の家にしていくというのは空間を揉むということなのかも

1月30日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

萌さんからのお申し出で、揉まれてるときに話すと意識が拡散してしまうので、施術後に話すことに。それを受けて、私も録音は施術後に長めに回そうと思った。施術の後のおしゃべりの展開にもヒントがありそうと思い。そんなわけで次からは揉み終わってから話したこと。

触れたところ:頭
学生時代によく行っていた奥多摩。陶芸をやっていた友達とした野焼き。
骨。遺骨を拾うイメージ。カラカラの骨っぽい陶器。
前の家でお風呂が長かった。めちゃめちゃ軽くパリンとわれたお気に入りのカップ
その日はゆず風呂だった。昨日はゆず鍋だった。
そこまでイメージが移り変わり「はっ!繋がった!」となった。
今揉まれている自分と思い出される過去の自分がゆず鍋の記憶によって繋がった。
こめかみを触れられてる感覚から繋がっていった。固いもの、岩的なもの、骨。
揉むことと陶芸的な触覚的な事は自分の中で連動しやすい。
揉んだ先に骨が出てきた。揉まれているけど固い頭蓋骨がある事。
確信めいた同じ質。話の質と施術の質が拾いあえる。
整理して話したので本当はもっと細かく一瞬差し込まれるイメージもあった。網目のように繋がりあうイメージ。エピソードとして理屈が通っているわけでない、そのイメージのディテールや質感によって繋がりあっているもの。モジュール。木の根っこ。エピソードとしては一見支離滅裂に見えても、施術の質を根拠にイメージのもつ質感の連鎖があるので、発想している当人にとっては至極真っ当なこととその瞬間感じられている。

1月30日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

そのおしゃべりを経て、私の中にまた即興のアイデアが浮かびました。まず、理屈でなく質感でイメージが連鎖する事。それはまさにぴったりでなく少しズレていても想像力が飛躍させてくれる。その事に期待して、自分にとっては支離滅裂にも思えるようなことを思い切って喋りながらやってみよう。語ったイメージは、ビニール袋、かさかさ、アスファルト、買い物帰りのネギ、ゆず鍋。これを、頭と顔に触れながら話しました。例えば寝る前に何かお話をせがまれて、思いついたものでお話を作ってその場で聞かせるみたいな、そんな感じでやりました。

そんな即興のあとのフィードバック。

即興の時、最初の話出しは地面にまつわるイメージが多いかも。前回の電車の時も。接地面(触れてる箇所)から演技が始まるから?だんだん地面から離れていって色んな主体やレイヤーがあった。
受けていて、ただ単純に触れられている顔を感じる時もある。最初は観客は与えられるものを待っている状態なので、その状態と地面というイメージの相性の良さはありそう。

受けていて、語られているイメージが誰のものか、主体が移り変わることによって、認識がぐにゃぐにゃする感覚。話されている内容によっては揉まれている自分を意識するような時間もあった。自分へのまなざしが近い、共感するような感じで聞けた時間もあった。

私(辻村)は、人が人に与えられる快楽には色んな種類があると思う。肉体的な快楽、もみほぐし、性的なもの、優越感。自分(辻村)の演技のお客さんには神性のある快楽を味わってもらいたい。

1月30日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

萌さんからのフィードバックを聞きながら私は、
揉まれている時の意識の在り様は、三者三様だというようなことを考えていました。
かぴさんは客観的にその状況を観察しようとしてる感じ、今宿さんはよりイメージを遠くへ飛ばそうとする感じ。施術とその人の距離感が全然違う。揉まれてるときの自分の主体がどうなっている状態が気持ちいいのかは、きっと人によって違うだろう。

