ベトナム・ドキュメンタリー文学紹介【連載第6回】『私はお父さんの娘です』「戦争が今まで続いていなくてよかった」
ファン・トゥイ・ハー, ベトナム婦女出版社, 2020。
“Tôi Là Con Gái Cha Tôi” Phan Thúy Hà, Nhà Xuất Bản Phụ Nữ Việt Nam, 2020.
【訳者Mikikoより】
前回の「カムロの母」に引き続き、クアンチ省が舞台です。1954年のジュネーブ協定によりに南北ベトナムの暫定軍事境界線が引かれた省で、ベトナム戦争中、最も激しい戦闘が繰り広げられた地域のひとつです。特に1972年の「クアンチ城の激戦」では両軍ともに多数の犠牲者が出ました。家族きょうだいも共産勢力側、南ベトナム側に分かれて戦ったことが本章からもわかります。
学生時代の私の恩師、今井昭夫先生がクアンチ省で行った聞き取り調査についてnoteにまとめていらっしゃいますので、本章と合わせてお読みいただければと思います。
さて、元の書籍に写真は無いのですが、こちらでは著者から写真の提供をいただきましたので、本文中に掲載しました。
※本文中、身体の障がい、政治的な立場等に関する差別的な用語を使用することがありますが、原文を忠実に反映するため、そのまま掲載いたします。
◇ 目次 ◇
● まえがき
● クオック・キエット
● ザンおじさんと二人乗りした三日間 (前半)
ザンおじさんと二人乗りした三日間 (後半)
● フエへ
● カムロの母
● 「戦争が今まで続いていなくてよかった」 ☚ 今回はここ
● チンおじさんの親指
● トゥオンサーの夜
● 「レンジャー野郎」
● 椰子の老木
● ホイトン寺の鐘の音
● サイゴンのバイクタクシー
● 女軍人
● 車いすの年老いた宝くじ売り
● 家鴨の卵のバーおじさん
● 私は疲れない
● カオラインの朝
● 「戦争は終わったのになぜ父さんはそんなに悲しそうなの」
● フエへ(再び)
● 傷痍軍人の歌声
● さようなら
● 私はお父さんの娘です
「戦争が今まで続いていなくてよかった」
クアンチで暮らしていたが、我が家は飢えていなかった。父が生計の立て方を知っていたからだ。
父は孤児だったので、日雇い人夫や使用人として働くことで自らを養った。富農の家庭に何か仕事があると、働き者で利口だった父が呼ばれた。収穫期になると、昼間は田んぼで稲刈りをし、夜は稲を足で踏んで脱穀をしたり、藁を積み上げたりした。ときには積み藁の中で眠りこんでしまい、翌朝目覚めると、その積み藁からまた田んぼに出るのだった。そんなふうに働いても、父は一日分の賃金しかもらえない。それでは不公平だと、ご主人たち自ら父には一日半つけてくれた。
両親はともに日雇いをやっていて、夫婦になった。父の畑は作物の育ちが良かったので、副隊長の気に入った。父は自分の畑の土を副隊長の畑に運び、撒くことに同意した。父は土を高く盛り、整えた。懸命に働き、計算高くない。毎日子どもたちに食べさせるものさえあれば、父は喜んだ。
私は七歳でニュン橋の傍にある村の学校に行った。二か月通い、ようやくつづりを覚え始めたところで、学校をやめ、家にいることになった。理由はわからないが、先生が教えてくれなくなった。母がノートを買ってきた。兄はマス目付き定規を使った。毎日、兄が私に読み方、書き方を教える。私が集中していないと、兄は私の手を強く叩いた。当時兄は四年生(今の二年生に相当)だった。兄はクラスで一番優秀で、字がきれいだった。兄が私に読み書きを教え、代わりに私は皿洗いをさせられた。私が皿を洗う時、兄は横に立って私がきれいに洗えたかを見ていた。四回、五回すすいでも、兄はまだきれいではないという。私は腹が立って、口答えした。兄は、もしきれいだと思うならその水で顔を洗ってみろ、という。私は兄が怖かったので、それ以上何も言えなかった。
