漫画家批評①福満しげゆき 愚痴との共存

今回から漫画家別の考察記事、というほどだいそれたものではないが、その作家にかんしておもっていることを記事にしていく。1回目は福満しげゆき。

ブログをさかのぼってみると、僕の最初に読んだ福満作品は講談社の『就職難!!ゾンビ取りガール』だったことがわかる。そのとき発売されたユリイカのゾンビ特集で、この漫画のことが紹介されていたのだった。しかし、もちろんそれ以前からこのひとのことは知っていた。たぶん、宝島社の「このマンガがすごい!」とかそういう感じのランクに、講談社の『僕の小規模な生活』が入っていたのである。僕はコミック担当だったから、そういうのはわりとチェックしていたのだ。そうでなくてもあの絵だ。気になる作家であっただろうことはまちがいなく、そのユリイカをきっかけとして買ってみて、すぐにはまって、あっという間にほとんどの作品を集めてしまうほどになったのだった。

代表作はというと、やはりその『僕の小規模な生活』か、双葉社の『うちの妻ってどうでしょう?』になるかとおもうが、これは、じっさいのところ非常によく似た作品だ。どちらも体裁としてはエッセイで、福満しげゆきとその妻、後半では子どもたちの愉快な日常が描かれていく。ただ、微妙なちがいかとはおもうが、「妻」のほうは、やはりその非常に個性的な妻が中心になってくるので、じゃっかん明るい印象になっているが、「小規模」のほうは、どちらかというと作者の愚痴がメインになっているふうだ。いずれにせよ、このエッセイふうの作品群においては、妻の存在は欠かせない。「妻」は決してマンガのヒロインのような人物ではない。だが、方言にしろ、ものの考えかたにしろ、福満先生の描く丸いからだのラインにしろ、なんというのか、非常に、実物の女性に対して、たんに思春期的なあこがれではなく、男性が大人になって、結婚して、なお妻を愛しいとおもうときの感覚に共振するような、じつに見事な造形になっているのである。僕は、この妻を見て、とてもかわいらしいとおもうわけだが、これがもし、女性経験のない高校生くらいのときに読んでいたとしたら、果たして、いまとおなじように「妻」をかわいらしいと感じただろうかと、そんなふうにおもうのである。

そういうわけで、妻を中心とした作者の日常が連載のメインになっているぶぶんはあるが(現在は『妻に恋する66の方法』を連載中)、ストーリー漫画が描けない作家なのではない。しかし、そこにはどうやら必然的な連続性がありそうである、というのが今回のおはなしである。

