物語の欠片 76
-カリン-
アグィーラには珍しい嵐が来たと思ったら、雨と風が止んだにもかかわらず、空は一向に晴れなかった。カリンは嫌な予感がした。
城へ行くために家を出てカリンは息を呑む。空を黒く薄い膜のようなものが覆っている。その中心、ちょうどアグィーラ城の上空辺りがひときわ真っ黒だった。その膜のせいで陽の光が届かないのだ。
ついに大地が闇を抱えきれなくなった。
朝早いので人はまだ疎らだ。しかし、その疎らな人々は皆一様に空に釘づけになっていた。間もなく町は混乱に陥るだろう。
カリンは、ヨシュアの家に向かって走った。
扉を叩いて返事を待たずに扉を開ける。朝食の片づけをしていたらしいヨシュアが驚いたように振り返った。
「カリン、どうした?」
「ヨシュアさん。闇が解放された!」
「……何だって?」
カリンは扉を閉め、ヨシュアのほうへ歩いて行った。目の前に立ってヨシュアの頬を両手で挟む。
「……お願いがあるの」
カリンの真剣な顔に、ヨシュアがごくりと唾を飲み込むのが分かった。
「よく、聞いてね」
ヨシュアは黙って頷く。
「この後、おそらく町は混乱する。闇が解放されたということは、大地が穢れを抱えきれなくなったということ。魔物も増えるわ」
カリンはヨシュアの脚に一瞬だけ目をやって再びヨシュアの目を見る。
「この脚では、何かあった時この間のように逃げきれない。今のうちに、マカニへ行って」
「……マカニへ?」
ヨシュアは訳が分からないというようにカリンの言葉を繰り返した。
「族長様にお願いしてあるの。闇が解放されたら、私が戻るまでヨシュアさんを避難させてあげてくれって。ヨギリに乗ってマカニへ行って、族長様を訪ねて。途中でマカニの人に会ったら、カリンにマカニへ行けと言われたと言えば親切にしてくれる」
マカニの人たちならヨシュアを守ってくれるだろう。カリンは先日、倒れたヨシュアを誰も助け起こさなかった様子を思い出していた。闇が解放されれば、魔物が入って来られないよう城の門は閉じられることになっていた。しかし、いつ魔物が城下町に侵入してくるか分からない。
「……お前……まさかそのために俺にヨギリを……」
カリンは笑って首を横に振る。
「私は本当にヨシュアさんが自分の馬に乗る姿が見たかったのよ。……それより、お願い。できるだけ早く身支度をして。城門まで送るわ」
「……お前は?」
「私はお城に行かなくては。化身たちは……多分気がつくと思うけど、念のために使節を送る。みんなが集まり次第、闇を浄化する」
「無事に……戻れるんだな?」
「約束はできない。でも、勿論そのつもり」
ヨシュアはカリンを強く抱きしめた。
「お願い。無事に戻った時にヨシュアさんが居なかったら、私は生きていけない」
「分かった……」
そう言ってヨシュアは唇を噛んだ。
涙を堪えているのだろう。黙ったまま身支度をする。
二人で一緒に厩舎まで行った。カリンがガイアを連れ出すと、ヨシュアと偶々厩舎に居たユッカが驚いた顔をする。
「ガイアを……どうするつもりだ?」
ユッカが尋ねた。
「……もし万が一私が戻れなければ、ガイアはひとりになってしまう。他の人を乗せるなんてできないと思うの。だから……今のうちに野生に返す。ガイアならば、きっとうまく魔物を振り切って生き残れる」
「なんだって?」
ユッカは青い顔をした。
「ガイアにはずっと話してあるの。だから、今日も大人しくついてきたわ」
カリンはユッカに微笑んで見せた。
「カリン……」
ヨシュアは言葉を失っている。
城門の前で、カリンはガイアの頭を抱きしめた。額と額をくっつける。ガイアは、甘えた表情を見せた。カリンは涙が零れそうになるのを必死にこらえた。
「……お互い、生きていたらまた会いましょう」
その言葉を聞いて、堪えられなくなったらしいヨシュアが口を開く。
「ガイア。俺とマカニへ行こう。そこで、一緒にカリンを待とう」
カリンは驚いてヨシュアを見た。
「ヨシュアさん?」
「ガイアなら、カリンが乗っていなくても俺の後をついてこられるだろう?いや、むしろ俺をマカニまで案内してくれ」
ヨシュアはガイアの顔をじっと見詰める。ガイアもヨシュアを見詰めた。そして、小さく嘶いた。
ヨシュアは笑顔を浮かべる。
「いい子だ」
カリンは涙を堪えきれなくなり、少しだけ泣いた。
「……ありがとう」
ヨシュアは、最後にもう一度カリンを強く抱きしめると、心を決めたらしく、ヨギリに乗って真っ直ぐエルビエント山脈の方へ駆けて行った。ガイアはカリンの頬に鼻先を押しつけると、一度だけ大きく嘶き、ヨギリの後を追った。
カリンは二頭の馬の影が見えなくなるまで見送ってから踵を返し、城を目指して走って行った。
内側の門をくぐるとローゼルが待っていた。
「陛下がお待ちかねだ」
