すっぴんマスター的書店論②
①の続きです。
まず活字離れだが、僕は、ひとびとが活字離れしているとはまったくおもっていない。そもそも、「活字」というのがなにを指しているのかわからないので、こんなことをいってもしかたないのだが、これは、書店員としてというより、ブロガーとして感じていたことだ。ほんとうに世界が活字離れしていたら、うちのようなところはやっていけていないはずである。「小説離れ」ということであれば、それはあるかもしれない。だがそれも、もしそれが漫画に流れていることを意味するのであれば、まあそれほど深刻なことではないんではないかともおもえる。いつの時代も、夏目漱石の全作品を読破するものは少ないのであるし、小説を読むものが減っていくことに応えるように、漫画の文学性も日に日に高まっているのである。そしてもし、小説読者人口のいちぶが漫画に流れているというはなしなのであれば、それは今回主題となっているところの書店目線でいえば、たいしたちがいではない。角川や新潮の安い古典の文庫とジャンプコミックでは、値段にそう大きなちがいはないのだ。
そうしたわけで、直感的には、活字離れについては考慮しなくてよいのでは、ということがある。すると、検索的思考法が導くものは、電子書籍と、通販サイト、そして書店の衰退の三つであることになる。ほんらいであれば、ここに新古書店の台頭も含むべきかもしれない。じっさい、これが出てきたときの書店へのダメージは、けっこうあったのではないかとおもわれる。だが、これもまた、これまで本を買っていたものの動機が可視化された結果であると考えることができる。電子書籍などとは流れが異なるが、これも含めて、以下じゅんばんに見ていこう。
【電子書籍】
まず電子書籍だが、考えてみればこのnoteも電子書籍の一種だ。これが、書店への足を遠のかせているかというと、もちろんそんなことはない。むしろ、僕のような、このままでは生涯紙の本を出すことはないであろう人間が、お金をとってものを書ける場所をたやすくつくることができているわけだから、ただ書店から利益を奪うだけのたんじゅんなありようではないことがわかる。
だが、そうはいっても、ある漫画が紙と電子両方で発売されて、電子が買われているという状況があるのであり、もし電子がなかったら、その売り上げは紙にまわっていたはずだ、ととらえたくなるのは人情である。互いに50ずつの売り上げがあって、もし電子がなかったら、100の売り上げが紙にあったはずだと。けれども、それは確認することのできないことがらだ。関ヶ原で小早川秀秋が裏切らなければ歴史は変わっていた、などという、実証できない問いかけと同じである。
それよりも僕は、電子書籍をユーザーと販売店のあいだの距離がゼロである商品、というふうにみなしたい。これは、売り物であるところのその文章そのものを電子化できなければ成り立たないことである。お弁当をネットで買えるようになったといっても、購入ボタンを押した瞬間に目の前に電子弁当が再構築されるなんてことはないわけである。ここは、むしろ、音楽などと同様に、単位が「文字」や「音」であることの強みであると、僕は考える。
問題があるとすれば、その商品に到達するまでなのである。もちろん、わたしたちは、ネットでタイトルや作者名を検索して、購入可能画面にたどりつくことになる。
【通販サイト】
通販サイトの強みはやはり速さであると、現場経験者としては考えられる。書店では、店頭にない場合、まず取次の倉庫にアクセスする。そこにあれば、日曜祝日をはさまない限り、2,3日で届く。だが、これが、ない場合がかなり多い。というのは、あとのほうでまた書くが、取次の想定する書店のありかたというものがあって、それがいまほぼ実現しつつあるので、店頭にないということは、倉庫にないということであるといってほぼまちがいない状況が、おそらく近いうちやってくるのである。
次に、大手チェーンであれば、店舗間移動なんていう方法もある。その店になくても、どこか別の店にあれば、そこから、独自の流通で本が届き、輸送費などなしで本が手に入るのである。これは経費の関係でどうも衰退しつつあるようだ。しかしそれにしても、うまいこと移動の便が翌日とかにあれば、数日で届くこともあるが、そうでなければ1週間、遠くの店に依頼する場合では1ヶ月近くかかることもある。
最後に出版社注文だが、僕の勤務先が閉店するころには、これがもっとも多くなっていた。店頭にも倉庫にもないので、出版社に在庫があれば、もらう感じですね~というふうな回答だ。だが、これは実質1週間はみてもらわなければならない。もしあいだに祝日をはさんだりすれば10日くらい、お盆や年末年始となると、2週間以上みてもらうことになるのである。
こうした状況と比べて、某通販サイトの速さは脅威以外のなにものでもなかった。最近、ほかの出版系通販サイトも使ってみたのだが、これも、驚くほどの速さだった。もし書店に用のない人間であれば、通販サイトでなにもかも済んでしまうのである。
では、やはり通販サイトの台頭は、書店にダメージを与えたのか。それは、たしかにあるかもしれない。が、最初に書いたように、これらはどちらも「検索的思考法」が導く二つの結果なのである。
【新古書店】