二年後、村はルーホップに農業学校を開設した。教室はトタン屋根で、きれいないすや机があり、手動の水ポンプがあった。私と友人たちは水ポンプのところに行って、いたずらをした。私の村ではどの家も茅葺き屋根だったが、学校は立派なトタン屋根だった。四年生まで通うと、学校は戦争のため閉校となった。勉強をやめ、私は水牛の世話をした。家にはほかの水牛を突き飛ばす雄がいて、田んぼで引きずられないように綱を引っ張るのに苦労したものだ。
1953年、国道沿いに、ベトミンが敵国フランスを罠にかけるため地雷を敷設した。兄はロンフンの学校をやめ、ケーケー戦区に疎開し、勉強を続けた。
ある明け方、国道で地雷が爆発する音が聞こえた。続けて、短機関銃の銃声がムーティ門区域で激しく鳴り渡った。
銃声が静まりしばらくすると、拡声器から音が響いた。「アロー、アロー(訳注:みなさん、みなさん)、民族同胞の皆さん、ニュン橋に集合してください。ベトミン(訳注:ベトナム独立同盟の略称)撲滅のための、クアンチからの射程範囲から避難してください。」
人びとは手を取り合って、兵営が置かれているニュン橋に向かった。人びとが立ち去るとすぐに村の家々は敵軍フランス兵により燃やされた。炎が高く立ち上るのを見て、村びとたちはみな慌てふためき、消火のために家に帰ろうとした。帰宅が許されず、多くの人は居ても立ってもいられなくなり、地べたをのたうち回って叫び声をあげた。隊長は、やむなく消火のため帰宅することを許可した。
母は妹を抱いており、私は小走りだった。父は体力があるので先に家に走り着いた。私と母がたどり着いたときには、家はすでに焼け落ちて、米倉の土壁がわずかに残っているだけだった。三月の田んぼはすでに花が終わっているが、民家近くにあるロオックとビエンの田んぼには水が無い。父はしばらく走り回り、ようやく肥溜めの小便を汲んできて、燃え盛る土壁にかけた。小便はあまりにも少なく、火柱はあまりにも高かった。父はバナナの葉を火にかぶせ、熊手を使って広げて火が徐々に消えていくようにした。焼け落ちた祭壇下で、収穫したばかりのヌア芋の籠が三つ、燃えていた。向こうで燃えている二籠のサツマイモはもう炭になっている。
伯母が駆け付けた。そして叫んだ。全部燃えてしまった。ええ、私の家、すべて燃えて何も残ってないわ。母と伯母は抱き合って泣いた。
トゥオン村では、二軒だけ焼け残った。
父が、片づけを終えた。家の基礎の上には灰が山積みになっている。父が必死で火から守った、焼け焦げた袋詰めの稲がひとつだけ残っていた。
水牛小屋の上には瓜を這わせた棚があり、緑で屋根を覆っている。おかげで小屋は燃えずに済んだ。父は水牛を小屋から出した。普段は荒っぽい水牛が、おとなしく従順だ。道端の竹の株に水牛を縛り、水牛小屋に戻り丁寧に掃除をし、とりあえずの住まいとした。
その日の夜、知らせを聞いた兄と同級の友人たちが一緒に帰宅した。ゲリラ民兵まで一緒に来た。父が家を再建する一助にと、ひとりひとつずつ木材を運んできてくれた。一行が庭に着いたその時、集落は一斉砲撃を受けた。父は額に砲弾を浴び負傷し、大量に出血した。父の傷を包帯で手当てした後、皆で束の間の休憩をとり、ケーケーに退いた。
