「ほぐしばい~実話怪談編~」のつくりかた【稽古二周目 中尾さん→浅倉さん→涌田さん→田上さん】
6月に円盤に乗る場で開催されるNEO表現まつりでの発表を目指して動き出した、「ほぐしばい~実話怪談編~」
前回は演出協力のみなさんとの一周目の稽古でした。
今回は、乗る場でおぐセンターで。演出協力の方々お一人ずつと二周目の稽古を行いました。
はたして、「もみほぐしは演技に変換可能か」
「演技に見えるもみほぐし」とはどんなものなのか。
サロン乗る場までの「もみほぐしに見える演技」で定義した
・目的を定めて
・息を合わせて
・行為する
を辿る形ではなくなった、試行錯誤の記録です。
二回目の稽古 中尾さんと
■→中尾さん
◯→辻村
※note掲載にあたり、稽古の記録に加筆しています
ーこれまでの稽古の積み重ねを含めて通して読むー
■テキストの存在をすごく感じた。
■前は、鎖骨や足の動きの物質性を気にしながら見ていて、床の振動や肉体から自分に伝播する感じがあった。
■テキストの(イメージと解釈の)解像度が上がっているからか、辻村からテキストへの矢印が強くなっていた。しかし、演者→テキスト(がテキストをどう受け取っているか)の矢印が強くなっても、観客の自分はその回路がどんなものかを知り得ない。何かが起きているとこは見て取れてもそれが何なのかわからない。
■そのせいか、辻村を見ていることへの没入は弱くなった。
■そのため、見ている体感として演者から来る圧が弱くなった。
■演者が座っている所からちょっと離れた所にある紙(カンペ)を見る動きは、それまでに醸造されてしまった何かを破る感じがしてハッとした
■前回キーワードだった、「体のどこかを思い出している時は、同時に何かを忘れている」という二重性が弱くなってた
→〇テキストのイメージやパフォーマンスの際に気をつけることの解像度が上がったので、自分のしていることがコントロールの範疇になった、むしろ、自分が掌握できる程度に矮小化していたのかも。
■椅子にちょっと触れている時、足の裏が見える時に、よさ感じた
■ずっと動いているものは見ちゃうけど、その視線の奪い方は権威的ではない。
→■MJ(マイケルジャクソン)のライブの冒頭で全然動かない5分。場を掌握し続けている。
→■スター性やっぱマジ大事かも。
→■今の演技は、自然にその場に合っている。勝手に見てられる。しかし、スター的ではない。
■話と話の間の息の音。呼吸。
→その人の理屈で場が作られる→スター性
■観客がパフォーマンスのどこを見てるのか掌握しているMJ。観客の視線をコントロールしている
■それはある意味、見る事の自由を奪うことでもある。そこに集うみんなが、その時の主導権に見せられているものを見ている、という統制。
■スター性に絞り込むというより、その要素も含めた二重性。
〇前回読んでいる時自分は、浅倉さんの空気(客席の空気)を感じながら読んでいた。しかし私はそれを体のどこで感じ取っていたのだろうか。わたしはスターではないが、観客の息を読むという経験が全く無いわけではないようだ。
■MJが次のキューを出す、その瞬間はどこで何を感知しているのか。空気?
■自分が相手にする空気、というものを、テキストと同じくらい大きく扱ってみる
■静止・呼吸。テキストに従属する呼吸ではなく、
→〇テキストだけでなく、別のものも読む。テキストと空気を二重に読む。
■占いみたいな読み。つねに二重に、同時に、平行に読む。
ーマイケルジャクソンの動画を見るー
■MJの動きはドローイングというよりポージング
ーモー娘。の動画を見るー
〇お客さんと出会う前にお客さんを想像出来ているのがスターなのでは?
■観客のモードをつくっていく。次のムーブを先に作ってそこに慣れてもらう時間。MJの変な衣裳。その瞬間観客にとってはセンセーショナルだが、スターにとってはすでに設計が済んでいる、自分の新しい皮膚を観衆に共有させる。次のムーブはこれでいく(ついてこれるよな?)それを見慣れさせるための時間。
■窃視性。見る側の暴力性。と、スター性はそうじゃないところを制作している。動物園の動物ではない。見られることを先んじて設計している。
〇施術の触覚と客席の空気を感じるのと感じが似ている
■施術服。異能な施術にもっとも適した服。
〇異能な施術では、わたしは何を使うのだろう?手技?演技?異能な施術者、という新しい仕事。それを着ている間は占い師。能力を活性させる布。純粋な機能性だけではなくコスプレ的な所もあるのでは?
