見出し画像

『似た者同士』

 つくづく思うことがある。こうして八階のベランダから空を見上げていると、どこかの空港から飛び立ってきた航空機が、タイミング良く頭上の空を横切っていくことがあるのだが、その行き先が気になることがあり、「一体、あの飛行機は、これからどこへ向かおうとしているのだろうか?」と、ふと疑問に思うことがある。とくにあとから調べたりするわけでもないので、すぐのそんな考えは、何かべつのことをしているうちにキレイさっぱり忘れてしまい、そんな発想が頭に浮かんでいたこと自体を、いつの間にか思い出せなくなっており、気がつくと、大抵、いつも通りの日常を送っていたりするものなのだが。それで何か支障があるわけでもなければ、その疑問を解消しなかったからといって、べつに困る人がいるわけでもない。うんざりするほど退屈な日常を、ただいつも通り過ごしているというだけ。

 轟音を轟かせて飛び去っていった航空機が、雲の中へと消えていく。すでに見えなくなった機体から発されるエンジン音だけで、まるでその存在感を主張するように、夏雲の厚い雲の突き抜け、眼下の住宅地へと鳴り響いていた。

 背後で熱風を吐き出し続けるエアコンの室外機から、カタカタと異音がするようになったのは、ここ一週間ほど前のことからで、とくにこれといって手入れをしたこともなければ、ベランダに野ざらし状態で放置されていることもあり、外見もボロボロで、だいぶ年季が入っている。そして、我が家ではネコを飼っていることもあり、仕事柄、家を空けることが多いせいもあり、二四時間フル稼働させておかなければならず、ブラック企業のような過酷な労働をさせていることもあり、いつ壊れてもおかしくないといえばおかしくないのだが、もう一〇年以上使っている代物なので、ここまで問題なく使えていたことのほうが不思議なくらいではあるが。

 カーテンの裾をすり抜けてきた黒ネコが、締め切られた窓ガラスの足元で、こちらを見つめていた。単に遊んでほしいだけなのか、それともお腹が空いて餌を要求しているのか、前足で窓ガラスを撫でており、こちらから眺めていると、「こっちに来い」と、手招きしているようにも見える。招き猫とはこのことか? 暑さでついに頭がやられたのか、くだらない考えが頭に浮かんでくる。こちらが近づこうとすると、するりとカーテンの隙間を潜って、部屋の奥へと入っていく。まったく可愛げのない猫である。

 飼い猫のあとを追いかけて、冷房の効いた部屋のなかに入ろうと、ベランダの窓に手をかけた瞬間、短パンの尻ポケットに突っ込んでいた携帯が鳴った。スマホを手にとり、画面を見ると、そこには『母』の文字がある。
 母からの電話に出ると、いつもなかなか電話に出ずに、数日後に折り返すことが多いせいか、通話口に向こう側で、「あ、出た」と、まるでツチノコでも出たような言い方をする。

「え? 何? どうかしたと?」

 不機嫌そうに返事をすると、

「何? どうかしたと? じゃないわよ。禄に連絡も寄こさんで、あんた元気にしとうとね?」

 と、さらに向こうが機嫌悪そうに答える。

 もう何年も帰っていないが、最後に帰ったのは一〇年近く前だっただろうか。親でも離れてしまえば、こんなにも疎遠になるものなのか?