【『生活』から『ゾンビ取りガール』へ】

福満作品で「ストーリー漫画」といえば、やはり最初に思い浮かぶのは『生活』か、その『就職難!!ゾンビ取りガール』だろう。しかし、この2作は、じつはかなりのところ連続している。『生活』は「ヒーローマニア」というタイトルで映画化もされた代表作で、さえない生活の主人公たちが自警団を組織して悪を成敗していく、というはなしだ。これが後半、『ゾンビ取りガール』に接続するような展開を見せているのである。かなり探したのだがどうしても『生活』が見つからなくて、記憶をたどるしかないが(ググっても、後半部はネタバレになるということで、あまり出てこない)、なにか、通り魔のおばさんみたいなひとが出てくるのだけど、それが、なぜそんなふうになっているのか、説明がないのである。
たほうで『就職難!!ゾンビ取りガール』のほうでは、ゾンビの存在が日常になっているという、すばらしいアイデアのもとに描かれた意欲作である。これと非常によく似たテレビドラマが作られたことがあり、福満しげゆきの友人でもある漫画家のモリタイシが煽るようにして、奥浩哉などのビッグネームも含みつつ(奥先生は福満先生のことを非常に買っている)、見るひとが見れば明らかに盗作であるということでツイッターではかなりの騒ぎになったのだが、これが示すことは、それだけこのアイデアが斬新だということだった。映画の世界では、たとえば『ゾンビーノ』というカナダの作品がある。放射能の影響で死者がよみがえるようになった世界で、死者たちはゾンビとして人間を食おうとする。そこで、ある会社が、食人欲求をおさえる首輪を発明し、人間社会においてごくかんたんな作業であればできるようにしてしまったのである。人間たちは「ゾーン」といって、進撃の巨人みたいに、囲われたなかに暮らしていて、その外にはゾンビがうぞうぞと生きている、という状態だ。だから、これも、ある意味ではゾンビとの共存だ。しかし、ゾーンのなかで人間と暮らすゾンビは、ゾンビと人間を分かつぶぶんでもある食欲を制御されており、いわば、未熟な人間のようなものとしてあつかわれているのだ。共存するために、ゾンビを、ゾンビであるという状況から解放して、未人か亜人か、ともかく人間という現象の量的縮小として、生みなおしているのである。「ゾンビ取りガール」はそうではない。文字通り、ふつうに世界をゾンビがうろうろしているのだ。その理由としては、この世界のゾンビはかなりとろいので、ふつうにしていれば回避できる、ということと、法が整備されていない、ということがある。かまれれば、ゾンビになる。が、その切迫はせいぜい、キャバクラとかの客引きが向こうのほうからニヤニヤやってくるようなものであるから、「お、あそこにゾンビがいるな」というふうに注意さえしていれば、襲いかかってきてもなんなくよけることはできるのである。
「ゾンビ取りガール」には「日本のアルバイト」という原型となった短篇があり、主人公はこの、ゾンビが当たり前にいる世界でゾンビを捕獲する仕事をしている。捕獲といっても、動かなくなるまでどこかに移動させることもできないようで、そんなふうに法の整備が遅れていることも、ゾンビを日常にしてしまっているわけである。ゾンビ化現象の初期段階として、基本的にいまのところは、ゾンビは年寄りばかりだ。死んだらゾンビとしてなんとなく起き上がってしまい、普段の習慣で病院にいったりして、医者も死んでいることに気づかないでそのまま帰しちゃったりするのだ。それが、法の整備を急がせない。ゾンビ化したおじいちゃんがアウアウいいながら歩いていても、とりあえずは問題がないからだ。けれども、それが若者だったりすると、結果としてかなり強いゾンビが出てくることになる。かなり強いゾンビは、また若く強い成人を食べてしまうだろうから、それがはじまったらすぐどうにかしないと、あっという間にわたしたちのよく知っているゾンビワールドになってしまうのである。
いま「日本のアルバイト」を読み返してみて興味深かったのが、ゾンビらしきものがいると通報を受けて出動し、義務だということで、念のためゾンビかどうかを確認するのだが、それがゾンビではなかったという場面だ。縛り上げたそのゾンビだか人間だかから注射で体液をとって、特殊なクスリに溶かして、確認するのである。コミュニケーションがとれず、いかにもゾンビふうな、両手を前に出してアウアウいってる感じなのに、それがゾンビではないのである。つまり、この捕獲対象は、ゾンビがいない世界にも存在したにちがいない「変わった人物」であって、ちがいは、化学的に検証しないと見えてこないのである。であるとするなら、ゾンビがいる世界といない世界は、どのように区別できるのだろうか。ゾンビのようだが、ゾンビではない人物がげんにいる、ということなのであれば、このゾンビではなかった人物のようなものが増えていったとき、それはやはりゾンビとなる。そのとき、化学的に、なにが彼をゾンビたらしめているか、いまのものとはちがった方法が考え出されるはずである。それが「現象」となるには、やはり数が多くなっていかねばならないだろう。だが根本的にいって、こうした事情であるのだから、ゾンビは、すでにこの世界のどこの段階を切り取ってみても、そこにいたことになるのである。これが、『生活』と接続すると考えられるポイントだ。『生活』の最後に登場した(ような記憶のある)通り魔的なおばさんが、のちのゾンビになりうると想像できることが、これをつなげてしまうのだ。
そして、『生活』も『ゾンビ取りガール』も、主人公はさえないフリーター的な男であり、これが、当然のことながら、さえない漫画家である(と本人は考えている)福満しげゆきとも接続していく。じっさい、『生活』にしても『ゾンビ取りガール』にしても、その世界観は『僕の小規模な生活』となんらちがわないものであり、地続きといっても言いすぎではないのである。

さて、では、こうしたゾンビ的なストーリー漫画がどのようにして出てきたかということだが、ここでは、福満先生の愚痴の構造を持ち出したい。それは、どの作品でも見られる、ふきだしを用いないセリフ表現である。