■辻村の感覚を経由して観客は体験する。
・体に線を描いてみた
■座っての朗読にイスを使うと「座っている人」という全体性が出てしまう
〇しかしパフォーマンスの中で立ってる高さだけでなく、低い位置も使いたい。イスとかでなく、よくわからないサイズ感の木の箱とかが置いてあるといいイメージ
■紙、イス?物質と辻村の肉体の接地面を通して観客が感じるものもある
ー紙どうしよう問題ー
・手に持ってることも表現になってしまう
〇トレーシングペーパー、柱に貼るとか
ー施術をするー
・エピソードごとに辻村が持っているイメージを施術に置き換えて受けてもらった。
・エピソードを並べて施術チャートを作る
・ライブのときのスターは何をしてるんだろう?そのイメージを触り方に置き換え「スターの手」を演じてみた
■ほぐしばい、もみほぐし、パフォーマンスどう統合してどう新しい演技体を?まさにいま両方やっている。その時にどっちかに無理が生じる。良い施術というのとはちがう触れ方が生まれた。
パフォーマンスの極致がスター(のパフォーマンス)↔対局が(匿名の誰かの)ほぐしだとしたら、今はほぐしの側から拡張してパフォーマンスに近づけていく。
■スターの手を演じてみたことによって、施術の拡張が起こった。
〇良い施術だけでは、演劇はおもしろくないかも。色んな触り方の可能性。
■あざとい、ベタに行くのも有効
帰り道に否定から始まる彫刻の話をする
■彫刻は、すでに目の前にごろっとある素材の形を削ったりすることによって違う形にしていく。それはつまり「今の形は作品の完成ではない」と、目の前にあるものを否定する事から始まる行為、と言える
■もみほぐしもまた、「固まっている体をそうじゃなくする」という意味において、目の前に今まさにあるその人の体の状態を否定することから始まっていると言えないだろうか
髪を切ってかりあげにした
中尾さんとの稽古を経て、思わず目がいってしまう髪型にした方がいい!という思いが高まり、その翌日、襟足をけっこう刈上げました。
二回目の稽古 浅倉さんと
■→浅倉さん
◯→辻村
※note掲載にあたり、稽古の記録に加筆しています
ー触れながら読む稽古ー
・前回中尾さんとの稽古で着想したもみほぐしチャートを整理して作った、通称「もみ譜」(テキストを施術に起こすと辻村はどんな感触をイメージしているかを図説した、スコアのようなもの)をもとに、浅倉さんの体を借りて頭から触れてみる。
途中、施術の再現が追いつかないところは止めて、読みながら触れ方を検証しつつ一時間くらいかけて終わりまで実践。通して読み1周目。
〇あざとい触れ方(相手をいかにも気持ちよくさせようとする、日常ではしないようなプロっぽい手つき)は恥ずかしくて途中めげかけた。自分のあざとさや王道さへの抵抗感は、姿を目視されているかどうかの問題ではないらしい
ーおぐセンで稽古ー
・おぐセンに移動。まずはアクティングエリアにするつもりの場所を眺める。
・最初から読んでみるが「いるようないないような」あたりで息切れ
・やってたこととしては、粒の体になって読む、耳を開く、外でしている様々な音を聞く、もみ譜稽古での触れた感じを声に写していく。(写していこうとする)
・椅子的なものを置くのではなく、柱を使って空気椅子をする(もみ譜では大腿部を圧迫する「そのような感じ」のあたりで実践)。
・柱の間の空間を使う(「いるようないないような」)
2周目の通し読み
・浅倉さんとぽつぽつ喋ってたら、体が徐々におぐセン二階の空間に馴染んできた。あ、今だな、と思った瞬間、おもむろに2周目を開始。今度は最後まで読めた。
◯「この感じ」は客席側に回るなどのあざといアクションがあってもよかった。
◯スター性は「電話ボックス」「写真」で発揮できる?
