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印刷営業回顧録③

私はこうして印刷営業として育ち、そしてこのような営業になりました

このNOTEは今の人たちをはじめ、皆様には何の参考にもならないかもしれません。団塊の世代の昔話にしか聞こえないでしょう。しかし何かを感じてもらえれば嬉しいです。全ての世代の人たちが、私も経験したことのないコロナ感染という困難に立ち向かわなければならない時を迎えています。これからいろんな場で数多くの経験・体験をされるでしょう。

後日、私のように、あんなことがあったよね、楽しかったよね、苦しかったよね、辛かったよねと思い出される日が来ると思います。敢えて今回は新人時代の生活を中心に書かせていだだきました。ご了承をお願い致します。

皆さんに明るい・楽しい思い出がたくさん残りますよう祈念致します。

営業として新生活の第一歩を踏み出しました

50年にもなる長い印刷営業生活で私がどのようにして営業として育ってきたか、どのような営業だったかを少しお話してみたいと思います。

印刷について全くの素人だった私を営業として育てていただいたのが前職の会社のKさんでした。もちろん印刷についての専門的な知識や技術を教えていただいたのは工務の方や工場の方々だったのは云うまでもありません。業界のことを何の知識も持たず飛び込んだ人間です。厚かましいと云うか、少しぐらいは勉強してから来い、そもそも営業とは何をするのか分かっているのかなどと云われましたが、「とにかく働かないと格好がつかん」だけで営業になりました。よくもまあ受け入れて貰ったと思いますが、実を云うと遠縁の社長さんが経営されている会社だったので潜り込めたのではないかと思っています。短気で頭は良くない私を営業として使っていただいた前職N社長さんやS営業本部長さん、そして京都から来た西も東も分からない青年?の東京生活の面倒を見なければいけなかったN常務さんには本当に感謝しています。もちろん最高に感謝しているのはKさんです。何せ私の先生ですから。

京都人の私が花の東京で働くわけですから大変でした。当時はすでに新幹線が走っていましたが京都・東京間はひかりで約3時間、古い話ですが、私が中学修学旅行で東京から帰るときは修学旅行専用列車きぼう号で約6時間の旅でした。もちろんディズニーランドもなく東京へ行ける友達なんて珍しかった時代でしたから、私も同級生も富士山を見た時は大感激でした。車中で涙を流していた女子生徒がいたぐらいです。そんな記憶が未だに残っており、FBに富士山シリーズをアップするくらい私は富士山が好きです。

とにかく東京の土を踏むのも中学修学旅行・兄が住んでいた三鷹・人生初の就職面接で江古田へ行ったとき、そして入社日の計4回しか行ってない田舎者?が東京で営業すること自体、無茶がありました。まぁ、何とかなる、なるようになる、の精神でしたね。営業生活即ち東京生活の第一歩を踏み出したのですが、当時は今のようなワンルームマンションなんてなく小さなアパートが東京の棲家になりました。下宿の為に京都から送った荷物はたった一つ、大きな布団袋だけでした。中には布団一式、着替えや普段着とサンダル1足、そして洗面用具と簡単な食器類、何故かトースターと電気ポットが入っていました。西武練馬駅にこの布団袋荷物を取りに行き、桜台のアパートに持ち込んだ50年前の日のことを今でもよく覚えています。テーブルや洗濯機・冷蔵庫・テレビなどの家電製品もなく布団を敷くと足の踏み場もない部屋でしたが、とにかく3年はがんばろうと思いました。そこから小さなタンスやテーブルなどを買い揃えました。洗濯機や冷蔵庫など大きな家電製品は置き場がなく、でもテレビだけは買いました。

亡くなった親父に東京へ行くと云った時、「お前は短期だし、すぐに喧嘩して帰ってくると思う。とにかく3ヶ月、いや半年は我慢しろ」と云われました。意地でも帰るかと思いながら東京生活を始めました。実は社宅があり、新人は若手の社員と共同生活が基本でしたが、そこは縁者の特権?でアパートひとり暮らし、しばらくは家賃も会社持ちだったので助かりました。気を使うことなく気ままな独身生活が出来たのもN常務さんのおかげでした。そのアパートには1年半くらい住みました。その後、豊玉のもう少し広いアパートに引っ越しました。桜台同様、会社には歩いて7・8分の距離、職住近接がN常務との約束でした。

