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『疾風』


 前方の地面から吹き上げてくる雪が、フロントガラスを舐めて、後方へと踊り去っていく。ついこの間、夏が終わったとばかり思っていたのに、もうすぐそこまで、冬が迫ってきていたなんて……。

 一一月下旬の早すぎる初雪を前に、周防は胸を高鳴らせていた。

 自宅のある千歳船橋から車を走らせ、首都高、東関東自動車道を経由して、約二時間近く、周防はぶっ通しで運転していた。

 あまりにも無心で運転していたせいか、気がつくと千葉の山道を走っており、周防は自分の辿ってきた道程さえも、曖昧にしか思い出せずにいた。

 実際に周防が運転していたのは、間違いないのだが、その間の記憶がスッポリと抜け落ちているせいで、最早、周防自身が運転していたというよりは〝ナビに周防が運転をさせられていた〟という方が、当を得ているように思える。

 さっきから、迫ってくる暗闇を避けるように、ヘッドライトの明かりが、目の前の山道を照らしていた。

 もしここで、周防にふと魔が差し、ヘッドライトのスイッチを切ったとする。前方から景色は消え、墨汁で染めたような漆黒が現れるのは、言うまでもない。

 闇の中を走行する車内には、粉雪が車体を打ち付ける、コツコツという乾いた音と、車自体が放つエンジン音が、外観から切り離されたように、響き渡るだろう。

 そんな子どもじみた想像が、周防の好奇心に掻き立てる。そして、その誘惑に負け、周防がヘッドライトのスイッチに、手を掛けようとした瞬間、

「ねぇ、ところで今どの辺?」と、今まで後部座席で眠っていたはずの量子が、とつぜん運転席と助手席の間から身を乗り出し、不意にそう尋ねてきた。

「あれ、量子さん。寝てたんじゃないんですか?」

 まるで隠し事でもするように、周防はヘッドライトのスイッチに持っていきかけた手を、そっとハンドルに戻した。

「あ、うん……」

 量子はそこまで答えて、なにかの異変に気づいたようで、無言のまま後部座席に引っ込む。

「うわ! ねえ周防くん。雪降ってるよ。雪! ねぇ、見て! ほら!」

「ほらって、さっきから、ずっと見てますよ」

 バックミラー越しに後部座席の様子を確認すると、量子が窓ガラスに張り付いて、はしゃいでいるのが見えた。二〇メートルほど先に急なカーブがあり、シートベルトも付けずに、はしゃぐ量子に、周防は、「ほら、あんまりはしゃいでると、怪我しますよ」と、まるで子どもを躾けるような口調で忠告する。

「え?」

 とつぜんのカーブの揺れに、量子のからだが大きく揺れる。勢いで額を窓ガラスにぶつけそうになり、腹立ち紛れに量子が、「ちょっと、危ないじゃないの!」と、運転中の周防に八つ当たりする。

「だから、言ったじゃないですかぁ!」

 その忠告を聞かずに、量子が後部座席から身を乗り出してくる。

「ちょっと、子どもじゃないんですから!」

 年甲斐なく無鉄砲な行動をする量子に、周防が呆れて窘めるが、こちらの言うことなど耳に入っていないのか、「大丈夫よ」と、強引に助手席のシートに移ろうとする。そういった子供染みた言動の数々が、どうしても周防には量子のことを年上とは思えず、年相応に接することのできない要因の一つではあるが。

「ちゃんとシートベルトしてくださいよ。またさっきみたいになりますよ!」

 老婆心で忠告し、先に釘を刺しておいた。

 窓の外に目を向けると、さらに雪が強くなり、薄らと路面に積もりはじめていた。

 話を聞いてない量子が独り言のように、とつぜん自分の子どものころの思い出話をはじめる。

「わたしお婆ちゃん子だったの。新潟に暮らしてたんだけど、雪の強い夜に同じ敷地内で飼っていた犬の様子を見てくるからって、とつぜん夜中にお婆ちゃんが出て行ったことがあるの。そしたら、しばらく経ってもお婆ちゃん帰ってこなくて、家の周辺を家族総出で探しに行ったんだけど、それでも見つからなくて……」

 話しながら、彼女の顔がだんだんと険しくなっていた。そこにはさっきのような無邪気さはなかった。かける言葉が見つからず、相づちも打たずに、ただ黙って量子の話を聞いた。深刻な表情で話す彼女の背後で、次第に激しくなった雪が窓ガラスを打ちつける。その音がバチバチと変わる。

