『空き家』
ここ十一階のベランダから眼下を見下ろすと、ちょうど自分の住むマンションの真下で、河川が歪に湾曲することになる。それはまるで、この建物を河川が避けてるようにも見えるし、逆に河川を避けてこの建物が建てられているようにも思える。そして、何事も無かったように湾曲した河川は、すぐにその流れの矛先を反転させ、湾曲などなかったかのように、また元の流れのあった位置へと戻す。
そして、その河川の下流には、最近、取り壊されはじめた一軒の古びた民家がある。民家の敷地には何台もの重機が入っており、すでに半壊ほどに解体作業は進んでいる。もちろん民家には誰も住んでいなかっただろうし、ずいぶん前から空き家の状態だったと思う。前に散歩がてら家の前を通ったことがあるが、そのときも建物の壁には蔦だの苔だのが、びっしりと張りついており、とても人が住んでいるような気配などなかった。とくにあの家に対し、思い入れや関心があったわけではないが、こうやって取り壊されている現場を、改めて目の当たりにしてみると、かつであの家に誰かが住んでおり、生活していたのだということを、妙に実感させられてしまう。
「何? なんか見えんの?」
あまりぼんやりと眺めていたせいか、同居人の朝子が背後に立っていることにさえ気づかなかった。どうやらタバコを吸いにきたらしく、手にはライターを握られており、すでにタバコに火を点けようとしている。なんて返事をして良いのか判らず、迷った挙げ句に、
「え? いや、何っていうか……、家?」
と、こちらが素っ頓狂な返事をすると、その返答の仕方が悪かったのか、「え? 何? 覗き?」と、冗談のつもりなのか、平気でデリカシーのないことを口にする。
「いやいや、なんでそうなんのよ!」
根も葉もない疑いをかけられ、慌ててそう訂正すると、「なに? 覗きじゃないの?」とつまらなさそうに口を尖らせる。
「だから、違うって!」
どうしても覗き魔にしたてあげたいのか、納得のいかない様子で疑いの目を向けてくる。
「何?」
「いや、なんでも!」
腑に落ちないようで、「ふーん」とでも言いたげな顔をする。釈然としないが、ヘンに勘違いされても嫌なので、とりあえず説明しておくことにした。
「いや、ほら、なんていうか、あそこの家だよ。今、取り壊されてるでしょ?」
容疑の疑いを晴らすべく、そういってこちらが説明をはじめると、まるで週刊文春の記者が著名人のスキャンダルの証拠を押さえるかのような形相で、「どれどれ」とでも言わんばかりに、こちらの視線の先を執拗に覗き込み、嫌みなまでに事の真相を確かめるようとする。
そして覗きじゃないと判った途端、「で、あの家がどうしたの?」と、すでに興味を失ったような言い方をする。
「いや、なんていうかな? 昔はあの家に人が住んでたんだよな〜って思うと、なんかこう、不思議な気持ちになるって言うか、感慨深いモノがあるっていうか?」
「はぁ?」
「いや、だから……。あの家にも人の生活があったんだよなって思うと、それが壊されてることに他人事じゃないような気持ちになるっているか……。もし自分があの場所に住んだことがあるとして、そこに詰まった思い出とか、そこで過ごしていた人たちの歴史とかが、全部無かったことにされるような気がして、妙にナーバスな気持ちになるっていうか、上手く言えないけど、なんかそういうのがやるせないっていうか……」
自分で説明しておいて、自分でも何が言いたいのか判らなくなってくる。
タバコの火を点けていいのか、説明を聞いたほうがいいのか迷って、なかなかタバコの火を点けられずにいる。結局、こちらの説明に、あまりピンと来ていないようで、
「ん〜、判ったような、判らないような?」
と、首を傾げてしまった。
「まあ、とにかく、そういうこと!」
と無理やり話を終わらせた。
「で、吸っていい?」
端っから話の興味がないらしく、そう訊いてくる。
こちらがどうぞと言う前に、すでに火を点けており、その煙を吸い込んでいる。
「やっぱ、美味いわぁ〜」
勢いよく吐き出された煙が、風に乗ってこちらに流れてくる。
「いい加減止めたら?」
煙を手で払いながら、そう苦言を呈すと、
「禁煙者の前で、堂々と吸うのがいいんじゃない」
と、わけの分からぬ理屈を捏ねて、嫌がらせのように二口目の煙を吸い込みはじめている。
「なんだよ。そのヘンなこだわりは……」
横目で怪訝そうな視線を向けると、
「まあ、とにかく、そういうことだよ!」
と、今度は彼女が、強引に話を終わらせる。
彼女の口から吐き出された煙が、澄んだ空気を汚していく。その煙の流れた先で、解体作業中のあの家が、タバコの煙に霞んでいた。
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