「ほぐしばい~実話怪談編~」のつくりかた【キックオフミーティング】
6月に円盤に乗る場で開催されるNEO表現まつりでの発表を目指して動き出した、「ほぐしばい~実話怪談編~」
前回のnoteでは上演テキストの立ち上げについてレポートしました。今回からは演技の立ち上げに向けて重ねた、演出協力のみなさんとの日々について書いていきます。
はたして、「もみほぐしは演技に変換可能か」
「演技に見えるもみほぐし」とはどんなものなのか。
サロン乗る場までの「もみほぐしに見える演技」で定義した
・目的を定めて
・息を合わせて
・行為する
を辿る形ではなくなった、試行錯誤の記録です。
キックオフミーティング 中尾幸志郎さんと
キックオフミーティング、最初は5月12日。トップバッターは散策者の中尾幸志郎さんでした。
今回中尾さんにご参加いただきたいと思った理由。それは、サロン乗る場にお客さんとして来てくださった時のこと。そもそも中尾さんは、もまれながら、今まさにもまれている事自体について話をしてみたかったのだそう。コース中にはお体に触れながら色んなお話をしました。
その中で、特に印象的だったこと、いくつか。
「五感」というのもフィクションなのではないか、という話題が出ました。身体的な感受を、現在のエビデンスで説明できる範囲で解釈しているだけで、ほんとはもっと色んな感覚があるよね。感覚も切り分けられるようなものではなくて、互いに繋がってるよね。触れられることで触覚以外の感覚に作用が起こっている。
「右の腕に触れられた時に、懐かしい感じを感じた」とか。
だとしたら、触れずとも相手の身体に作用を及ぼすことは可能なのではないか。(植村さんの批評によればすでにそういった作品もあるそう)
なぜかもみほぐしを真ん中に置くと中尾さんとは話が途切れない。途切れないどころか、中尾さんから何か泉のように溢れてくるものを感じて、なんでこのテーマに対してこんなに溢れてるんだろう、もっとお話したいな!と思ったのでした。
さて、キックオフミーティングはオンラインで。
「もみほぐしは演技に変換可能か?」
「ほぐしばい、という見ているだけで体がほぐれる演技があるとしたら、それはどんなものか?」
という問いを軸に、私から今作のテキストについてと、それから主にサロン乗る場でのフィードバックからこの企画へ繋がりそうないくつかのトピックを出していきました。
というか、実際にはそれらは私にとってもまだ整理されておらず、なので、こうしたいっていうより、今こんな材料があるんです、みたいな感じで話を進めていきました。
その中でもとりわけ話したのはこの二つについてでした。
所有を撹乱する
二重性と「複数のダブル」
なんのこっちゃ。私にとってもまだ手触りしかない状態でよちよち言葉を探しながらのミーティングだったにも関わらず、中尾さんがまとめてくださったのが、こちらです。
今回は「ほぐしばい実話怪談の広場」というドックスを立ち上げ、
そこに稽古でのことを記録していきました。
最後の一文、辻村が混乱状態に陥っているのが理想、というのは
つまり、サロン乗る場のふるまいセクションでも試みた、
どこにも振り切らない態度ともいえるかもしれない。
四名の演出協力の方にご参加いただいた上で、その誰かを根拠に寄りかかったりしないような。テキストも含めた他者の存在に引き裂かれたまま本番を迎えたいと思っていました。
中尾さんとは、実際に触れていく施術時間の中に起こる体感や感覚的な話、また、接客も含まれるリラクゼーションサービスがもたらすものについてたくさん話したな、と思います。サロン乗る場からこの日までの一人の時間に考えたことを、初めてくらいに他の方に共有させてもらった日でもありました。
キックオフミーティング 涌田悠さんと
二人目のキックオフミーティングは涌田悠さん。わたしは2022年12月に吉祥寺シアターで上演された「千年とハッ」で初めて拝見しました。(同じく演出協力をお願いした田上碧さんとの作品です。)
ほぐしばいってのは、そのような名前がついていないだけで、実はまったく新しいものなんかではなく、すでにこの世に存在してるんじゃないかな。少なくとも私はその時見た「千年とハッ」に、客席に座っていながらたいそうほぐされたのでした。
お誘いしたきっかけは、カゲヤマさんとの会話の中で「一緒にやるなら、涌田さんはどうでしょう」と言っていただいたことでした。この辺のマッチングが起こるのは乗る場ならでは。
私自身、直接の面識はなかったのですが、涌田さんが乗る場で実践されようとしているWSのことを知り、もしかしてこれは近い感覚かもしれない!と思ってお声がけしました。
田上碧さんと涌田悠さんの「千年とハッ」youtubeに公開されてます!こう考えると、「千年とハッ」で実践されていた事には相当影響を受けていたのかもしれません。憧れでもあります。
5月13日の涌田さんとのミーティングは、こんなにするする伝わっちゃう?ってくらい、演技ともみほぐしで自分が考えていることを受け入れて頂いた感じがしました。
そして、今回のお礼の仕方についてのご相談の段になり、
辻村が涌田さんのワークショップのためのリサーチに参加する、という双方向ではどうでしょうか、というお話をいただきました。
ええ、、わたしも、、そうできたらな!って思ってました!!