新古書店にかんしては、前のふたつとは因果関係が異なっている。たしかに、本を定価で買わなくていいのだから、書店への直接のダメージは大きかっただろう。しかしこれも、電子書籍と同じで、それがほんとうに「ダメージ」であるかどうかは、確認することができない。ずっとむかしにうちを担当していた敏腕の店長は、新古書店とふつうの新刊書店では顧客がかぶっていないので、問題ではないと断言していたほどだ。僕じしん、古本屋にはお世話になっていた時期がある。お金がぜんぜんなかったころだ。そういう時期に買っていた本を、もし新古書店という概念がそのときになかったとして、果たして新刊書店で買っていたかというと、あやしいぶぶんはあるのである。
古本を買うことで支払ったお金は、作者や出版社に届かない。そのあたりも、新古書店が「脅威」としてあつかわれた理由かとおもうが、これにかんしても、僕はけっこう楽観的である。というのは、僕じしん、新古書店での買い物、またもっといえば立ち読みで発見した作家や本は、かなりあったからである。そういうなかで、作者から一方的に受け取ることを潔しとせず、「お返し」をしなくては、対価を払わなくては、とおもうものがほんの数パーセントでも生まれてくれたなら、損害のもとはとれるのではないか、という立場なのである。オプティミストなのだ。
【書店を選ぶ理由がない?】
以上見たように、新古書店は別として、電子書籍と通販サイトのようなネットを経由した買い物は、その必然として「検索」を経由することになる。
欲しい本Aがある。これは、電子も紙も出ている。通販サイトにもあった。だが、けっこう古いので、たぶん書店にたのんだら出版社に注文になるだろう。こういう状況で、下手すると2週間も待たされる書店よりネットを選ぶことになるのは、ものの道理だ。
また、欲しい本Bがある。電子も紙もあるし、通販サイトにもある。発売日だからたぶん書店にもある。だが、たとえば、雨が降っている、微妙に遠い、お祭りでひとが多くて外出したくない、セミがいっぱい死んでいて怖いから外出したくない、ヒゲそってないから外出したくない、こういうときに、ネットを選択することも、賢い消費者としては自然なことである。
そうすると、書店の存在意義はもはやないのではないか、というはなしになる。書店にあってもなくても、合理性はネットにある。だとすれば、本を買うにあたって書店を選ぶ理由は、書店それじたいが好きで、存続を願っている、という感傷以外に、なにがあるというのだろう。
この文脈では、たしかに書店を選ぶ理由はない。店員の女の子がかわいいとか、特典がつくからとか、そういうオプション的要素はとりあえずここでは除く。ただ商品単体をどのように手に入れるか、という手段のなかでは、もはや書店に利点はないのである。
だが、もちろんそうではない。これは、そもそも問いのたてかたがまちがっているのである。ネットとリアル書店は最初から競っていない。新古書店が新しい概念(定価より安いが、作者に金が届かない)を構築したように、ネットも、ほんらいリアル書店が担うものではなかったあるぶぶんを可視化し、住み分けさせただけなのである。そこでキーワードになるのが、「検索」なのである。
【検索して本を買うということ】
なかなか結論にたどりつかないので、先に書いてしまおう。リアル書店の役目とは、店にやってきた時点では買うことを想像すらしていなかった本までお客さんを案内すること、要するに「衝動買いをさせること」なのである。
たったいま立てたふたつの景色では、欲しい本AとBがあった。しかし、この状況が、すでにネットの土俵なのである。この人物は、みずからの欲望を制御できるもの、明文的に掌握できるものとしてあつかっている。この、意識されている欲望を、「既知の枠組み」などと読んでみよう。自覚された欲望によって成り立っているこの「既知の枠組み」を通して、わたしたちは買う本を決めている。欲しい本が決定しており、あとは買うだけという状況は、「既知の枠組み」を出ないものなのである。これまでは、リアル書店はそれも販売していた。しかし、どんな仕組みか知らないが、通販サイトの出荷までスピーディーさと、電子書籍の「距離ゼロ」なありようが、新しい概念として構築された。定価より安いが、徹底して清潔ということはなく、作者への返礼も果たすことができない古本という状況のあらわれが、新刊書店と新古書店でほんらいかぶらない顧客を可視化させたように、そうした技術的進化が、書店の本質である「衝動買い」とはほんらいかぶらない客層を可視化させたのである。
ネット書店の台頭とリアル書店の衰退が同一の原因によるものだとするのは、こうした推測が僕のなかにあったからだ。リアル書店がそれまで、ある意味かわりに担ってきた「潜在的なネット客」は、可視化されることによって、ここから離脱することになった。しかしこれは同時に、リアル書店のリアルさ、衝動買いをうながす棚の価値が浮き彫りになったということでもある。そしてこれが衰退している。とすれば、「既知の枠組み」をはずれた「衝動買い」を、ひとは求めていないことになる。その原因として考えられるのが、「検索的思考法」、欲望を完全に掌握できるものとして、共感的な知に充足するありようなのである。
【充足と開拓】