兄は父を思って泣き、皆と一緒に行きたくないと言った。近所の人たちがやってきて、一緒に行くべきだと諭した。もし残ったら、明朝フランス軍がやってきて暴行されるぞ。兄は号泣したが、行くことにした。当時の私は、まだ、心揺さぶられるということを知らなかった。
三日後、また拡声器が響いた。「アロー、アロー、ベトミン撲滅の大砲を発射するため、同胞の皆さんは村から出てください」
父はクアンチの病院に入院していた。母と私は代わる代わる赤ん坊を抱き、村の人たちとともに避難した。避難の四日間、空腹とのどの渇きに耐えた。帰宅した翌日、また、アロー、アローが聞こえた。今回は「国道の手前に住む家庭はすべて向こう側に移動するように」。向こう側とは、ドー集落とザオ集落だ。
人びとはまたもや連れ立って移動する。小さな庭の四隅に四家族が仕切りを作って暮らす。着替えなど無い。ござや毛布など無い。料理をする鍋釜など無い。子どもたちは地べたに雑魚寝し、大人たちは自分らの庭に帰るための「アロー、アロー」を待ち望み、耳をそばだてていた。
1961年、父は私にクアンチで木工の職業訓練を受けさせた。1963年二月、卒業した。職業訓練を終え、学校に残って先生の助手を一年余りして、いい給料をもらった。その後、独立した。筋が良かったらしく、たくさんのお客がついた。
私は1944年生まれだが、父は1948年生まれと届けを出した。1966年6月、仕事に行こうと自転車に乗っていると、憲兵に呼び止められ身分証の提示を求められた。憲兵が書類を見終えると、私は車に乗せられた。父が年齢をごまかして届け出たことは何の意味も無かった。たとえ十歳さばを読んだとしても兵役は逃れられなかっただろう。
私の部隊はダナン、そしてフエに行き、さらにクアンチのベンハイ川近く、チュンルォン郡に駐留した。
一度、兄が部隊を訪れたことがある。この前、何をしに城(訳注:クアンチ古城)に行ったんだ、と兄が問う。職業訓練で一緒だったやつと、牢屋の屋根を葺きに行ったよ。中はどうなってた。中は面積の半分が小区(訳注:行政機関、あるいは軍事組織?)になっていて、半分は牢屋だったよ。外から中に入ると扉が二つあって、後ろの扉を入って左に曲がると牢屋なんだ。私は、牢屋の内部の位置を詳細に兄に語った。
牢屋攻撃の夜、私の部隊も参戦した。翌朝、牢屋内の配置図が落ちているのを見つけた。配置図は、私が兄に聞かせた通りのものだった。私はぎょっとした。その配置図を描いたのは、我が兄に他ならない。
私が尋ねると、兄は首を縦に振った。俺が描いて人に渡したんだ。
1968年ダナンで負傷した時、私は地政局宛てに、兄への手紙を送った。手紙は受取人不明で戻ってきた。それ以前から兄はクアンハ市の治安部に異動になっていたが、私は知らなかった。
俺は俺の道を行くから、お前はお前の道を行け。どの道も、良き道だ。死なずに帰ってきさえすればいい。じきに南部は解放される。兄は、私にそう諭した。
私たち兄弟が会うのは、毎回容易ではなかった。その日は、ある親戚が家に来るようにと私に言った。私たちは、そのメッセージが本当にその親戚から出されたものであると信じ、その人の家で会うことになった。
夜八時、その女性が祭壇のランプに火を灯すと、私は畑の壁に沿って進み、部屋に入る。畑を通り抜けて裏から入らなければなければならず、小道を通って正面から入ってはならない。正面の小道を通って入ると、光に照らされ影ができ、見つかってしまう。
私は家に着くと寝台に横になり、寝たふりをして兄を待った。
私は部隊から支給された自分の分の西洋薬をすべて兄のために持ってきていたが、中にはマラリヤの薬もあった。兄は両親の健康を尋ねた。私は家族の状況を簡単に伝えた。
お前、今どこにいるんだ?
