【ピリカ文庫】君の翼は、
『…航空45便でパリへご出発のお客様にご搭乗のご案内を申し上げます…』
流れるアナウンスを聞きながら鷲はゆっくりと立ち上がる。大きな窓の向こうには滑走路。朝の柔らかな光を反射する沢山の翼が見えた。
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鷲の父は少し名の知れた写真家だった。依頼があれば他の写真も撮るが一番得意なのは鳥の写真で、世界中を旅しながら様々な鳥の写真を撮っていた。子供の頃は父が話してくれる旅の話が大好きだった。しかしそれは次第に母の愚痴に上書きされ、鷲は少しずつ父を疎ましく感じるようになっていった。
「あなたの自分勝手な夢にはもうつきあっていられない。」そう言って母が出て行ったのは鷲の大学進学が決まったのと同時だった。おそらく母はずっと前から心を決めていたのだろう。
父は母を責めるでも申し訳なさそうにするでもなく飄々としていた。「結婚前は俺の夢を一緒に追いかけたいと言っていたんだが、やっぱり難しかったかな。鷲には悪いことをした。」と鷲に対して一度だけ謝ったきりだった。
しかし何の因果か、母が出て行って間もなく父は病に倒れた。いつものごとく長い南米の旅から戻って来たかと思ったら体調不良を訴え、そのまま入院した。
旅先でおかしな病気を貰って来たわけではなく、末期のがんだった。よく今まで動いていられたと医師が呆れる程に病は進行していた。
父を疎ましく思う気持ちはいつの間にか消えていた。自由に羽ばたくことのできなくなった父に同情する気持ちもあったかもしれない。しかし父は病床にありながらにしてなお、それまでの旅について目を輝かせながら語った。鷲もそれを聞くのは苦ではなかった。むしろ、子供の頃のようにわくわくしている自分に気がつくことさえあった。
「夫としても父親としても失格かも知れないが、自分の人生を気に入っているんだ。自分の心から目を背けなかった。」鷲は父が嘘を言わないことだけは何となく知っていた。強がりではなく本心なのだと思った。
大きな目標もなく大学に入り、大学生活を謳歌するわけでもなくよく分からない日々を過ごしていた鷲に、この言葉はとても響いた。
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「それ、桂木夏生さんの写真集ですよね。」
機内で空席をひとつ挟んで隣の女性が遠慮がちに声をかけてきた。鷲は眺めていた父の写真集から目を上げて頷く。年齢は同じくらいだろうか。
「突然すみません。桂木さんのファンなので嬉しくてつい。私、色鉛筆で鳥の絵を描くんです。ほんの趣味ですけれど。桂木さんの写真が大好きで、よく参考にさせていただいていて、写真集は全部持っています。」
悪い気はしなかった。自分はその桂木夏生の息子なのだと言ったら、どんな反応を見せるだろうか。
「絵を描かれるのですか。僕はこれから絵の勉強をしにパリへ行くところなんです。」
「すごい!」
母の愚痴を聞かせられて育った鷲は女性が苦手だったが、旅の高揚感と父のファンだという言葉に助けられ、自然と言葉が出てきた。旅行かと尋ねると、パリを経由してバルセロナへ行く途中なのだという。目的はバルセロナ大学で動物行動学を学ぶこと。鷲は素直に感心した。バルセロナとパリならそう遠くないな。そんなことを考える自分が可笑しかった。
絵は趣味でいい。夢など追いかけるものではない、ずっとそう思っていた。しかし、就職だけを意識して選んだ経済学部の授業は恐ろしく退屈に感じられた。
見舞う度に聞かされた父の夢物語は少しずつ鷲の心に沁み込んでいった。看取る少し前に決意を告げると、父は満足そうに微笑んだ。
自分で資金を貯めるつもりだったが、父はしっかりと生命保険をかけていた。それがそれなりの額であること、そして父の写真集の印税が細々とでも入ってくることを知った鷲は、すぐに大学を辞めた。海外を選んだのは後戻りできなくするためだったというのが少し情けない。
情けなくてもいい。失敗してもいい。自分の気持ちに真っ直ぐに生きよう。父のように、自分の人生を気に入っていると言えるように生きたかった。
「あの、今更なんですが、僕は桂木夏生の息子なんです。桂木鷲といいます。”わし”と書いて”しゅう”。父が鳥が好きだったから。」
シャルルドゴール空港に到着して別れ際にそう告白すると、女性は「そんな気がしました。」と笑った。
「奥付や雑誌で拝見した御写真に、雰囲気が似ておられました。教えて下さり有難うございます。私は高梨千鳥といいます。千の鳥の千鳥。同じく鳥の名前です。ちょっと嬉しい。桂木さんとお話できて良かった。自分で決めたこととはいえ、ひとりでバルセロナへ行くのは不安でしたから。」
千鳥はトランジット、鷲は入国手続きに向けてそれぞれ歩き出す。自らの翼を得るために。
出て行った母も、きっと自分の翼が欲しかったのだ。
鷲は千鳥のメールアドレスを書いたメモを、失くさないようしっかりと仕舞った。
- 了 -
(本文:1999文字)
扉絵:『栄光の空』- イヌワシ Golden Eagle
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この物語は『ピリカ文庫』のために書き下ろしたものである。
私は、人は幾つになっても、いつからだって羽ばたけると信じている。
いつもはファンタジーの衣をまとった色々を書いているが、たまにはどストレートなお話を書いてみた。やっぱり慣れない。笑
ピリカさん、お誘いいただき有難うございました。光栄でした。
読んでくださった皆様に、それぞれ素敵な翼が見つかりますように。
人生の旅路は長い。どうぞごゆるりと。
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