今宿未悠さん


甘いカモミールティーと記念撮影

時間は少し戻り、1月中旬。場所は乗る場。今宿さんとの1回目の稽古です。
その日やろうと思っていた事は、他のお二方と変わらず
・これまでの事を話す。
・みじかめの施術を何パターンか受けてもらう
・デモンストレーションを受けてもらう
「どんな風に進めていくのがよさそうですかね?」とお尋ねすると、「あとから書くと編集や構成を気にしてしまうのでしゃべっていったほうがいい。」とのことだったので、もみほぐしの時間中は、お話の内容に私が相槌をするとかでなく未悠さんの喋るに任せて、それを録音させていただくことにしました。

・頭15分
赤ちゃん、海図、波、高等線、触れると茫漠とした身体、チョコ、はちみつカモミール茶、金魚

・足~腰30分
今宿さん:夢見てるみたいな、とちゅうまじで意味わからないことを言っていた。触られてはいるけど、自分の発想の方で遠くに行き、触っている人の事は考えない。独り立ち。飛躍。

今宿さん:もまれてるときに自分から出てきたことば、いきなり、とかの驚きの面白さではなく、「そういえばそうだった」という納得感がある。日常の中では沈殿していたイメージが引き出される感じ。あかちゃんの頭蓋骨とか、水の事とか。

今宿さん:パフォーマンスの受け手がひっかかるような言葉ってありそう
辻村:受け手がもまれてるときに考えちゃうって状態は、台本の上演で言ったら「これってどういう意味?」ってなってるって状態。
良い演劇って「これってどういう意味」とか考えない。見ているものに没入している。そうなりたい。
今宿さん:良い作品はその周辺で泳がせてくれる。
辻村:作品がわたしを束縛しない状態になるのがいいと思う

1月16日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

稽古の中で話しているイメージが繋がって、なんかできそうな気がしたので「背中の海」とでもいうよみほぐしの即興をしました。(6分ほど)
波打ち際から沖へ出て、沖の海の凪いでいる時間。私の下を大きな魚がゆっくり泳ぎ去っていき、そのあと銀色の小魚の群れが跳ねている景色のモノローグと施術。

2回目は1月の終わり頃。場所は三鷹の自宅で。

前日に修論提出、おつかれさまでした!の足湯から

この日はもちろん足湯の後で足のリフレクソロジーから。床なのでうつ伏せ大変かもと思いつつ背中。仰向けになってもらい、珍しくストレッチもしました。

・足リフレ
触れられた前と後での色の違い、血流、透明、老い、重力
側弯症でまっすぐな身体でいることがない。勝手にズレてく、戻してもらう、よりゼロポイントに戻してもらうもみほぐし、つねにマイナスの身体。今宿さんにとっての体のリアリティ。

・背中を広く触る
左右差。ニュートラル、イデア。均整がとれているような、正しい身体といものがあって、つまりそれは身体状態のイデア。ほぐしは身体のイデアに近づける行為なのかもしれない。平均の顔が誰からも好かれる。顔のイデア。
個人の身体は何かしらの偏りを持っている。たとえば、背面と腹側でいえば、体の前面は何かと社会の中でもえこひいきされがちだと思う。

・仰向けの足、ストレッチ
関節が過去一ぐにゃぐにゃです

1月29日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

そして、手のリフレクソロジーまで終えた時ふと、できそうな感じがしたのでそのまま即興をやらせてもらった。

・指でデモンストレーション
頭、手指だったら脈絡のない話をできそうと思った。
たとえば背中なら景色がダイナミックに浮かぶような、自分の背中が舞台になって話が展開しているような運びだと成立しやすそう。
部位によって性質が違う。その部位にあった発話や抽象度がありそう。頭とか手指は、精神世界の話してもいけそう。記憶とか感情。

1月29日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

長さを編集した関係で黒みの映像になっていますが、その時の録音です。(6分くらい)語られる話の抽象度が上がると、そこに登場する主語と聞いている人の意識はどう関係するのだろうという意識もありました。
終わってからの今宿さんのフィードバック。

デモンストレーションの中に出てきた「私」っていう言葉をどう聞いてた?
→今宿さん:私はいつもオフィスにいる、という言葉に対して具体的に風景として立ち上がるわけでもないし自分もオフィスにいる想像はしなかった。「わたしはいつもおふぃすにいる」という音として届いた。思考は停止していて音だけが入ってきて「そっかあ」となった。