ぼく、一か所にはいないんだ。命令に従って移動している。
兄さんは今どこ?
俺は森の中に決まっているじゃないか。
何の情報も無い受け答え。兄もそう、私もそう。
また別の時。会うなり、兄が言う。間もなくキエムを捕らえる。
兄の言葉には、どんな意味が含まれているのか。何にせよ、我が兄の言葉だ。そして、私は自分の考えを言わなければならない。捕えないで、兄さん。あいつを捕まえると、やつらがやってきて村びとをひどく苦しめるんだ。
私たち兄弟は、午前一時まで話し続ける。兄は私に時計をひとつとナショナルのラジオを買ってほしいという。(その後、私はダナンに行った際に購入し、帰省の際、両親に渡した。両親は緑茶の束の中に隠し、人に頼んで兄に届けた。)
その夜、私たちが立ち去った直後、治安部隊が秘密の地下壕を見つけた。地下壕を出る前に、兄は軍服、武器、共産党入党証を放っておいた。やつらはそれを我が家に持ってきた。父と兄嫁が連行された。連行されるたびに、暴行される。奴らは毎回石鹸と唐辛子を混ぜた水を顔にかけ、のどに流し込んだ。それは、当時クアンチで広く取り入れられていた拷問法だった。
その時は、兄嫁は連行されてから二か月監禁された。釈放されて帰宅した時の兄嫁は、精神を病んだ人のように見えた。ぼーっとして、恐怖にさいなまれ、四か月も五か月も誰とも話をしなかった。
「集結」した子ども、革命勢力側の活動をしている疑いのある子どもがいる親は、夜、田んぼや橋に連れ出され、そこで眠ることを強要された。ベトコンが橋に地雷を仕掛けて橋を爆破しないように橋で寝るのだ。雨の日も、寒い日も、そこで寝なければならなかった。私の両親は、私が兵役に就いたため許され、以前のように夜な夜な橋まで行って眠らなくてもよくなった。兄は、両親のためだ、と私を励ました。俺は南部を解放しに行く。お前は父さんと母さんを解放するために行くんだ。
軍事境界線地域にいた私の部隊では毎日死者が出た。ある夜半、私がいた地下壕が崩落した。B52がベンハイ川の向こう側の橋から攻撃してくる。大型の爆弾六発が駐屯地に落ちた。生き残った人びとは、夜通し手探りで遺体を掘り出し続けた。完全ではない状態の遺体が十二体、地下壕の入り口に横たわっている。
戦場。一時間はとても遅く流れるのに、死は一瞬でやってくる。
私は食糧運搬車に乗りドンハーからゾーリンに向かっていた。バーゾック峠の半ばで待ち伏せ攻撃を受けた。前方に煙柱が立ち上る。轟音が天を揺るがす。地雷は車に命中しなかったが、運転手の手元はふらついている。突撃の掛け声と銃声が上がる。私は立ち上がり、車から飛び降りる姿勢を取る。雨あられの集中砲火。私は腿に銃弾を受けた。仰向けに倒れ、両脚は背中の方に曲がっている。銃は身体から吹き飛ばされた。私はなおも負傷した感覚が無いまま、銃に手を伸ばしてつかもうとしたが、届かなかった。車はパンクして止まった。運転手も車から降り、戦闘に加わった。車内には私とキーしかいない。腹が苦しいので、キーにベルトを外してほしいと頼んだ。二度言っても返事がない。キーは死んでいた。
私が入院していると、チンさんがやってきて、兄が死んだことを知らせてくれた。
じきに南部は解放されるから、死ぬんじゃないぞ、家に帰るんだ。兄は私にそう諭した。兄は勝利の日を信じていたが、その日を迎えることなく死んでしまった。
二か月後、母も亡くなった。兄嫁は二人の子どもを連れてカムロに疎開した。兄嫁は、疎開の地でデング熱を患い、死んだ。二人の子どもにもう両親は居ない。1971年末、私は退院し、田舎に帰って兄夫妻に代わり子どもたちの世話をした。
