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『イタい女』 5
小澤さんに言われた通り事務所に戻ると、メンヘラ女の姿はそこにはなく、ほかの女性従業員が、パソコンに向かって黙々と作業をしていた。扉が開く音に、一瞬、こちらを一瞥したが、その相手が俺だと判ると、「何だ。お前か……」と言わんばかりに、すぐに作業に戻ってしまう。明らかに空気がおかしいのは、ふだん鈍感な俺でも判るほど、そこに漂う空気感から十分に伝わってきた。葵の言っていたことが的中しているのは明らかだった。普段通りを装っているつもりでも、女性職員の態度に、明らかな違和感があった。「声をかけないでください」と言わんばかりの圧力が、黙っていても伝わってくるほどで、静まりかえった室内には、女性たちのキーボードをタイピングする音が、カタカタと不気味に響いていた。面倒ごとに関わりたくないと思うのは、誰だって同じことだ。俺が逆の立場でも、恐らく同じようにしていたに違いない。
「おはようございます……」
なるべく女性たちを刺激しないように、消え入りそうな声で挨拶した。一瞬、出直そうかとも思ったが、ドアを開けた手前、引くに引けない。とりあえず、声も息も殺して中へと入り、用もないのに自分のデスクに向かい、要りもしないのにフリスクを手に逃げるように外へと出ようとする。事務所のドアを開けた瞬間だった。
「あ、浅野さん!」
そう声をかけてきたのは、事務員の佐藤さんだった。
年配の彼女は、この会社に勤めて一〇年以上になるベテランだった。お局というより、良い意味で空気を読まないムードメーカーといった感じの年配の女性で、昨日の一件のことを知っているのか、知っていないのかはさておき、自分の世界を持っている個性的な人で、たとえ知っていたとしても、自分には関係ないとい言わんばかりに、話しかけてくれるような気さくな人だ。
「え? なんですか?」
ドアを半開きにしたままふり返ると、
「これ、今日の配送ルートね」
と、変更されたばかりの配送リストを突き出してくる。
「あ、ありがとうございます」
配送リストを受け取りながら、お礼を言うと、
「まあ、色々あるけど、頑張ってね……」
と、意味深なことを耳打ちしてから、自分のデスクに戻っていく。
「あ、ありがとうございます……」
今度は違う意味でお礼を言い、佐藤さんに会釈すると、再び意味深な目配せを送ってくる。その佐藤さんの振る舞いから察するに、何かあったのは明白だろう。事務所を出て、喫煙所に居るであろう坪井さんの元へと向かった。おそらくこの時間であれば、坪井さんが喫煙所でタバコを吸っているころだろう。
配送リストを手に、喫煙所に向かうと、予想通り、坪井さんの姿があった。
「なんか、今日の配送ルート変わったらしいっすね?」
喫煙所でタバコを飲んでいる坪井さんに話しかけると、
「え? あぁ、小澤さんに聞いた?」
と、彼が気だるそうに返事をする。
「てか、大丈夫? 浅野くん?」
唐突にそう切り出され、すぐに何のことかを訊かれているのかは判ったが、気にしていると思われるのもどうかと思い、「え? 何がっすか?」と素っ恍けた。
「何が? って、昨日のことだよ……」
「あ〜、昨日の……」
「なんか、浅野くんも色々大変みたいだね……」
「あー、まあ、そうっすね……」
特に気にしている素振りも見せたくなかったので、てきとうに返事をしつつ、坪井さんの話に話を合わせておいた。
「それはそうと、さっきまで、あの女、ここに居たよ……」
「あ〜、マジッすか?」
こちらの反応を伺うように、坪井さんが一呼吸間を置く。何も言わないのもどうかと思い、「で、なんか言ってました?」と、とりあえず訊いてみた。
「いや、なんかっていうか、お前の悪口? みたいなことを言ってたけど、一体、何があったわけ? まあ、二人のあいだのことだから、俺は深入りするつもりもないけど……」
そうこちらの顔色を伺うように、坪井さんが訊いてくる。
「いや、何って言うか、色々?」
鼻で笑いながら、「いや、だから、その〝色々〟を訊きたいんだけど……」と、呆れたように聞き直してくる。