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「転ぶ」に関する、思い出ぽろぽろ

家の中で転んだ。雪道以外で転ぶのは数年ぶりだ。

なんで転んだのか。
その時の状況を思い出すと、スリッパですり足気味に歩いていた気がする。そしてドアの角に、スリッパの先から出ている足の指をぶつけて、それにビックリしてバランスを崩して、または滑ってこけたと思われる。
しかもぶつけたのは小指だった。幸いそこまで激痛ではなかったけど、しばらくジーンとしていた。膝や脛も痛かった。

転んで、ひとりで笑った。家にはひとり。ひとりで気まずくなるのもつまんないし、数年ぶりに転んだのだ、久しぶりなのだ。
ということで、今日を「コケた記念日」にして、笑おうと思った。どうせ数日経てば、記念日のことなど忘れてしまうんだろうけど。


覚えている中で、人生で初めて転んだ日は、幼稚園の帰りだった。
先生と「さようなら」をして、迎えに来た母と駐車場まで歩く道のりで、私は転んだ。
バランスを崩したのかつまずいたのか、それは覚えていない。だけど、転んだ場所は園庭で、地面は砂で埋め尽くされているようなところだった。

そこですりむいたのだろう、自分の膝から血が出ているのを見た。私は泣かなかった。それよりも、人生で初めて見る、「膝から出た血」というものに、感動というかワクワクした感情を抱いていた。「おお、これが血か。そして、転ぶとはこういうことなのか・・・」と、研究者のような気分だった。

家に帰ってから、絆創膏を貼るなどの処置をしてもらった。
この、絆創膏というものも、なんだかワクワクした。勲章、やんちゃ、特別感、優しさ・・・、そのようなものを感じられる一品だと思う。

転んで泣いたことがないわけではない。
小学校の休み時間に外で転んだときは、泣いた。ひもに引っかかって転んだことにビックリしたのと、周りの友達が心配してくれた事への優しさに涙した。優しくされると、もっと泣きたくなるのはなぜなのだろう。

中学の体育祭の練習中では、着ていた衣装のズボンを踏んづけて、盛大にコケた。ズボンのサイズがデカすぎたのだ。転ぶ瞬間、周りがスローモーションに感じられた。
恥ずかしさと、早くしないといけないという思いに駆られて、2秒くらいで立ち上がった。そして、何事もなかったかのように踊った。心に恥ずかしさを抱えながら、それを発散すべく、踊り狂った。

雪道は、慣れない。
雪の降る地域の生まれなので、雪道はなじみ深いほうだと思う。にもかかわらず、雪道の歩き方のスキルが毎年リセットされる私は、毎年何度かは転びかけるし、1回は転ぶ。

いつもいつも、慎重に歩く。よーく地面を踏みしめて歩く。雪が積もっているところに足をのせて歩く。
積もっている雪がなくて、凍っている道は絶望だ。泣きたい気持ちになりながら、全神経を足下に集中させて歩く。ツルンと滑ると、胸がヒュッとする。手足がワタワタする。その様を誰かが見ているかもしれないと思うと恥ずかしいが、転ぶかもしれない危機には変えられない。
突発的・予想もしなかった状況下で転ぶことよりも、「転ぶかもしれない状況」というのに、私はいちばんの恐怖を感じている気がする。

雪道を除き、私は転ぶと、恥ずかしいけどワクワクすることが多い。
でも、けがには気をつけたいので、できるだけ気をつけて歩こうと思う。

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