【愚痴の構造】

『うちの妻ってどうでしょう?』が、妻観察漫画、かわいらしい奥さんの言動とそれにともなう先生をはじめとした家族のふるまいを描いた陽性の作品であるとすれば、わずかな感触のちがいにすぎないといえばそうなのだけど、『僕の小規模な生活』はほんの少し愚痴に傾いた、陰性の作品といっていいかもしれない。愚痴というのは具体的にいうと、嫌いなタイプの芸人についての悪口だったり、お金もってて女をはべらせてそうな男に対する妄想混じりの呪詛だったり、まあ他愛のないものといえばそうで、福満漫画が好きなひとはそういうのも好きで読んでいるとおもうが(悪口といっても、なんというか、とにかく自虐的なひとなので、背後に「どうせおれなんか」があるから、なんとなく、そのままに受け取れないのである)、これらの言葉の意味するところを、「情報」として受け取っているひとはいないだろう。いや、福満先生ご自身の意図はわからないし、あるいは失礼な発言にあたるのかもしれないが、やはりこの手の愚痴の勘所は語り口とその表情にこそあるのであって、「なにをいっているか」は、たいして重要でなかったりするのである。そうでなくても、愚痴の定義が、たとえば広辞苑では「②言っても仕方のないことを言って嘆くこと」なのである。
愚痴は、いってもしかたのないこと、意味のないことである。だが、愚痴は、福満作品には欠かせない。たんにエッセイ漫画において、方法としておもしろいというだけではない。この作家にかんしては、なにもかもが、「愚痴」からはじまっているのである。大雑把に図式化してしまうと、福満先生においては、圧倒的に強烈な自己と、劣等感がまずある。そして、そのルサンチマンが、漫画を描く原動力ともなっている。ただ、こうした形容がイメージさせるような強度は、福満作品にはない。あくまで、劣等感を抱えている、ということそれじたいが、描くもの、その対象として、いちばん最初に目に入ってくる、ということなのである。許せないこと、我慢できないこと、忘れたいが忘れられないこと、恥ずかしいこと、納得のいかないこと、こういうもろもろが、マグマのように一体となって溶け合い、全作品の底に流れている、という状況を想像すればよい。しかし、作品は、それを解決しようと、あるいは克服しようと描かれるのではない。むしろ、それらは、ほとんど解決できないようなものとしてあつかわれているところがある。かくして、「愚痴」があらわれる。これらの作品には、克服できない、あるいはそれがあきらめられた、闇のようなものがある。エッセイ漫画では、それらが具体的なかたちをとって、中和しないまでもバランスをとろうとして、直截的な表現になっている。と同時に、エッセイでもストーリーでも、福満しげゆきの描くものには、愚痴の入り込む余地があるのである。納得できないことに対して、わだかまりを抱えながら、ぶつぶつを文句をいう「場所」が、展開としても、また方法としても、用意されているのである。
ここでいう「方法」というのが、ふきだしに含まれないセリフの表現だ。漫画に限らず、映画、テレビドラマ、芝居、小説、音楽など、どのような場合においても、「セリフ表現」というものは、それにふさわしいかたちで変容している。映像表現では、基本的に画面にうつっている人物以外の発声が拾われることはない。もちろん、向かい合ってしゃべっている相手の声が聞こえてくることはあるが、ここでいっていることは、たとえばコンビニの前で主人公たちがはなしているときに、そのコンビニの奥のほうで立ち読みをしている男子高校生の会話などは聞こえてこないとか、そういうことである。芝居では、そこのところが深く表現されることもある。ここでいうと、男子高校生に配役されたものも、個々に役作りをして、どういう会話をしているかしっかり吟味したうえで、芝居に臨んでいくはずである。が、じっさいには、それは芝居の幹になる脚本を補強するものとして行われる。芝居は、モノローグの内側をどれほど豊かにするか、ということの挑戦であって、よほど実験的な作品でないかぎり、モノローグであることじたいから離れることはないのである。
漫画にかんしても芝居とほぼ同じで、空間的にはいろいろなものをつめこめるが、「展開」がある以上、筋とは無関係のやりとりは、仮にそれがじっさいにまったく無関係だったとしても、「無関係であることそのもの」が表現のひとつとして回収されるので、やはりモノローグ的なものに属さないでいることは難しい。特に最近のワンピースなどは、大きなコマで、複数の人物がそれぞれかってに会話をしている、などという方法がとられているが、あれは、あの漫画が長大なストーリーと複雑な構成を抱えているからこそである。そうでなければ、のちの展開につながる「必然的な描写」のようなものが、もう描けなくなっているのだ。
僕がいっている「ふきだしに含まれないセリフ表現」というのは、そのまま、人物がしゃべっていることばであるにもかかわらず、手書きふうのフォントで、その横などに小さく、あるいは大きく書かれている文字のことだ。ふつう、ふたりの人物が向き合ってしゃべっていて、ふきだしで表現されたことばは、相手に必ず届くことになる。もし、相手がよく聞こえなかったとしても、それはそのまま放置はされない。こうしたあたりもわたしたちの「自然」な会話とは異なるところだが(なんといったかよく聞こえなかったけどスルーしてしまうことはよくある)、原則的にそうであるといっていいだろう。もし聞こえなければ、それじたいが言及の対象となり、もういちど同じやりとりをすることになるにちがいないのだ。漫画においてふきだしのセリフ表現はほぼまちがいなく「会話のキャッチボール」であり、発声された以上、そのままほぼまちがいなく、相手にそのメッセージは届いているにちがいないのである。
特に4コマ漫画などで、こうした、「相手に届いているのかどうかよくわからないセリフ表現」というものはよく見られる。これも、同様にしてふきだしを用いないか、あるいはもうコマの外に文字が置かれたりする。これは、おそらく情報量の制限されている4コマならではの手法なのだろう。そこまで厳密なコミュニケーションは、4コマで完結する漫画では求められていないし、ほとんどの場合それは補足、つまり、たとえば、相手が「××って知ってる?」といってきたとして、「ああ、知ってる」と応えるとき、(まあネット情報だけど)という具合に、必要ではないがあったほうがいいものとして、添えられるにすぎないのである。
ところが福満作品では、これらのセリフは、どの程度の音量、またどの程度の積極性で発声されているのかもよくわからず、相手に届いているのか、相手に届くことが望まれているのか、そもそも発声されているのか、こういうことが不明瞭なセリフの呈示が非常に多いのである。これは、ふきだしのないセリフに限らない。福満作品ではセリフの表現のしかたは何種類もある。ただしゃべっているそこに連なるしかたで、極端に小さいコマが出現して、手書き風のフォントでぐちぐちかかれたり、あるいはじっさいにしゃべっていることばがふきだしを使わずに書かれ、こころでおもったことが例の、楕円が連続した吹きだしで書かれていたり、じつにカラフルである。こうしたセリフ表現の不安定さが、愚痴の「場所」なのである。