何せ、涌田さんと私は稽古のために乗る場をキープしていた日程が同じで、午前中がほぐしばいの稽古、午後は涌田さんのリサーチ。という感じ。お互いがお互いの稽古に参加する形なら、丸一日かけて共通している感覚を探求できそうですね!わーい!ほくほく。
キックオフミーティング 浅倉洋介さんと
浅倉洋介さんは、今回唯一、乗る場でない所から演出協力をお願いしました。2022年12月ドナルカ・パッカーン「オッペケペ」で共演して、その後もご出演の作品を拝見したのですが、とにかく長台詞がめちゃめちゃよく聞こえるのです。(知ってる人には言わずもがなですが)
難しい政治的なこと喋ってても、浅倉さんが喋るとよく聞こえる。
ある日、なんでそんなによく聞こえるんでしょうか?とご本人に質問したところ、「現文だったら灘レベル」というパンチラインが出ました。つまり、国語の現代文がすごく得意、ということですね。
セリフ劇にとって戯曲読解って生命線でもあります。しかもそれを自分が扱える(内面化できる)レベルでの咀嚼ができなければ意味がない。
浅倉さんは、それが早くて細かい。言葉を細かく味わい分けて、意味を体に映してる。多分考える前にやっちゃえるんだろうなあ。すごい。私は戯曲読解にすっごい苦手意識があるので、そこを担ってもらえる方にぜひご参加いただきたい、と。
それからもう一つ。
私はほぐしばいをソロパフォーマンスとして完成させたいわけではなく、あくまでもその演技の手法をセリフ劇の作品世界に応用させたい。つまり、まったくのセリフ劇を見に来ていたつもりのお客さんを、いつの間にかほぐしたい。ほぐしばいそのものを見せたいわけではなく、あくまでセリフ劇の俳優としてその技術を使っていきたいと思っています。
そこに向けて、セリフ劇を中心に活動している人の目線が欲しいなと思いました。パフォーマンスになりすぎた時にはっきりと「それはわからない」と言ってもらった方が良い、と思っていたのでした。
みたいなことを、5月18日のミーティングではまずお話しました。
実は2022年6月の円盤に乗る派「仮想的な失調」の幽霊役を演じている時、ほんの短い時間ではありましたが、お客さんを揉めそうな感覚を味わったのでした。観客一人ずつというより客席の上にあるような「客席の空気」のようなものに触れる感覚。
すごい小さい声、存在を無くす、8割余白の幽霊役だったから出来たというより、一度血肉化(内面化)したテキストを、もう一度他者として引き離すようなことをしていました。
発話の内容に自重がかかって、自分の(役)の言葉として喋りそうになる度、その瞬間瞬間に、言葉と自分の間に生まれた重力を「切る」ということをし続ける。
浅倉さんはそれに対し、今回のテキストはそもそも本人役ではなく聞いた話で、血肉化(内面化)しようにもそもそも距離があるのでは、と。
でも、距離がある言葉をその客観性のまま発話するのは何か違うような気がする。引き離す、その運動がポイントなんじゃないか。
それならば、文章の中のイメージを細かく見ていって、自分にとってのテキストの情報量を増やすのはどうか。じゃあテキストを細かくイメージするってのを最初の稽古でやってみよう。となりました。
私は演劇を通してお客さんと物語を共有してみんなを感動させたい、というよりも、お客さんが客席でいい感じに一人になれてたら、それはほぐされへの足掛かりになるんじゃないかなと思っていました。
というのは、私自身は、観劇中に「ああいいなー」って感じてるときって、少しだけ孤独を感じている気がしていて、それは、日常に溶け込んでいた自分の輪郭が浮かび上がっていい感じに一人でいられてる感じ。そこに潜って浮上してこれると、客席を立つときにはなんだかリフレッシュしています。
実在のホメオパシー。日常の自分には強すぎる事をほんの少しだけ自分の中に入れて、その効果で健康を取り戻すようなイメージです。
これはサロン乗る場のふるまいで、渋木さんと話していた事と繋がっている感じです。
