坐蒲をめぐる正直さ
自分が読み返してもいい、と思えるものを毎日短くてもいいから書く。
ということを繰り返していると、書いている時間が一番正直でいられる、という状態が作れるのではないかと密かに思っている。
そして、その正直の状態、素直と呼ぶのかもしれないが、その状態であれば人は、人と好意的に関係が結べるのではないかと思う。
文章であろうと、スポーツで相手と対峙しているときであろうと、営業で自らの企画の良さを説明しているときであろうと、自分に正直であるという状態を意識的に作れることが、質の高い営為の前提条件なのだと思う。
受け手は正直だからだ。
書き手としての自分はいろんな靄がかかったりする、読者としての自分は実にシビアで、人が書いたものはもちろん、自分が過去に書いたものでさえ、タイトルに工夫がないだけで既に読まない。
坐禅のための坐蒲が、娘のクッションになっていた。
形が崩れないよう、Amazon先生で選びぬいた材質なので、さぞかし座り心地も安定していることだろう。
何の話かと思うが、例えば正直とは、文脈を無視する心地よさだったりもする。
坐蒲を迷わずに自分のクッションにする。
座り手もまた正直である。