いわゆる怪談っぽい恐怖エピソードではわかりやすく情感を込めるような雰囲気があっても。
◯常時、乗る場でもみ譜で通しをしたときの手の感触を、粒の体と声に反映させる意識。
◯もみ譜、やってみて思ったが、やはり自分が過去の出演作でせりふを覚えたり演じたりする際に感じていた感覚をエッセンシャルに取り出す行為なのだと思う。聴覚や言語の感覚(特に口調や言葉の持つリズム)が私にとっては触覚と分かちがたく繋がっていたのだと思う。
〇せりふ劇の現場だと、テキストから受け取る触覚性を演技に反映させると、普通の人間を演じているように見えないので抑制がかかっていたが、やはり自分は言葉から受け取る触覚性込みで演劇を見ていたし台本を読んでいたのだと思う。しかし、既存の演劇教育の中にそれを演技に取り入れる方法論はなかったし、だから色々教わった中に自分の感覚にしっくりくるものがあまりなかったのにも妙に納得できた。
(その中でも目の前の挙動への感度を細かくしていくマイズナーテクニックは相性が良かったのにも納得。)
〇私が思うままに演技すると、どうしてもそこに触覚的なものが反映されていたから、その役として発話してほしいと指向する演出家と(フィードバックの言葉の上で)齟齬が起きていたのにもようやく合点がいった気がした。
〇自分がヴォイスの授業を受け持つときにもおそらく声の感触に由来する指導をしているのだと思う。(共感覚が強くていわゆる普通の滑舌練習がしっくり来ないという生徒さんからの相談をしばしば受けていた)
〇例えば「下駄くんの実家は~」の瞬間に客席の息をスッと吸いこむような感じや、「電話ボックス」で「私が高校一年のころ~」と話し出すときのいかにも怪談の話し出しのような声色に、中尾さんと検証した、視線を掌握するような感覚を用いてみた。あざとさに恥ずかしさも感じたが、観客の息を掴む感覚というのはたしかにあると思った。
〇お客さんは浅倉さん一人だったが、それでもテキストと同じ大きさで矢印を向ける何か、を、とても感じていた。(いい俳優はいいお客さんにもなれるんだなと思った)それは、口の中にいれるような感触だった。(咀嚼や舐めるとも違う、まさに口の中にいれてその形を確かめるような感覚。息を吸う時に入ってきて、吐くときに応えるような感じ。)どのくらい現実化できていたかはわからないけど、そんな感じだった。
〇舞台から感じる客席の空気ってなんだ?一人ひとり?私はどこを指して「客席」と言っているのか。
・帰りに浅倉さんが「お客さんも粒にしたら」と言っていた。そうか。今のところ涌田さんとの稽古で頂いた「お客さんと自分との間にある空気を通じて」あるいは「お客さんも含む世界に対して」というアイデアを杖にしていたが、もしそれが「お客さんという粒を含む世界」だとしたら。と想像が開いた感じがした。そうだとしたら、もっと柔らかく軽く、世界とお客さんに触れることができそうだな。と思った。
〇帰宅後、夫と話した。ほぐしばいの取り組みは結果として俳優としての自分をよく知ることに繋がっている。
■紙、柱に貼ると柱と向き合っちゃう→観客・世界に向いている感じではなくなる
◯紙、やはり持ってる方がいいな→言葉が演者の外部にあり、なおかつ紙の存在が上演の一部を担っているように見えるといい。
PARAのキヨスヨネスクゼミ「声で他者をうつす」に通う
6月の頭から通っているキヨスゼミ。(今年最大の課金かもしれん)
休み時間にヨネスクさんに、もみ譜を見ていただく。
■単語の発声が体の特定の部位に何かを感じさせることがある(例えば、土から出てきた骨の感触は背中に。木を割る音は肋骨に。)という話を聞く。
〇もみ譜、エピソードの印象や手触りを施術に置き換えているが、意味的・ドラマの盛り上がり的なスペクタクルに感触を感じているが、もっと解像度をあげて単語や一文字ごとの子音と母音のイメージを感じてみようと思う。
ここまでのもみ譜は浅倉さんが某演出家からの又聞きで教えてくれた「誤読」という言葉に大きなヒントを得ているが、物語の流れから得られるイメージに、さらに発話時の口腔内の形状のイメージを重ねたい。で、その上で中尾さんから頂いた、テキストともう一つ読むべきものをもつ(実際演技をする瞬間は、テキストの意味に埋没しない)という状態を実践したい。
二回目の稽古 涌田さんと
■→涌田さん
〇→辻村
※note掲載にあたり、稽古の記録に加筆しています
・もみ譜でよむ
・涌田さんに施術台に寝てもらい、もみ譜とテキストを見ながら触れながら読む。
〇終わったあと涌田さん笑ってたな、、笑
〇浅倉さんとの稽古で行きつ戻りつやったのをなんとか形を整えて通した!という感じ。
■具体性。触れてる箇所が言葉とリンクしてると景色が立ち上がる。森があらわれたり
■読み聞かせもみほぐし演劇の需要あるかも
■観客にとってはほぐされてる体と聞こえている物語が重なっている状態
■意味より、発話される音の形や言葉の持つテクスチャーに作用される感じ