「ああ、なんとか元気でやっとうよ」

「それならいいけど、たまには顔を出しなさいよ」

 ほっとしたような声には、なんとなく老いが含まれていた。声自体が変わったわけではないが、なんとなく声の張りがなくなったような、そんな印象があった。

「ああ、分かっとうって……」

 母の説教を耳元で聞かされたくなくて、そう適当に相づちを打ち、

「で、ほかになんか用でもあったと?」

 と、それとなく話題を変えた。

「ああ、そうやった! お父さんがね! 今度、入院することになったんよ!」
「は?」

 母の唐突な発言に、思わずそう声が大きくなる。

「いや、大した病気じゃないんやけど、この間、健康診断に行ったときに、なんか胃潰瘍が見つかったみたいなのよ。まあ、お医者さんも切れば直るって言ってるし、入院っていっても一、二週間くらいのものらしいから、心配ないらしいんやけどね。ていうか、今は仕事もしてなくて、大したストレスがあるわけでもないのに、胃潰瘍になるとか聞いたことないわよね〜」

 その母の話を聞きながら、そのストレスの原因が母にあるのではないかと思わないわけでもない。

「まあ、大したことないなら、良かったっちゃないと……」

 人騒がせな母の話に、ほっと胸をなで下ろすと同時に、ある意味、拍子抜けしてしまい、次の瞬間には、すでに興味を失っていた。

「で、その親父の入院の話がしたくて、電話したと?」

「あれ? なんか、もう一つ言いたいことがあったんやけど、なんやったかいな? お父さんの入院の話をしよったら、忘れてしまった……。最近、物忘れが激しいのよね〜。そろそろ私もボケが始まりようっちゃろうか?」

 いや、母の物忘れは今に始まったことではないから、何も心配しなくて良いと思うよ。という言葉は、ひとまず飲み込んで、

「まあ、それくらいの物忘れなら、誰でもあるやろ? べつにそこまで心配することじゃないっちゃない?」

 と、慰めの言葉になっているのか疑問ではなるが、とりあえずそう声をかけた。

「まあいいや。そのうち思い出したら、また話すよ。それはそうと、あんたいつ帰ってくるつもりなんよ?」

 また話がふり出しに戻り、

「え? あ〜、今度もお盆とか?」

 と面倒臭くていいかげんに、そう答えると、

「お盆っていったら、混んどろうもん。今から飛行機のチケット取れるとね?」
 と、ふだんは気づきもしないくせに、珍しくこちらの粗を指摘してくる。

「え? あ、ちょっと待って……」

 唐突に話題をふられ時期まで考えずに返事をしていたことに気づき、カレンダーを確認するためにベランダから部屋に戻った。蒸し風呂のような外気とは打って変わって、空調の効いた部屋のなかは天国だった。

「あ〜、もう一ヶ月ないねぇ〜……」

「まあ、べつに無理に帰って来いって、言いようわけじゃないけん。まあ、そんな焦らんでもいいけどね……」

 と、自分から話をふっておいて、勝手に話をうやむやにしようとする。

「ああ、まあ、そのうち帰るよ……」

「あ、てか、お母さん、お買い物に行かないかんかった! ごめん! 電話切るね! 駅前のスーパーのタイムセールが一六時までなんよ! 忘れとった! じゃあ、また帰ってくる時期が決まったら、ちゃんと連絡しなさいよ! じゃあまたね!」

 こちらが返事をする前で、慌ただしく電話を切られ、通話口にツーツーツーと音だけが聞こえてくる。自分から電話をかけておいて、自分の要件が済んだら、こちらの都合などお構いなしなのだろう。最早〝自由人〟とは母のために作られた言葉なのではないかとも思えてくる。まあ、だからと言って、べつに取り立てて話すことがあるわけでもないのだが。

 ふと猫の行方が気になり、辺りを探してみるが、その姿がどこにもなく、空になった猫用の器のひっくり返った、散らかった部屋があるだけだった。どうやらさっきの訴えは〝ご飯の要求〟だったらしい。おそらく部屋のなかを飼い主の姿を探して彷徨った末に、ベランダにその姿を発見し、とりあえずご飯の要求はしてみたものの、それが上手く伝わらず、貰えないと喩り、ふてくされて部屋のどこかで不貞寝でもしているのだろう。

 まあ、放っておいても、そのうちひょっこり出てくるに違いない。

 根っからの〝自由人〟なのは、うちの猫もべつに負けているわけではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?