ネット経由と書店経由での本の買い方は、「充足」と「開拓」という二語で区別することができるだろう。買うものが決定しており、あとはそれをどうやって買うかという段階に入っているものは、その商品にかんしてかつえている。欠乏している。だから、それを「充足」させる。その際、方法は問題ではない。なんなら書店でもいい。だが、なんでもいいのであれば、圧倒的に手間と時間を要さないネットが、書店と比べてはるかに便利なのは当たり前のことだ。
それとは別に、ひとは「既知の枠組み」をさらに広げたり、あるいはその枠組みがどういうかたちをしているのか、俯瞰的に(教養の目線で)確認するために、本を手に入れようともする。これは「開拓」と呼べる。これは、現段階ではネットでは難しい。通販サイトでは、買い物の傾向を分析して、「あなたにオススメの商品」などというやりかたをしているが、買い物の傾向を分析している時点で、衝動買いからは遠く、「共感」を出ることはない。遠い未来、ネットの画面でもそれが可能になる日はくるのかもしれないが、現状、「開拓」にかんしては、「書店の棚」以上のものはまだ考えられないのである。
みずからが欲望しているものを手に入れるときではなく、欲望していないもの、欲望しているが自覚されていないもの、こういう、いってみれば「他者」に触れたとき、知性は賦活される。これに対応する売り方は、ただ目の前に本がいっぱい広がっていると、これしかない。いろいろな本が、いろいろなしかたで、いっぱい置いてある、これ以外に、充足を求める顧客が可視化されたあとの書店がとるべき姿勢はない、というのが僕の考えである。
具体的な方法はいろいろある。ひとつは、やはり書店員の好みを出すことだろう。書店員の「既知の枠組み」それじたいを媒体とするのである。ただ、個人的には、「書店員が選んだ~」的な文学賞みたいなやつの価値がいまいちわからない人間なので、よほど知識がないと、あまりに個性の出すぎた棚は自己満足ととらえられかねない。
POPもいい。特に手書きのPOPは効果的だ。僕は字がおそろしくへたくそで、絵も描けないから、指示がなければPOPなどまずつくらなかったが、可能であれば、短評などつけて、小説のPOPなど作りたかった。しかし僕はコミック担当なのであった・・・。
だが、それよりも僕が重視したいのはやはり棚である。「開拓」をさせる店は、まず棚の迫力がちがうのだ。たいがいは、一覧をつかって、ランキングの高い順につめこんでいるだけかとおもうが、そういうなかに、なんだかよくわからない古臭い本があったり、いまはもう読んでいない作家の、ぜんぜん知らない短編集とかがあったりしたときの喜びときたらないのである。
【なにが正しいかはまだ見えない】
こういうわけであるから、僕としては、これからは「現在流通している本はすべてある」レベルの超巨大店舗以外は、専門化、あるいはスタッフの好みが色濃く反映された個人経営に近いものになっていくのではないかと予測していた。売れている本、つまり、よく検索される本は、もはや置いていても意味がない。それは可視化され、離脱している。もちろん、ことはそう単純ではない。売れているからといって、誰もがそれをすぐに検索して購入するわけではなく、おや、これは例の、あの、売れている本だ、と手にとって、それこそ「衝動買い」してしまう、そういうお客さんも、まだまだたくさんいるし、そもそも、僕の勤務先なんかがまさしくそうだったが、ネットを使う環境にないひとも、若いひとでも驚くほどたくさんいるのである。
だがそれも時間の問題かもしれない。お年寄りもスマートフォンをもってSNSとかやっちゃう時代である。うちの店のように、個々の店舗が地域の流れに合わせて店作りするのはむろんかまわないが、少なくとも経営者は、そろそろ「衝動買い」に特化した棚作りをすすめていくべきではないかとおもわれるのである。
ところが、現実は完全に逆である。これが、最初にしつこく本稿が「理想論」であるとくりかえした理由だ。現行の書店はほとんど、取次のランキングに基づいた棚作りを行っている。行っているというか、そう指示されているのだ。えらいひとたちが考えてつくったシステムであり、持続しているのだから、それなりの成果があるのだろう。しかし仮にそれで維持ができているのだとしても、それはなにか、閉店してもらいたくないと願うお客さんの善意によるものだという気がしてならない。ネットで買えば楽なのに、本屋に残ってもらいたいから、わざわざ出かけて買いにきてくださるお客さんも、まだまだたくさんいるのだ。げんに売り上げは落ちているのだから、業界全体が縮小していくのはしかたがない。だが、長々と見たように、書店じたいの役目はまだある。それは、ネット販売によって失われたのではなく、むしろ可視化されたはずだ。だから、この流れはいつか止まる。しかし、そのあとに残った本屋の品揃えが、「ネットで検索されるもの」ばかりで、果たして意味はあるのだろうか。本との、新しい知との出会いの場を投げ出し、それでいいのだろうかと、そういうことを鬱々と考えながら、僕は書店を退職したのだった。
たぶん書店論的なものは今回でおしまいです。つづきをおもいついたら③を書きます。次回は本の買い方。
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