ベトナム・ドキュメンタリー文学紹介【連載第2回】『私はお父さんの娘です』
ファン・トゥイ・ハー, ベトナム婦人出版社, 2020。
“Tôi Là Con Gái Cha Tôi” Phan Thúy Hà, Nhà Xuất Bản Phụ Nữ Việt Nam, 2020.
【訳者Mikikoより】
著者のファン・トゥイ・ハーさんは、1979年、ハティン省フオンケー生まれ、ハノイ在住の作家で、ベトナム戦争後のひとびとの語りを丁寧に集め、書籍にまとめていらっしゃる方です。分野としては、ドキュメンタリー文学、というのでしょうか。本書は特に元南ベトナムの兵士だった方々のお話を中心に書かれており、これまであまり焦点が当たらなかったひとびとの「戦後」がありのままに伝わってくる作品です。聴き手と語り手が入り混じったような独特の文体も魅力ですが、日本語にした時にもうまく表現できているといいなぁと思います。元の書籍には写真は無いのですが、こちらでは著者から写真の提供をいただきましたので、本文中に掲載しています。
《今回登場するザンおじさんについて》
この【連載】第2回を載せるにあたり著者とやり取りをしたところ、ザンおじさんは数か月前に逝去したとのことでした。「この写真のように、そのまま向こう側に行ってしまった」と。日の当たらない人生を送っている人たちを、さらにその陰から支え、記録し、記憶してきたザンおじさんの人生を象徴するような写真に思えます。こうして、語り手の人生が、ひとつ、またひとつと閉じられていきます。著者が送ってくれたばかりの写真をここに掲載し、ザンおじさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
※本文中、身体の障害に関する差別的な用語を使用することがありますが、原文を忠実に反映するため、そのまま掲載いたします。
◇ 目次 ◇
● まえがき
● クオック・キエット
● ザンおじさんと二人乗りした三日間 (前半) ☚ 今回はここ
ザンおじさんと二人乗りした三日間 (後半)
● フエへ
● カムロの母
● 「戦争が今まで続いていなくてよかった」
● チンおじさんの親指
● トゥオンサーの夜
● 「レンジャー野郎」
● 椰子の老木
● ホイトン寺の鐘の音
● サイゴンのバイクタクシー
● 女軍人
● 車いすの年老いた宝くじ売り
● 家鴨の卵のバーおじさん
● 私は疲れない
● カオラインの朝
● 「戦争は終わったのになぜ父さんはそんなに悲しそうなの」
● フエへ(再び)
● 傷痍軍人の歌声
● さようなら
● 私はお父さんの娘です
ザンおじさんと二人乗りした3日間
ザンおじさんは約束通り、クオック・キエットが電話をしてからちょうど一時間後に彼女の家に現れた。
お父さんが亡くなったのに、どうしてわしに連絡をよこさないんだ。クオック・キエットはうろたえて答えに困っている。おじさんに心配をかけたくなかったのだろう。
その夜、ザンおじさんは元第7師団所属の兵士だった人が亡くなった旨を、フェイスブックに載せた。ある人からのコメントには、自分の父親は同じ連隊にいたのでクオック・キエットの父親を知っている、とあった。今さらこの情報を得ても、単に確認の意味しか持たない。
ザンおじさんが今後数日間私を手伝ってくれることになり、クオック・キエットは嬉しそうにしていた。私がわざわざ北から南にやってきたにもかかわらず、なおもまごついており、どこから始めたらいいのやら、という様子なのを気にしているようだった。その夜、彼女から私にメッセージが届いた。午後のザンおじさんとのおしゃべりはどうだったかしら、すべてがうまくいくよう願っています。
私はザンおじさんの後を追って自分のバイクを走らせながら、座って話ができる場所を探した。この風景は、ゴックおじさんの後を追って15号線をバイクで走りながら、爆弾の穴が今なおいくつも残る田んぼを通ってフオンケー郡ザーフォー社(訳注:ハティン省、著者の故郷近く。別に著書がある。「社」とは郡の下位にあるベトナムの行政単位で「村」に近い。)のトゥエンおじさんやヴァンおじさんを訪ねた日々を思い出させる。あるカフェの前にバイクを停めたが、音楽がうるさすぎた。くびすを返してバイクを押し、別のカフェを探す。道路沿いの静かなカフェなんて、簡単には見つからない。私とおじさんは、屋根裏でかなり暑いけれど誰もいないし音楽も無い、ただ道路の音がするだけのカフェで良しとすることにした。
