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文字書きワードパレット 21番

クラン・ドゥイユ

視線
跳ねる
檸檬

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朝通る通勤路に、立派な檸檬の木がある家がある。
緑に囲まれた家で、なんでも、近所では花屋敷と呼ばれているそうだ。
春と秋にはよく手入れされた薔薇が咲き乱れて、他にも四季折々の花が楽しめる。
植物が好きな僕は、そこが嫌いではなかった。
ただ一つ、この花屋敷、いい噂を聞いたことがない。
手入れは行き届いているはずなのに、人の気配をまったく感じないのだとか。
当然、空き家だというわけでもないのだが。
だれもそこの住人を見たことがないというのだ。
その家には表札もなく、住人の名前さえわからない。
たしかに、毎日朝、晩と通るが、朝はともかく、夜に明かりがついているところを僕は見たことがなかった。
誰が植物の世話をしているのか。
それはこのあたりの謎になっているそうだ。 

「で、その話には続きがあってさ。
花屋敷の花、果実を盗んではならない。」
「いや、まあそれは…普通のことなんじゃないか」 

ハイボールにはいったカットレモンをマドラーで押しつぶしながら僕は言う。
友人はにやりと不気味に笑ってみせる。 

「そういうことじゃない。あそこの植物を盗むと、良くないことがそいつに降りかかるんだってさ」
「はあ…?どこまで非現実的な話なんだよ」
「…聞いたことないか。あのあたりで爺さんが行方不明になってるだろ」
「…それは、認知症がなんたらって話じゃなかった?」
「それだけじゃない、金になるからって薔薇を盗んだ奴らがいたそうなんだが、集団で事故に巻き込まれた」
「2,3年前に話題になったあれ?」
「あーそうそう。乗用車とトラックが絡んだ大規模な事故。結構ニュースになったろ。あのときに、乗用車から大量の薔薇の鉢が発見されたって」
「…そこまでは覚えてないな」
「それがどうもあの花屋敷から持ち去られたものだったんだってさ」
「…へえ」 

僕はハイボールを飲み干す。
馬鹿馬鹿しい話。そういう類の話は信じないほうだ。
「だ・か・ら。お前も気をつけろよ?」
「はいはい、ご心配どうも。安心しろよ。人んちのもん盗んだりしねーから」
友人と別れて、帰路につく。
電車に揺られて最寄り駅から自宅を目指して歩く。
街灯に照らされて入るが、夜の住宅街は暗く、人通りも少ない。
今日話題にあがった花屋敷の前を通る。
朝でこそ、緑や花の色が綺麗な花屋敷は、夜になると黒い木々の塊だ。
見上げると、不気味に生ぬるい風が吹いた。
今日も、窓辺に明かりはついていない。
玄関先にある檸檬の木。
なぜだろうか。黄色の丸い果実が、街灯に照らされてやけに艶めいて見えた。
今日のハイボール、うまかったな。
不意に思い出す。
いや…なにを考えている。僕としたことが、相当あいつの話に当てられたな。
首を振り、再び歩きだす。
少しずつ、足取りが速まる。
なぜか花屋敷のどこかから、視線を感じた気がしたのだ。
まさか。そんなな。

あの日から、僕はやけに花屋敷を意識するようになってしまった。
美しく熟れていく檸檬の果実。
僕の頭の中には、くだらないはずの友人の話がずっと残っていて、檸檬の木の前を通り過ぎるたびはっきりと思い出すのだ。
本能が警鐘を鳴らしているのがわかる。あれを摘み取ることは許されない。
…しかし、なぜか惹かれてしまうのだ。
僕はそれが怖くなって、なるだけ花屋敷を避けて通るようになった。

その雨の夜は、少し羽目を外しすぎてしまい、いつもより酒が回っていた。
傘の柄を回しながら、ゆっくりと坂を下っていく。いい気分だった。
そしてつい、いつもは避けて通る花屋敷へと続く角を曲がる。
そこでハッとした。
雨風に暗くざわめく花屋敷の木々。
思わず立ち止まる。
街灯に照らされた檸檬の黄色く丸い果実が目に入った。
いけない。
あれを摘み取っては。
しかし、そう思えば思うほど、その果実が魅力的に見えた。
誰も見ちゃいないさ。
一つだけならば。
…気づいた時、僕は走っていた。
傘を投げ捨て、檸檬の木から摘み取ったひとつの果実を懐に握って。
ついにやってやった、そんな気分だった。
誰にも見れられてやしない。
帰ったら、これでハイボールを作ろう。思わず笑みが漏れる。
8つに切り分けたカットレモン。あれだけ熟れていたのだ、きっと、美味いにちがいない、
それにしても、なぜこんなことになってしまったのだろう。
ふと、顔を上げると、目の前にはヘッドライトの眩しい光。
運転手の悲鳴。体に鈍い衝撃、瞬間、強烈な痛み。
薄れていく意識のなかに、僕は見た気がした。
静かに佇む傘をさした黄色い長靴の子供の姿を。
「だから、やめろっていったろ」
そいつはそう言って、笑っていた。

ように。

…思 っ  た  。

雨粒が跳ねる赤い水たまりの中に、転がったたった一つの檸檬。
男は、それに手を伸ばすようにして、倒れていたという。

「花屋敷の花を、盗んではいけないよ」
子供達がそう囁く声が聞こえる。

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Thanks!
文字書きワードパレット:藤村サキ様

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