「朝になって雪が収まってから、警察の捜索願を出すことになったんだけど、結局、その日も見つからなくて。その翌日の朝に雪が溶けてきたからって、うちのお父さんが納屋に停めていた車を動かしに行ったときに、納屋の近くで雪に埋まったまま蹲ってるお婆ちゃんを発見したの。その腕の中にはお婆ちゃんが可愛がってた犬もしっかりと抱きしめられてて、たぶん家の中に犬を避難させようとしたんだろうけど、そこに屋根に積もっていた雪が一気に落ちて、生き埋めになったんだろうって、駆けつけた警察の人が話してた。最初はそんなに雪も強く降ってなかったし、同じ敷地内だったから、大丈夫だろうって大して心配してなかったんだけど、それが悪かったんだろうね……。あのときは一時間もしないうちに一メートルくらい積もっちゃって、もちろん雪が強くなるのは知ってたけど、そんなのいつものことだったし、あそこまで強くなるとは思ってなくて、外飼いしてた犬のことも、もう少し雪が酷くなる前に早めに家に入れてればよかったんだけど、まさかあんなことになるなんて……」

 そう話しながら、彼女の声が震えていた。時折、鼻をすする音が聞こえてくる。

 口に出していないとはいえ、さっき心の中で彼女に対し、「子供染みた……」と揶揄したことに、罪悪感が湧いてくる。

「まあ、昔の話なんだけどね……」

 明るくそう言い放つ量子が、無理に笑顔を見せる。

 暗くてはっきりとは判らなかったが、その目に涙が浮かんでいるようだった。

 こんなときに限って、気の利いた言葉が浮かんでこない。

「きっと、大丈夫だと思いますよ!」

 なんの根拠もない言葉だった。

「何が?」とでも言うように、きょとんとなる量子が、目を丸くする。

 つい口を突いて出てしまった言葉に、自分でも何が大丈夫なのかが判らなかった。出してしまった言葉の意味を、どうにか取り繕うとでもするように、有りもしない根拠を見つけようとして、次に繋がる言葉を探した。

「いや、だから、きっと大丈夫だと思いますよ。お婆ちゃんも量子さんのこと責めてないと思いますし、心配してくれたとこや、必死で探してくれてたことは、ちゃんと分かってくれてると思いますよ」

 元気づけようとして、とっさにかけた言葉がそれだった。

「ありがとう……」

 彼女が微笑しながらお礼を言う。

 必死に作った笑顔には、どこか物悲しさや憂いが含まれていた。その空気感がこちらまで伝わってくる。どことなく車内の空気が重たくなったような気がした。

「ちょっと窓開けていいですか?」

 と、空気を変えるつもりで周防が訊くと、

「あ、はい……」と彼女がいつも使わない敬語で答える。

 運転席と助手席の窓を開けると、暖房で暖まった車内の空気が押し出され、窓の外から冷気が流れ込んでくる。暖房が効きすぎていたせいもあるが、熱ったからだに冷えた外気が心地よかった。ただ、心地いいのは最初だけで、すぐにからだが冷えてしまい、しばらくすると指先が悴んでくる。

「やっぱ、閉めましょうか?」

 気を遣って隣の量子に訊くと、

「ん? いや、もうちょっとこのままでいたいかも……」

 何かを吹っ切るようにあっけらかんと答える。嬉しそうに答える彼女の横顔には、どこか清々しささえ感じられた。風に乗って流れてくる彼女の髪の匂いが、新雪の匂いと混ざって、こちらに流れてくる。ハンドルを握る周防の指先が、しばらく外気に触れていたせいで、さらに悴み段々と感覚がなくなってくる。その指を暖めようと、エアコンの吹き出し口に手を当てたが、弱々しい風が手の甲を撫でるだけで、ちっとも暖かくはならなかった。そのときだった。さっき、「ありがとう……」と言った彼女の言葉が、周防の脳裏で蘇っていた。

 たぶん無意識だったと思う。

 気がつくと自分の口で、「ありがとう……」と、言葉を口ずさんでいた。

 隣の量子を見ると、彼女の耳にはこちらの声は届いていなかったようで、相変わらず助手席の窓から、真っ暗な夜空を眺めていた。

 粉雪に晒された彼女の髪が、冷気を含んだ夜風に靡いていた。

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