ザンおじさんは、日除け用の上着のポケットから小さなノートを取り出した。表紙も背もよれよれだった。ここに、おじさんが六年間に訪ねた人たちの住所が書かれている。住まいはクアンチ(訳注:南ベトナム北端の省)からベンチェ(訳注:南部メコンデルタにある省)まで、散り散りだった。その数は増え、そして次第に減っている。毎年、何十人かが亡くなる。長い間連絡していない人も多く、今、どうしているのかわからない。
おじさんは、あっちのページを繰ったりこっちのページを繰ったりしながら住所を探している。この近くに暮らす人たちに試しに電話をかけ、状況を聞いてみる。二人に電話して、二人とも断られた。ほかを当たったらどうだ、わしなんか、何も語ることは無いよ。おじさんは食い下がる「どこでけがをしたとか、痛みはどうか、どんな治療を受けたかとかを話してくれりゃいいんだ」。それでもだめだった。あいつら小心者だな。そしておじさんと私はあの頃に思いを馳せ、漠然とした恐れに同情する。
ザンおじさんは、温かみのある北部弁を話す。ひとつひとつの音節を丁寧に、優しく発音する。よく聞こえるようにもう少し小さな声でゆっくり話してほしい、とおじさんは私に何回か言った。さっき、君は赤信号を無視したぞ。何日か後、おじさんが私の信号無視にについて再度釘をさしたので、恥ずかしかった。運転手なのにぼんやりしているから、交通法に違反しても気づかないのだ。だから、君はバイクを駐輪場に預けてわしのバイクに乗ったらいいと言っているんだ、とザンおじさんは言った。話もしやすいし、君がバイクから落ちないかを見守る必要もなくなる、と。
わしは今、時間がある。だから、昔同じ塹壕にいた仲間たちを探しに行く。
みんな遠方に住んでいる。道がすごく狭いこともある。車で行っても、途中からバイクタクシーを呼ばなきゃならんのも面倒だし、バイクタクシーに払う金なんて無いしな。給与は無いから、今は生活費も子どもたちが面倒を見てくれている。自分でバイクを運転したほうが気楽だし、疲れたら休める。一日に二百キロ走ったことも一度じゃない。いくら探しても家が見つけられなくて、宿で一夜を過ごして翌日また探すこともある。
おじさん、このお仕事を始めてから長いんですか?
以前、教会のコンピュータ修理教室に参加したんだ。クラスメートはたいがい十八とか二十歳とかの若い子たちで、わしだけが年寄りだった。クラスの後、教会で神父さんがコンピュータを修理するのを手伝った。暇なときには、インターネットを眺めていた。それでフェイスブックも覚えたんだ。初めのころは、「友達」は若いのばかりだった。ちょっとの間楽しんだけど、やがて飽きた。
ある日、傷痍軍人に会った。ちょっと話を聞いてみると心の痛む状況だった。それで昔の部隊名や、軍籍番号を尋ね、写真を撮ってフェイスブックに載せてみた。個人的な共有として。意外にも読む人がいて、彼らもほかの人にシェアして、多くの人に知られ、さらにはお互いを尋ねあうようになり、昔話になり、記憶を呼び戻したんだ。それからはフェイスブックをもっと使うようになり、同じ部隊の仲間を探せるようになった。写真の人に、動画の人に、五十万ドン、百万ドンを送ってほしいと頼まれることもあった。次第にわしのしていることが知られるようになった。どこかに傷痍軍人がいると聞くとわしにメッセージが来るようになった。わしは住所に従って探しに行き、情報を確認した。
小さな贈り物や伝言が人生を変えられるわけじゃないが、仲間の心を温めることはできる。贈り手の心も、受け取り手の心も。誰かがまだ覚えていてくれていることが嬉しいんだ。
ザンおじさんは、ノートを閉じた。今日の午後に私が会えそうな人を誰も見つけられなかったのだ。
おじさん、急ぐことは無いですよ、まだ何日もありますから。私とおじさんでこうしておしゃべりしていたっていいんですから。
わしもレンジャー部隊に五年いたからね。だが、君が記事を書くには面白くもないんじゃないかな。明日誰かに会えないか、今夜考えてみるさ。急だったから、頭に浮かんでこないんだ。
おじさん、レンジャー部隊にいたのなら、トゥアンおじさんをご存知?