ゾーリン、カムロの戦線に、銃声が止む日は無かった。1972年2月14日の夜明け、解放軍が銃声をあげた。我が家の前、ラヴァンの路上で両軍が交戦している。ハイランの同胞の中には、家族が革命勢力に従ったため夜間秘密裏にカムロに避難した人がいた。カムロの同胞の中には、家族が南ベトナム兵になったのでフエに避難した人がいた。人びとは路上にぐったりと横たわっている。負傷している人もいれば、死んでいて、埋葬されぬままの人もいた。
解放軍はミーチャン川以北を支配した。当初、人びとは弾丸を恐れて外に出ようとしなかった。しばらくするとそれも慣れて、みなで誘い合ってクアンチに行き、塩や、トタンや、建設資材を受け取りに行った。
ある日の昼間、B-52の攻撃が村の真ん中の第2集落から第8集落まで命中した。二十人が死んだ。家屋は崩壊した。父は、地下壕から地下壕へと走り回った。この地下壕は狭い、より広い地下壕へ、というふうに。十日経つと、状況はどこも同じだと気づき、自宅に帰ることにした。家なら米がある。我が家は壁が崩れていたが、大黒柱を立てない小家屋だったので、周囲の壁は崩れていても、日差しや雨をしのげるトタン屋根は残っていた。帰宅すると、人に頼んで家の中央に地下壕を掘ってもらった。頑丈な地下壕だったので多少の安心感は得られたが、B-52にやられたらおしまいなのは明らかだった。
陰暦の五月末、地域の幹部は住民に通告した。「敵はクアンチの再占領を狙っている。戦闘を開始するため、疎開命令が出ている。住民は白色を避け一人二着の服を準備するように。」
当時の我が家の状況:父は転んで手の骨折をしたばかり。片方しか残っていない私の脚は非常に弱い。妻は三番目の子を出産して二か月。私は家族会議を開いた。父と妻は意見が一致していた:「もしみんなが逃げるなら自分たちも逃げる」。私の意見:「もし逃げたなら―食べる物が無く、道中で爆弾に当たって死んだり負傷したりすると、誰も支えたり運んだりできないので遺体は見捨てることになる。もし残ったなら―食べ物はあるし、負傷しても救急に連れていける。もし死んでも遺体は傍に置いておけ、畑に運んで埋葬できる。」
目の前には大砲、頭上には航空機、生死の境目はいつ訪れるかわからない。私の分析を聞き、それもそうだということで、全員同意で残ることとなった。残るとはいえ、私は薬、包帯類、米袋二つ、そして衣類の包みを用意し、吊るしておいた。緊急時に、取れる者が取って逃げられるように。
砲撃を見て、数家族が地下壕に隠れた。這い上がったときには、村びとたちはいなくなっていた。あっちの家族がこっちの家族に「これからどうする」と状況を聞いていた。我が家が残るのを見て、彼らも少しばかり安心したようだった。
砲撃が収まると、兵士がノン集落に、さらにドー集落にやってきた。午後四時、次の激しい砲撃が始まった。砲声が止むと偵察兵、空挺兵が我が家に現れた。全員地下壕に避難し、私が出入り口のところに座った。私は杖を支えに立った。「手を挙げろ」、と偵察兵が戦闘姿勢のまま私に近づいてくる。私は住民であると気づかせるため、立ち上がった。
偵察兵のひとりが走り寄ってきた。ファンおじさんだ。おじさんはサイゴンからやってきて、故郷で妻子を探したが見当たらず、私の家に来たのだった。おじさんの妻子は村びとや革命勢力についてカムロに疎開していた。おじさんは、なんでしがみついてでも引き止めなかったんだ、と私を責めた。
数日後、多くの兵士が帰省し家族を探したが、ほとんど誰も会うことができなかった。
私は六、七歳から、両親や警報音に従って走っていた。
二十年後の私も、相変わらず、南へ向かって流れゆく人びとの中にいた。
