『イタい女』 1
「お前は部下に、厳しすぎるんだよ!」
隣で酔っ払った上司が、酩酊しながら自分に対して忠告してくる。その奥で泣いてる女が、周りの同僚に囲まれながら慰められていた。
忘年会も終盤に差しかかったころ、少し離れた場所で飲んでいたはずのメンヘラ女が、どういうつもりなのか、とつぜん酔った勢いに任せて、俺の隣の席に移動してきた。手には自分のグラスを持っており、注文してからだいぶ時間が経っているのだろう、飲みかけのグラスの中で、半分ほどに減ったカシスオレンジと思われる液体が、完全に溶けきった氷と混ざり二層に分かれていた。
「一緒に呑みましょうよ〜♡」
そう猫なで声を発しながら、徐に近寄ってきたメンヘラ女が、ちょうど俺の隣に座っていた同僚を押しのけ、図々しくからだをねじ込んでくる。彼女が割り込んできたせいで、俺の右隣の席が、必然的に一つずつズレることになる。
「お! 熱いね〜。お二人さん!」
それを囃し立てるように、周りの同僚が面白がって、無責任な野次を飛ばす。
「もう! やめてくださいよぉ〜! 大澤さーん!」
その言葉に、女がまんざらでもなさそうな表情を浮かべながら、茶化す上司に対し嬉しそうに抗議する。半ば強引な席替えを強要され、こちらが苦い顔をしていると、それを勘違いした上司の大澤さんが、
「浅野くんは、モテるね〜」
と、追い打ちをかけるように、無責任な合いの手を入れてくる。
緊急事態宣言明けの久々の職場での飲み会ということもあり、みんなふだんより気分が高揚していたのだろう、同僚たちのその言葉に調子に乗って悪乗りする。幾ら無礼講の飲み会の席とはいえ、その被害者になっている自分からしたら、あまり気分の良いものではない。
「浅野さん、全然、呑んでないじゃないですか〜」
周囲の冷やかしに気が大きくなったのか、ただ酒癖が悪いだけなのか、勘違いしたメンヘラ女が、俺の耳元で甘い声を囁きながら、胸が当たるか当たらないかの距離に、厚かましくからだを寄せてくる。
「あ、まあ、帰りもあるので、てきとうに……」
正直、飲み会という行事があまり好きではない。ただ、職場の雰囲気を悪くするのも気が引けるので、一応、一次会だけは参加しているというだけだ。はっきり言って、一人で宅呑みするほうが、ずっとマシだった。
「え〜、せっかく、みんなで飲んでるんですから、もっと楽しみましょうよ〜!」
調子に乗った女が、そう言って、自分の腕を絡めてこようとする。
それとなく女の腕を払いながら、
「あ〜、自分、こういう集まり、苦手なんですよね〜」
と、てきとうな理由をつけて、悪絡みしてくる女からからだを遠ざける。
マジでウザい。声を聞いているだけでも虫唾が走るのに、それを真横で聞かされ、その上、からだまで密着されているせいで、幾ら怒りを静めようとしても、自然とイライラ込み上げてくる。
「あ〜、ちょっと近いんで、もう少し離れてもらってもいいですか?」
場の空気を乱すのもどうかと思い、こちらがやんわりと拒絶すると、
「えー! 浅野さ〜ん、冷たくないですか〜? 仲良くしましょうよぉ〜!」
それを狙っていたかのように、わざと周囲に気づかれるような甘い声を出して、自分の存在をアピールしてくる。そのあざとさに、これまで虫唾で済んでいたものが、吐き気まで込み上げてきそうになる。
「おいおい、浅野! そんなに冷たくしたら、彼女が可愛そうだろ! 恥ずかしいのはわかるけど、もっと優しくしてやれよ〜」
その光景を端から見ていた上司が、まるで他人事のように、そうふざけてからかってくる。
「そうですよ〜。もっと仲良くしましょうよ〜」
こちらの気も知らずに、それに調子づいた女が、上司の言葉に便乗して、酔った勢いに任せ、強引に抱きつこうとしてくる。
その瞬間だった。
「おい! 近寄んな!」
その怒号に周囲で雑談していた同僚たちが、何事かと一斉にこちらに顔を向け、自分とメンヘラ女を注視してくる。
自分の身に降りかかったことなのに、女も何が起きたのか判らないようで、我を忘れて顔を硬直しさせていた。完全に思考停止しているのか、こちらを見つめたまま、瞬きすることも忘れて、きょとんとしていた。
人の話し声と陽気な笑い声で賑わっていた場の空気が一瞬で凍りつき、お通夜のように静まりかえる。たった数秒間のことなのに、誰も言葉を発しようとしないせいで、居心地の悪い沈黙が、やけに長く感じられた。
そして、しばらく時が止まったような空白の時間が流れ、周囲の同僚たちが事態の深刻さに気づきざわつきはじめる。
「まあまあ、今日は無礼講ということで! ね! 楽しく飲みましょう!」
漸くことの顛末を理解したのか、上司の横に座っていた同僚の坪井さんが、無理に明るく振るい、どうにかして場を和ませようとする。
「浅野くんも、ね! ほら、顔が怖いよ〜!」
それに遅れてやっと状況を飲み込めたのか、その言葉に隣で放心していた女が、これ見よがしに泣きはじめる。
同情した周りの男どもが、
「まあまあ、ね。ほら、泣かないで〜」
と、その女を宥めようとする。
だが、一度スイッチの入った女の感情は止められず、周りが宥めれば宥めるほど、徐々に声が大きくなる。すすり泣きで済んでいたものが、隣の座敷にも聞こえそうなほどの号泣へと変わる。
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