引っ越しの裏話をしますと、会社が借りてくれたアパートが桜台駅の拡張で立ち退きになりました。次のアパートを探さなければならないのですが、引っ越しにはお金がかかります。会社にばかり頼れません、遊んでばかりで貯金もなし、さあどうするかと思案していたところ西武から立ち退き料の話がありました。私にとっては大金の30万円、交渉なしの即断即決です。しかしこれは会社が受け取るものと思っていたので、いちおうN常務に相談したところ、「全額、お前が貰っておけ、皆には内緒にしとけ」でした。次の部屋の契約に必要な経費を払っても充分おつりが来ました。うれしいことは人間黙っていられないものですね、同僚と豪遊?しました。結果、いっときの夢で終わりました。

最初に住んだアパートの隣のアパートには営業の先輩が住まわれていました。お母さんとお二人で生活されていましたが、そのアパートの大家さんでもありました。本当に良くしていただき、休みの日などは夕食をごちそうになっていました。家庭の味・おふくろの味を思い出させていただきました。食事と云えば、横浜が実家の同期のM君宅にも週末に泊りがてら、ごちそうになりに行ったものです。安月給のわたしにとっては朝・夕食代が不要なのは本当に助かりました。特に月末が近づくと泊りに行ったものです。優しいM君のご両親やお姉さんに甘えさせてもらいました。財布と胃袋が一息つけた給料日前でした。

給料で思い出しますが、計画性のない私は給料日一週間前には毎月と云っていいくらい財布が底をついていました。上司や先輩や同僚のお母さんに結構助けてもらいましたが、そうは云ってもそこまで厚かましくなれず、結局はおふくろの世話になることが多かったです。口癖は「これが最後ね、兄弟には黙っててね」でした。あれだけ心配をかけたおふくろには何の親孝行も出来ませんでした。しかし、京都に戻らず東京に残って勤めあげたことが何よりの親孝行ではなかったかと思っています。人生初の一人暮らし、それなりに楽しかったです。会社に近く、雀荘に近いアパートは同僚にとってかっこうの別宅だったようです。独身時代の生活を書けばきりがないので、いちおうここでやめておきます。


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新人時代

最初の一年は製版営業が80%、印刷営業が20%の営業生活を送りました。前にも書きましたが前工程の特に製版がわからないと印刷営業にはなれないと云われていましたから、製版については必至で覚えました。大手印刷会社からの百科事典の製版、化粧箱の製版、月刊誌の製版で一般的な製版を覚え、製缶会社からはブリキ製版で缶詰や粉ミルク缶の製版を担当していました。同じ製版でも特殊なブリキ製版を覚えたことは大きな財産となりました。粉ミルク缶の製版は当時でも機密保持が厳しく、専門用語や製版の約束事が通常の製版とは異なり覚えるのに必死でした。又、ブリキ校正が刷れるところも少なく社内や外注を使って間に合わせたものです。小樽の工場で見たブリキ印刷機の大きさは今でも鮮明に覚えています。ホワイトインキを最初に刷り、仕上げはコウパルニスを引く製缶印刷は素晴らしかったです。粉ミルク缶・魚缶・ツナ缶・コンビーフ缶・飲料缶・果物缶・スプレー缶とずいぶん多くの缶の製版営業を担当しました。同期のM君は同じブリキ印刷でもお菓子缶やマホービンや保温ジャーの製版営業を担当していました。ブリキ製版はネガ製版で下版時の検版も神経を使ったものです。クレームを出すととてつもない損金を負担しなければなりません。ポジフィルムなら目視での検版も普段からしていますが、ネガフィルムでの検版は見難く大変でした。二人とも大きなミスも出さず、貴重な経験を積ませてもらいました。

話は前後しますが、私は京都から、同期のM君は横浜出身、二人とも東京の地理についてはまったくの音痴でした。たまに二人が同乗しての営業活動、道がわからず銀座のど真ん中の右折禁止の交差点を右折したりしました。危ないことでしたが、そこを曲がらないと迷子?になるから「エイヤー 曲がっちゃえ」でした。お巡りさんごめんなさいです。50年前ですから時効にしておいて下さい。地名や駅名、道路・交差点、主要ターミナルを覚えるのに1年はかかりました。おかげで最後はタクシーの運転手になれるところまで成長?しました。しかしながら未だに鉄道路線はダメですね。何せ、常に車での営業でしたし、通勤も直行直帰奨励から社用車での通勤でしたから、まず電車に乗ることが少なかったから、未だに電車に乗るときは乗り間違えないよう先に人に聞いてから乗ります。それでも乗り越しや、乗り換え間違いはしょっちゅうしています。

