ヤジって必要?アド街早稲田の回で考えたこと
いつも平和に観てるアド街ですが、前回からもうすぐ1週間だけどまだもやもやしてることがあるから書きますね。
総理大臣を5人排出したとあるサークルの紹介で、弁論する学生にまわりの学生たちがヤジの嵐。「最初は泣きそうになりながらやってましたが今は慣れた」という学生。
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いや、そうだよね、国会ってヤジすごい、むしろ名物くらいの印象あるけど、じゃあなんでヤジが必要なんだろう?強靭な精神力を培うため?
人の話は最後まで聞きなさいと言われ、割り込むな、話を盗むな、と、「よくないこと」として育ってきた上で、なぜヤジなのか?
では、ヤジに打ち勝てねば自分の思うこと、大事だと思う主張を話すことすらできないの?萎縮する人は発言してはならないと?反対勢力は意地でも潰して自分たちの正義を貫くため?それとも言葉を記号としか捉えてない魔族なの?
歴史的な何かとか調べてなくて思ったことだけ書いてるので、「だからヤジが必要」という論理を純粋に知りたいのでした。
ヤジ前提で、ヤジに対抗すること、そういうひとたちがもてはやされ大人気でトップクラスの学舎のすてきサークル的に紹介されていることに、強烈な違和感を持った、というお話。
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