カリンは頷き、ローゼルと共に謁見の間に向かった。謁見の間の入口に立っていたバジルに、書簡室へ行ってカリンが既に準備して預けてある化身への手紙を発送するよう頼む。
謁見の間には王と姫の他、ローゼルの上司である傭兵局長のワジュロと戦士室長のアールラが居た。カリンは王の前に片膝をついて、遅くなったことを詫びた。
「いや、良い。顔を上げよ。まだシェフレラとツツジそれに、ランタナも来ておらぬ」
シェフレラは法務局長、ツツジはアオイの父であり医局長、ランタナはカリンの属する文化局の長だった。程なく、ランタナが青い顔をしてやってきた。最後にシェフレラとツツジが連れ立つようにして入ってくると、謁見の間の扉は閉じられた。
「知っての通り、ついに闇が解放された。……カリンよ。先ずは対闇使として、これから取るべき対応を整理せよ」
皆が揃うと王が口を開いた。カリンは、承知いたしました、と返事して皆の顔を見渡した。どの顔も緊張している。
「先程、各化身への親書を発送するようお願いしました。本日中に各地へ届くでしょう。早ければ明日、化身たちは城に揃うはずです。ただし、それまで魔物は待ってはくれません。おそらく今も城の外では次々に魔物が生まれています。傭兵局はその対応をお願いします」
ワジュロとアールラは頷く。細かい手はずは前もって打合せ済みである。
「城の外側の門はすでに、正門である南門を除いて閉じるよう指示してある。戦士たちも各所に配置してある。城門の内側に居れば今のところ安全だ」
ワジュロが言う。カリンは頷いて先を続けた。
「医局は通常運用に加えて、怪我人の保護を」
「お前以外の戦医は既に配置済みだ」
ツツジは短くそう言った。
「ありがとうございます。皆様さすがに対応が早いですね」
カリンはにっこりと笑って見せたが皆の顔は硬いままだ。
「文化局は、万が一アグィーラの民や周辺の民が避難してきた場合の対応をお願いします。特に厨房室は備蓄の管理を。それから、迎賓棟は化身が使う以外は一般に開放します」
ランタナは黙って頷く。
「シェフレラ様は陛下と行動を共にしてください。法務局は司令塔です。光の間は空の様子がよく分かりますので、基本的にそちらにいらしてください」
「各室長にも声を掛けてある。お前は姫と一緒に居るのだろう? 後は私に任せればいい」
「助かります」
シェフレラの言葉に礼を言い、カリンは姫の方を向いた。
「姫様は、絶対にローゼルから離れないでください。わたくしも一緒に参りますが、所々別行動をとらなければならないこともあると思います」
姫は不安そうな顔でローゼルを見たが、ローゼルが力強く頷いて見せると、姫も頷き返した。
「化身が揃ったら皆で神殿に参ります。他の者は絶対に近づけないでください」
「神殿の警備は特に厳しくしてある。」
アールラが答える。カリンは頷いた。以上です、と言って王を見る。
「いよいよだな」
王は呟くようにそう言った後、その場に居る皆の顔を見渡した。
「よし。皆の者、頼んだぞ。私は光の間に向かう」
威厳のある声でそう言い、自ら先に立ち上がり部屋を出て行った。
シェフレラが慌てて続くのを見送り、その他の者も部屋を出て行く。最後に姫とローゼル、カリンが残った。
「あの……カリン、わたくしは何処に居れば……」
皆が出ていくと姫が尋ねた。
「姫様が一番落ち着ける場所が良いと思います。お部屋にいらっしゃいますか? 今日はおそらく何も起こりません。早くて明日……遅くなれば遅くなるほど闇の被害が大きくなるので早めが良いのですが、早くとも明日でしょう。来るべき戦いに向けて、本日はゆっくりされた方が良いと思います。今から緊張されていては気が持ちませんよ」
カリンは姫を安心させるように微笑んでそう言った。
「ではとりあえず部屋に行きます。カリン、今夜は夜も一緒に居てもらえるかしら」
「姫がお望みであれば」
「私も部屋の外に控えております」
ローゼルが言うと姫はそれは申し訳ないわ、と言った。
「わたくしとカリンは寝室で寝ますから、ローゼルは隣の間に居てください」
ローゼルが頷くと、姫はようやくほっとしたように笑顔になった。
姫の部屋に行く前に一度中庭に出て空を見た。
まだそれ程時間が経っていないのにも関わらず、黒い膜は朝よりも濃さを増しているように見える。辺りは曇りの日よりもなお暗かった。そのうち、夜のように闇が降りてくるだろう。本当に、世界は闇に包まれてしまうのだ。
世界が闇に包まれれば魔物が増えるだけでなく、植物も育たない。数日なら困ることもないだろうが長く続けば色々と影響が出てくる。
カリンはアルカンの森が心配だった。
早く光を取り戻さなければ。暗い空を見上げて不安になりそうな気持を抑え、笑顔で姫を促して姫の部屋に向かった。