京都弁と東京弁

京都弁と東京弁には往生しました。一般的には関西弁エリアの京都ですが、京都弁特有のアクセントや言葉があります。当時でも関西弁はTVやラジオから聞こえて来ていましたが、今ほどポピュラーではなかったのではないでしょうか。意識していても長年使いなれた京都弁はすぐには直りません。別に恥ずかしいわけではないのですが所詮多勢に無勢、東京弁が標準語と云われるところで方言の京都弁をビジネスの世界で使うことは余計に気恥ずかしかったものです。私の義理の姉が東京の人でしたので少しは東京弁には慣れていると思っていたのですが、いざ現地に入るとダメでした。こんなくだらないことで悩むなんてと思われるかもしれませんが、ビジネスの世界では大きな壁でしたね。私だけですかね、こう思うのは。ただ言葉の壁も一年も経たずにクリアしました。営業としてやっていく自信が芽生えたのもこの頃からでした。社会人一年生の最初の成果が言葉、二番目が地理でした。次がようやく仕事になります。そんな私も今じゃすっかり江戸っ子になりきっています。東京文化にも慣れ親しんでいます。


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関西風うどんと関東風うどん

うどんは関西、そばは関東とよく云われます。関西風のうどんを食べなれている私には、だしの色からして食べる気にはなれなかったです。関東の人、どうもすみません、先にあやまっておきます。関西風、特に京風の味付けで育ってきた私は東京生活で一番困ったのが食事でした。もともと好き嫌いが激しい(女房に云わせるとお母さんの育て方が悪かったから)私は正直食べるものがなかったと云っても過言ではありません。なので、毎晩、洋食屋さんでハンバーグとサラダか、カレーライスとサラダを交互に食べていました。夕食代はかかりましたね。雀荘で夕食をとることも多く、幕の内弁当なら食べられました。昼は会社で食べるときは近くのカレー屋さんで特注カレーライスをほぼほぼ毎日、たまにはラーメンでした。営業なので出先で食べることも多く、その時は洋食系でハンバーグかカレーかオムライスで時にはラーメンが多かったです。

こう書くと数パターンの食事のローテーションで生きながらえていました。こんな食生活もひとりだからこそ許されることです。栄養のバランスなんて考えたこともないです。恥ずかしい話ですが、かつ丼は東京で生まれて初めて食べました。中華料理は生涯初の海外旅行に行ったシンガポールで初めて食べました。食わず嫌いだったのです。世の中にこんなおいしいものがあるのかと感動し、それから中華料理は大好きな料理のひとつになっています。東京で初めて食べた料理なんて数えあげればキリがないくらい多いです。

明治生まれのおふくろの料理レパートリーはそんなに多くなく、煮物や煮魚が中心の食卓でした。また、京都の実家ではカツやてんぷらなどの揚げ物は近所のお店で揚げたてを持ってきてくれるし、魚も焼きたてを配達してくれる魚屋さんがありました。お惣菜も売っています、おふくろ曰く、お店屋さんのおかずを食べる方がおいしいからと云っていました。天ぷらは火を出すかもしれない、魚焼きはご近所が煙たがられるからと家ではやらなかったです。充分、近所のお店でことが足りていましたから。こんな京都の下町商店街文化がなくなってくるのは寂しいですね。

営業の話にまで行かなかったことはお詫び致します。どうやって一人前の営業になる努力をしたか、どれだけ多くの人たちに助けてもらったかを次号で書こうと思っています。自分ひとりの力だけでは絶対無理でした。1年目から経験したこと、教えてもらったこと、学んだこと、失敗したこと、仕事を通して出来たお客様のこと、そして営業生活で楽しかったことや苦しかったことも書いてみたいと思います。

長々とくだらない話にお付き合いしていただき、本当にありがとうございます。これからも何卒お付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。

                     土山印刷株式会社 中嶋恒雄



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