ハイフーのロンフン地区、ラヴァンでは激しい戦闘が繰り広げられており、私たちは軍用車に迎えに来てもらい、フエに向かった。フォンディエンまで行くとミルクがふるまわれ、車まで運んで、ひとりひとりに配ってくれた。車は走り続け、フオンチャー郡の学校まで来ると、そこで一泊する手続きをした。翌朝、車はフォントゥイのズオン・スアン・トゥオン学校まで走った。各家庭にサイズの違う鍋を三つずつとひとり15キロの米が支給された。ひと月暮らすと、また車でロントーまで移動し、疎開生活をした。ここには3000人いた。ほとんどは管理職員、つまりクアンチやフエで農場建設を行っている役人らが避難しているのだった。私たちはここに一年半いた。
1973年8月帰宅命令が出された。
帰宅すると、家屋は完全に壊れており、道路や畑は爆弾や砲弾のクレーターでいっぱいで、無傷の道は一つもなかった。開墾を続け、復興を目指した。荒れ果てた土地は扱いにくかったが土壌は良く、豊作だった。稲の収穫が二度終わったころ、地域の解放勢力が再び公然と活動を開始した。村人たちは不安に陥った。戦争が再び起こるのではないか。結局、再び疎開することになった。
1975年3月、解放軍はタックハン川の軍事境界線で多数の攻撃を仕掛けた。ハイフー地域のマイリン区を襲撃した。人びとは手をとりあってフエに避難した。拡声器が響く。フエはもう安全ではありません。ダナンへ避難を続ける。国道1A号線は、峠のふもとや多くの区間を解放軍が支配していた。民間人も軍人もトゥアンアン港に向かって進む。ダップダーからトゥアンアンは軍用車と家族を乗せた自家用車で渋滞していた。車が二列、三列に並び、足踏み状態だ。陸路では抜けられないので、我が家と、親しい数家族はトゥアンアン港から水路を使うことにした。
トゥアンアン港の手前には誰も助けることのない負傷兵がいた。負傷兵は死亡した兵士の傍らに横たわっている。遺体はまだうごめいていた。
午前八時、沖合には数十隻の軍用輸送船が港に入ってきて、人びとを乗せていく。十隻も入港しているのに、我が家はまだ乗れない。船が口を開くと人や車が競い合って乗っていく。船は慌ただしく錨を上げる。船に乗れた人、海に落ちる人。
残りの船は、岸に接近できず、岸から100メートルほど離れたところで停泊している。私たち家族は、エンジン付きボートに飛び乗って船に乗り込んだ最後の人びとだった。船は解放軍の射程範囲を避け、沖へ急いだ。昼の十一時から翌朝五時まで、船はティエンサ港に接岸していた。ティエンサ港からソンチャーバスステーションまで、集団ごとに徒歩で移動していた。
嵐を越えていく鳥の群れのように、皆ここでお別れし、知り合いのいる場所へと散っていった。
私は家族と小型乗り合いバスに乗り、友人の家があるアンハイに向かった。二日目、不穏な兆しが現れた。三日目は混乱に陥った。友人は私を道端に呼び出し小声で言う「お前があちらで身動きが取れなくならなくて、良かった。俺の家はこの数日で防空壕を掘っておいた。家は、お前に預ける。俺と家族は今夜ノンヌオックに行く。ダナン空港から空軍の専門家優先の便があるんだ。もしも乗れなかったらお前のところに戻ってくる。お前はここでしっかりな、幸運を祈る。」言い終わると私たちは抱き合い、泣くのを堪えたが、涙が溢れた。その午後、友人と家族は静かに出かけた。
私の家族は友人の家に二日間滞在した後、食糧を求めてドンザンの学校に避難した。そこでは、住民救助の手続きをしていた。
