パリの真ん中の星 ZORO地点
今思えば
その年2015年の
夏から秋の終わりのパリは
秋の終わりに
コンサートの予定を控えた
オーケストラのコンサートの
音合わせが始まったものの
仕上げるには
あと少し時間がかかりそうで
だったとしても
誰もそんなことは気にしていない
いつもの
バカンスの穏やかな時間が流れていた
私は
そこから
何が始まるのか知りたくて
右岸からセーヌ河を渡り
ノートルダム寺院の正面の足元にある
パリの真ん中の星 ZERO 地点
の前に立った
それは中学生の時
美術の時間の課題で
好きな写真から版画の下絵を描くことがあって
私はたまたま
その月の特集がパリだった
ノンノの一枚の美しい写真を選んだ
私の家族といえば
叔母や従姉妹がアメリカに暮らし
春や夏、お正月の休みには決まって
見たこともないほど
青い瞳の
同い年の従兄弟たちと
見たこともないお菓子を
食べながら
なんだかよくわからない
お互いの国の言葉を
身振り手振りでごまかしながら
一緒に遊んだり
バカンスを楽しんだりしていた
今思うと
私には日常であったにも関わらず
人から見たら
変わった家族であったことを
20年ほど後になって、友人から言われて
ひどく驚き、ひどく遅れて少し胸が痛かった
私に関しては
アメリカにも外国にも興味がなく
その版画を仕上げるまでの
半年あまりの長い工程の間
セーヌ河の左岸から
美しいノートルダム寺院を見ながら
青空の下
筆とパレットを持ってキャンパスに向かう
ベレー帽の少しお腹の出た
科学の先生のような白衣姿の
中年の画家の横顔に
わざとらしさは感じても
憧れのような気持ちは
全く湧き上がって来ることもなかった
ただ
版画の構図的に
画家と建物とセーヌ河の
バランスがいいなぁ。。。と思って選んだ
私にとってパリは
花の都パリ
というくらいの
言葉の知識しかなかった
が
その版画が仕上がった時
美術の先生は
きっとパリが好きだったのだろう
パリに憧れていたに違いない
今まで
様々な作品を仕上げたにも関わらず
特に気に留められた記憶も
なかったけれど
この時ばかりは
たいそう気に入ってくださり
その後私が卒業した後も
屋根裏部屋でその版画の板が
乾燥し、ひび割れても
なお
何年も美術室の壁を飾ったらしい
それからの私は
パリを意識するようになり
ジリジリと
誰かに耳たぶを引っ張られるかのように
今ここにいるような気がする
再び遠くで
オーケストラの音合わせの
不協和音を聞いたような気がしたが
私はツーリストで混み合う
狭い入り口を通り抜け
カテドラルに入った
バラ窓と呼ばれる
ステンドグラスの美しい窓から
まるで全ての光が
そこにあるかのような光が差し込んで
幻想的な空気の中にいた
それからすぐに
どうしようもなくすぐに外に出て
この美しいステンドグラスが
外からどう見えるのか
確認しないではいられなくなり
再び
混み合う入り口を通り抜け
それを確認しに足早に外に出た
何故なら
版画制作の為 半年あまり
穴のあくほど
見続けたノンノの写真に
こんな美しい窓の記憶がなかった
それはそうだ
ステンドグラスは太陽の光を
闇に受けてこそ
その色が輝くのだ
背中合わせの光と闇
そんなことも知らなかった私
その後
何度となくフランスのカテドラルを
訪ねる事になり
よくわかった
厚い石の壁で作られたカテドラルの中は
ステンドグラス以外の窓がない
光が差し込んでいないと
本当に暗い
昼間にもかかわらず
シャンデリアのライトが
まるで夜のような回廊を照らす
だからこそ
ただ一筋の光を求めることに
ただ祈ることに
集中できるのだろう
闇のようなカテドラルの中で
光を集めるから
ステンドグラスの窓は
美しい宝石のように輝き出すのだ
日本の教会を
そんなにたくさん知らない
小さい時に祖父母と通った
暁星幼稚園のカテドラル
祖父母の葬儀が執り行われた
小平教会
父が入院した
聖路加病院のカテドラル
父の葬儀のあった
築地カトリック教会
フランスに来る前まで通った
田園調布教会
どこで祈っていた時も
ステンドグラスの存在感を
こんな風に感じたことが
一度もなかった
明るい場所で祈った記憶しかない
そのスタイルは
この国のそれとは全く
印象が違う
足早にノートルダム寺院の外に出て
その窓を見上げる
さっき見た
宝石のような光の輝きは
外の明るさに溶け込み
それと確認はできても
濁った色が
ステンドグラスが
そこにあることだけを
だから写真ではわからなかったのよ。。。。と
私に伝えた
妙に納得し
再び戻ろうと
入り口に向かうと
そこはたくさんのツーリストが
中に入る為に長い列を作っていた
無くなるわけではないし
またゆっくり見に来よう、と
賑わうノートルダム寺院に背を向けて
左岸へ渡った
それからも二度程
上まで登りたくて出掛けたが
いつもの行列に嫌気がさし
無くなる訳ではないし
またね、、、と、諦めた
それから4年後のある日
その美しく尖った
尖塔と屋根が炎の中
人々の叫びとともに焼け落ちた
不協和音の多いオーケストラの演奏が
その時すでに
Parisの空に響きわたっていた
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