【ポリフォニー漫画】

ロシアの批評家、ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの長編小説の基本的特徴を、「自立しており融合していない複数の声や意識、すなわち十全な価値をもった声たちの真のポリフォニー」と呼んだ(平凡社『ドストエフスキーの捜創作の問題』18頁)。ドストエフスキーの小説では、個性豊かな人々が、それぞれに異なった思想を何十頁にもわたって演説するが、それらは、おのおの対立しており、しかも、弁証法的に、その対立を経由して新しい次元に見解が止揚するということがない。要するに、「作品」の見解が、ひとつのもの、もっといえば「作者」に回収されることなく、対立が対立のまま、ポリフォニックに(多声的に)ぶつかりあうのである。福満漫画の愚痴の構造を考えていて、僕はこのことが思い浮かんだ。ルサンチマンとは、うらみのことである。自虐的な発想の作家は、ありとあらゆることに葛藤を見出すが、しかしそこに解決を与えることはできない。金持ちが金持ちであることを非難してもしかたないからだ。だから、これは克服されない。つまり、弁証法的に、作家が、ルサンチマンを経由して新しい発想にいくということがない。けれども、うらみは残る。このとき、ポリフォニーが生じる。愚痴は、いってもしかたのないことである。いったところで、それが解消することはないのだ。しかし、作家はそれをいわずにはいられない。やがては、作品じたいが、それの存在を許容する、特別の場所、あるいは方法を生み出すようになったのである。克服されないうらみは、そのままに、かたちを変えて、作品のなかにあらわれて、対立する。「愚痴」とは、モノローグ的に世界と折り合いをつけて、日常をひとつの物語にしようと努力する作家のなかにある、それとは別の声なのである。

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