「ここでやっとかんと絶対ぶつかるから」
ほぐしばい、と名前を付けてしまっているけれど、これは自分が俳優として自分なりに納得できる演技の仕方を見つけようとしているプロセスなのだと思います。
どこにいっても、自分なりにこれがある、と軸にできるような感覚を、クライアントワークではない場所でしっかりと養っておきたい。その必要を強く感じている。他者の方向性を引き受けつつ、自分のこう在りたいも両立させられるようになりたい。
オンラインでお三方とのキックオフミーティングを終える頃には、サロン乗る場ではなかった、泥臭い自分を感じたりしていました。
なんかどうしても真剣になっちゃう。やーね。
ライブやばったり会ったりで 田上碧さんと
ヴォーカリストの田上碧さんは、サロン乗る場の味覚でもお世話になりました。今回はエピソード協力でもご参加いただいています。
三人に演出協力をお願いした後、もう一人いてくれたらいいな、と思って、それなら碧さんに!なにせ碧さんはヴォーカリストです。声や声を出すことをずっとやってらっしゃる方にご参加いただけたら心強い。もはやこの企画の御守り、みたいな気持ちでお願いしました。とはいえご多用の中でしたので対面稽古ではない形で何か。
と思い、今回はLINEのやりとりをベースにした「往復書簡」を行うことに。
そんな中5月18日の夜、碧さんのやっているバンド、ガラグアのライブが八丁堀の七針であるってことで出かけてきました。
この日はもう一組との対バン(?)ライブでしたが、もう気持ちよすぎてなんも考えられんくなった~!!というのが一番の感想。
ライブの前のやりとりで碧さんは「今回は音が大きいのがどう作用するか」と言っていました。たしかにそれまで聴いたことあった碧さんのライブよりも、ガツンっ!って感じで、かっこよくて死ぬかと思いました。
碧さんの首の太さと時として浮かぶ喉の血管の物質性にぐっときた。いかちい。練られた筋肉はそれだけで目が離せない。
歌う前の、声のチューニングの時間いいな。チューニングの中の猿や鳥の声みたいな音もよかった。言葉を話す以前の音。
俳優は言葉と声の距離が近すぎるから、声が体から出る音だって思い出してハッとしました。音やら何やら、色々入れたり発したりしてる機関としての体。身体の持つ物質としての強さが音の振動の強さと重なって、とにかく官能の時間でした。
音楽はその瞬間に生まれてる。いつも新しく生まれてる。その前の瞬間まで何もなかったところに表れてそれをみんなで共有してるんだ!シンプルで、でもそれってすごい現象だなってびっくりした。
セリフ劇ももっとそうなれたらいいのに。
音楽が生まれるて、体に染み込んで、そこからふわっと離陸するように自分の内側に入っていく感じがあって、
体はここにありながら昔の記憶とか、行ったこともない場所のイメージが浮かんだりした。この経過はもみほぐしにもある。
セリフ劇ももっとそうなれたらいいのに。
お客さんの拍手が、ちゃんと曲を浴びたあとの感じがしてすごく良かった。みんなが音楽に感応して、まるで曲の続きみたいな拍手をしていた。
その後5月25日に、碧さんと三鷹でばったり会って(同じ劇を観に来ていた)その後先日のライブの感想を伝えたり、その日観た劇の感想を話しました。
演劇と音楽はメディアとしての違いがあるから、同じ声や体を使うものだけど一概に並べられない事。
ビートがあること。その日観た劇(三鷹scoolで山本卓卓さんの「キャメルと塩犬」でした)の演技が、演じ分けをかっちりさせていない、演技の歌、みたいな感じがしたこと。セリフを歌うってのはよくネガティブな意味で用いられるけど、そういうのとも違う。歌うように演技、できたらいいなあ。
と、ここまでが対面の稽古に入る前のことでした。
最後までお読みくださってありがとうございます!
次回は、稽古一周目!
6月の頭から、中尾さん→涌田さん→浅倉さんの順番で行った対面稽古の様子をレポートします。