私たちは軍の物資配布所に行って肉の缶詰、薬、ミルクをもらい、米倉庫で備蓄の米をもらった。父が50キロ、妻が20キロの米を背負った。どの家庭も200キロ以上の米を持ち帰った。米を担いで帰る途中、同じ村のミエンさんが旗竿のある広場を通過中に砲弾に当たった。解放軍がどっと押し寄せた。
翌日、市のラジオ局が解放軍に接収され、活動を開始した。私たちはミエンさんを畑の一角に埋葬した。車に乗って故郷に帰る間、生後ひと月にも満たない彼女の赤ん坊を皆で順番に抱いた。彼女の夫は、部隊が壊滅して今どこにいるのかわからない。帰途の車内は皆、心ここにあらずだった。今回の帰宅が、最後の帰宅となるのだろうか。
夜中に田舎の我が家に着いた。カムロ、ヴィンリンに疎開した住民たちも帰宅しつつあり、すでに明かりの灯っている家も多かった。社の幹部は、我が家を社の役場にしていた。翌朝目覚めると、入り口に掲げられたスローガンの看板が目に入った。「冬春の収穫に集中し 夏の作物を全力で準備しよう」。
私の二人の息子は、上は六歳、下は三歳だった。疎開の道中で、二人は病気にかかった。下痢と発熱だった。解放後間もないころ、私は二人の息子を失った。
この土地で、まだ戦争が続くのだろうか。
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この土地で、まだ戦争が続くのだろうか。私はラムおじさんの回想に身をゆだねる。
おじさんは杖をついて台所に行った。片手に箸と茶碗、片手に杖を持っている。私は手を差し伸べようとしたが、おじさんが落ちた箸をかがんで拾おうとして慌てているのを見て、ためらった。午後二時に食べる昼食はもう美味しくはない。私のせいだろうか。
ラムおじさんの瓦葺の家は1983年に建てられた。トゥオンサー村で最初の瓦葺の家で、家の中にはおじさん自ら作った机やいす、棚や寝台がある。このような家は、当時は裕福だと言ったものだ。
空腹を恐れないなら、革命勢力につく。死ぬのが怖いなら、サイゴン軍の兵役に行く。兵役に行く方が死ぬ確率が低い。当時私の村から同世代の二十人が出て行ったが、戦争が終わると七人しか残っていなかった。
退院してきたとき、私は百万ドン持っていた。何年にもわたって貯めていたものだ。誰かが何かを売ったらそれを買った。椅子や、寝台、木材などひとつひとつ買っていった。誰かが何かを売ったらそれを買って置いておいた。しかし、売り物がある人など、ここにはいない。だから多くは買えなかったが、通貨切り替えの日には、まだ交換する金が残っていた。500ドンで以前は100キロの米が買えたが、今では500ドンは10ドンに交換され、20キロの米にしかならない。
妻は合作社(訳注:日本の農協のような組織)で働いて一日300グラムの米をもらえる。収穫期の終わりに米袋三つ分(訳注:一袋約50㎏)持ち帰れた。三袋の米で、どうやって生きていくのか。
私は木工の合作社に入った。10号請負決議(訳注:1988年4月5日共産党政治局10号決議。農家など生産者の自主性がある程度認められた)が出されてから独立した。小さな木工所を開き、三、四人の職人に技術を教え、師弟一緒に働いた。
ラムおじさんは部屋に入って詩集を一冊持ってきた。おじさんは読んで聴かせるよう私に言う。おじさんがズイタン総合病院(訳注:ダナンにあった軍病院)に入院中、悲しみや兄への想いを綴った詩集だ。
「戦争が今まで続いていなくてよかった。今まで続いていたら、ベトナムの人口はいったい何人残っていただろう。」
おじさんの言葉に、私は胸を締め付けられた。あの人たちは、戦争の中で生きてきた。戦争が一生続いたとしても理不尽だとは思わないくらい、あまりにも長い間。
〈了〉