■聞き手と話し手の共犯関係
■色んな所から喋るから立体的。近さ・遠さ・耳元・足元。人力アトラクション
〇今回やった「もみ譜」読み、観客にもやってみたいかも…一対一のほぐしばい原体験みたいな。もみほぐしと演技の両生類。→「よみほぐし」
・おぐセン二階で読む
おぐセン2階の空間に挨拶
通して読む。本番も、最初の時間は声と体のチューニングに使ってよいかも
■基本、四本の柱の間の平行四辺形の中というのはよい。空間が制限されることによりちょっとしたことが驚きをもたらす。怪談には合ってる。空間が狭い事によりかえって想像が広がる。
■ちょっとしたアクセント的なアクションはあざとさとして箇所箇所で入れるのも面白い
■「この感じ」基地の時に客席を回っていく動き、もっと効くやり方がありそう。平常四辺形の空間を見立てのように使ってしまうことで、お客さんの想像が限定されてしまうこともある。
〇見立てで動くとテキストより先にドラマを説明することになり、それが結果としてお客さんの想像を狭めている?ほぐしばいで観客が使う想像力は、テキストの情景の範囲を超えて広がっていける可能性がある。
〇あらかじめプランした見立ての演技よりも、その時している動きに対して、辻村自身が納得感を持てているかの方が大事。
■プロローグ前に空間にあいさつ。お客さんも含めた世界を感じる時間
■気合いれるとかのスイッチングなしで、スッとはじまるのいいね
■読み始めは、まだ空間の集中も分散してる時間。
■もみ譜由来の手や体の動き→引き算してもいいかも。感覚はそのままに動きは納める。
■おぐセン二階でパフォーマンスするということはハレとケが共存している感じ。1階の食堂や外から聞こえる日常の音と、柱の間が舞台という非日常だったり、読まれている非日常の話。
対面稽古 田上さんと
■→田上さん
〇→辻村
※note掲載にあたり、稽古の記録に加筆しています
・もみ譜で読む
・碧さんに施術台に寝てもらい、もみ譜とテキストを並べて触りながら通して読む
■弾き語りに似てる
■自分の体感を二通り(うたとギター)で表してる感じ
■どっちかだけ(声だけ、とか手の演技だけ)になったときどうなるのかな
■施術台にうつ伏せで何も見えないのがよかった。声が添い寝CDみたいな効果。
■言葉のイメージが強いと目をつぶるほうが合ってる自分がいる
■演劇って目を開けて見るように作るんだなー、むずい
■触覚と音は近い
■上演のときにも何か狙って聞かせる音あってもいいかも。衣擦れとか。
〇紙を置く音つかえないかな。
■ばらばらの色んな話やってるんだ!ってわかるまでお客さんは時間かかるかも。タイトル最初に読むのは安心して聞けるかも。フォーマットというか枠組みの形がわかると聞きやすいかも。
〇通しで一部だけでもタイトル読んでみようかな(例)「謎の贈り物」と「いるようないないような」
■これってつじこさんは何者なんですか?
〇そうなんですよ、何者かわかんない
■自分のはなしじゃないってことが共有されてるから聞きやすい
〇人称があいまい、所在があいまい、また聞きというのは今回のポイント
■体が広く感じられるのってほぐれてる感じがする。マッサージは自分の広さを教えてもらう時間かも
◯碧さん初対面。ここにきて初めて合流というのがありがたかった。稽古の序盤に出てきたキーワード、「又聞き」や「二重性」についてあらためて話しながら振り返る事が出来た。
・記録めっちゃ書いてるのは、自分一人でやってるので自分が忘れちゃったらなくなっちゃう。今後この活動を展開していった時に、他の人にプロセスを開示できるために、できるだけ残しておきたい。
・「創作プロセスの開示は大事」という考えは、辻村が参加してる架空の現代演劇協会での話で山本卓卓さんが話していた、
「作家はもっと創作プロセスを公開して自分が何をしているのか説明した方がいい」という話が元になっています。
・今後ほぐしばいは、朗読→一人称の一人芝居→二人芝居→3人芝居→外部出演、と展開していきたい野望がある。
いよいよNEO表現まつりが近づいてきたぞ
二周目の稽古を終え、いよいよゲネ、本番が近づいてきました。
本番が近づくと、ついムキになってしまうような所が自分にはあると思っていたのですが、今回はなんか、演出協力で来てくださってる方々と同じような距離感で自分が作品の話をしているな、と思いました。
自分の企画なんだけど自分のものでもない不思議な感覚。
真ん中にまだ誰も見たことがない「ほぐしばい」という大きな空白があって、それをみんなで見ようとしているような。
作っている自分でも、それが一体何なのか、積みあがってはいるけど、わからない。その謎の空白地帯にお客さんが自由に出たり入ったりできるような作品になるといいなと、この頃、思っていました。
次回はついに、まつり突入!そしてその後7月に行われた友田とんさんとのイベント「肩こりが治る小説×ほぐしばい」でのこともレポートできたら!