指は先から根元に入ってくる感じ。背中は私で場が展開している感じ。
指は耳からも手からも流れこんでくる感じがあった。

1月29日のわたしの稽古記録用ドックスの引用

この日はもみほぐしを通してのおしゃべりの他に、ここまでの稽古を通して、もみほぐしを受けての発話の仕方が三者三様でとても面白いと思っている事をお話しました。すると今宿さんは、「それぞれが取り組んでるメディアの違いもあるかも。」と。なるほど。かぴさんが劇作家、萌さんが俳優、今宿さんが身体から受ける印象に影響を受ける詩人。それぞれの発話の違いが、表現のバックグラウンドにあるのでは。いや、どっちが先かはわからないけど。
今宿さん曰く「詩人の自分は、身体を始点にどこまで遠くまでいけるだろうか。ということをしている。ある出来事をきっかけに、そこから遠くへ遠くへ行こうとしている所がある。」
そうか、だから今宿さんは揉まれている時に一人でイメージを喋り続けられてたのか。
身体という事のきっかけは共通してても、内側の体験やアウトプットが3人とも全然違う。
もし私がもみほぐしという演技をしてるならば、3人は劇をどう見るかが全然違うということではないか。
違う体験を提供しようとしなくても、受け手側によってその人独自の体験が立ち上がっている。施しているもみほぐしの仕方はシンプルなのに。体験の受け皿が違えば、違う質の体験になっている。
お客さんにとっては、もみほぐしだったら受け取っている事の意味とか考えないから、劇みたいに見方の作法とか言葉の意味の分からなさで止まったりしない。
今宿さんは「詩を書いてて、メッセージとかない。詩を読んで読み手が自由に泳いで感覚がありありと感じたらそれが良いと思っている。」「詩は読み手の時間を縛っていない。客席や上演時間がない。詩は飽きたら閉じれるのが、詩を独りよがりじゃなくさせてる要因。途中離脱が可能。」と話してくれた。そう考えると本って自由だし、言葉ってすごいなとシンプルに思う。
劇場で演技をすれば目の前に観客がいたらその視線はどうしても感じちゃうし、またその視線に応えるべきという要請もあるだろう。

じゃあ、もみほぐしは?
もみほぐしだと、観客の目線は身体の内側を見ている。
そして接触面に舞台があり、どうやら皮膚の下や身体の内側で起きる体験はその人だけのものになっていくらしい。
どうしたらその自由さを損ねずに、かつイメージが遠くまで旅できるテキストにしていけるだろう。

そんな課題を携えながら、お三方との単語稽古は文章稽古へと引き継がれます。

🌸もうすぐ始まります!🌸

さて、ようやく最初の一歩、単語稽古の記事を書き終えたところで来週にはいよいよ「ほぐしばい~よみほぐし実践編~」の公演期間が始まります!
全42公演=42人限定公演です。
ご予約はまだまだ受付中!
日当たりのいい、春のうららのおぐセンに、日々のおつかれを溶かしに来てください!
※お客様のお身体に直接触れる接触型の作品です。作品の性質上、大きなお怪我やご病気をお持ちの方は観劇をお控えいただきますようお願いいたします。当日会場では俳優と一対一の形になります。あらかじめご了承ください。

■会場
おぐセンター2階
東京都荒川区西尾久2-31-1 
https://maps.app.goo.gl/7dcbFBcQsAKbvK956
Ogu Center
都電荒川線「小台駅」徒歩5分
JR「尾久駅」JR「田端駅」徒歩20分
旧小台通り 

■予約フォーム(シバイエンジン)
https://shibai-engine.net/prism/webform.php?d=sej7rjeg

■チケット料金
A:¥4,800
B:¥5,200
※券種の違いによる内容の違いはありません。お客様ご自身で価格をお選びいただけます。


■ご予約の時間においでください。上演時間はご入場からお帰りまでで約60分です。





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