どの部隊かな。
クアンガイのバートー郡、ザーヴック社に長く駐留したとだけ伺ったのですが。ふるさとの兵士たちについて書いた私の本をトゥアンおじさんが買ってくださって、それで知り合ったんです。
クアンガイは、74年にわしもいたよ。ただ、この人は知らんなあ。
この質問を思い出すと笑ってしまう。幼いころ、ハノイに住んでいる誰かが田舎に帰省すると、私たち姉妹は、うちのサムおじさんをご存知?と聞いたものだったが、それと同じだ。社全体で我が親族だけがハノイにおじさんがいることを誇りにしていて、首都にいる人たちどうしならきっと知り合いに違いないと考えていた。
ザンおじさんはザンディエン(訳注:ベトナム南部、ドンナイ省チャンボム郡ザンディエン社)に住んでいる。1975年以前、おじさんの家族はハノイに暮らしていた。ご両親は、運送会社を経営していた。それ以前の1954年、おじさんの父方の祖父母はハノイのハンバック通りに住み、ハノイ-ハイフォン間を走る運送会社の社長だった。1954年、おじさんは父親に連れられて、飛行機でサイゴンに来た。ご両親はサイゴンでも運送業を続けた。そして、ホーナイ(訳注:同じくドンナイ省ビエンホア市ホーナイ坊)に引っ越した。解放後、おじさんの家にはなお自動車が2台とトラックが3台あった。それらの車両は、徐々に接収されて公共財産となった。家業を続ける車もないので、一家はホーナイを去り自給経済区に行き、あちこちをさまよったのちにザンディエンに落ち着いた。
ザンディエンには、偶然にもフオンケーの我が家の隣人たちも多く移住していた。我がふるさとから人々が移住したのは、ふるさとが台風に襲われ、働いても収穫するものが何も無かったからだ。移住して工場労働者になったり、畑を耕したりした。若者世代が先に移住してきて、家屋を整えてから徐々に両親も呼び寄せる。今朝アインおじさんの息子がメッセージを送ってきて、父親がザンディエン教会の近くに住んでいると知らせてくれた(アインおじさんとは拙著『坂を越えればわが家(Qua khỏi dốc là nhà)』に記した我が家のご近所さん)。
私とザンおじさんは、アインおじさんを訪ねるためザンディエンに向かった。教会を背景に、おじさんと私はもう少しおしゃべりを続けた。黄昏時、教会の屋根も、十字架も、夕焼け色に染まっていた。私は、撮ったばかりの写真、鮮やかな夕焼けに包まれて滲んでいるおじさんの写真をザンおじさんに送った。おじさんはかすかに笑って、そしてやめた。
三年前、おじさんは十二歳の時から今までの自分の人生を書いた。主に兵隊に行っていたころのもので、おじさんはそれをフェイスブックに載せた。そのアカウントはハックされた。パソコンに何篇か残っているはずだから、探し出せたら君に送ってあげるよ。
続きは書くんですか?
もう、気が乗らないんだ。高ぶった感情がわしに文章を書かせたんだが、それが去ってしまったから、もういい。
ザンディエン教会から曲がって入る小道沿いには、新築の家が何十も建っていた。ザンおじさんの家に向かって曲がる道に沿って、我がふるさとから来た人々の家があった。
私はアインおじさんの家で夕食をとり、泊まった。おじさんの子どもたちは私が来ることを知り、集まってもてなしの宴をしようと約束しあっていた。夜遅く、子どもたちが帰宅すると、アインおじさんは学習ノートを取り出して、そこに書かれているものを私のために読み聞かせた。おじさんの手も、声も、かすかに震えていた。おじさんは、戦争の犠牲になった奥さんの弟のことを書いていた。兵隊に行くその日まで、お腹いっぱい食べたことがなかった、と。小学四年生の時の友達のことを書いていた。おじさんを背負って通学してくれ、おじさんが歩く練習をする支えになってくれた、と。もう、フックドン社の烈士慰霊碑にある名前しか残っていない友達。近所の家族が爆弾にさらされたことを書いていた。兵隊たちの世話をしてくれたドンアム村についても。少年のころのおじさんには、戦争以外には何もなかったからなのか、それとも私が戦争の話に関心がある人間だからなのか、午前二時近くになっても、おじさんは私に読み聞かせ続けた。この仕事のために私がここに来るのをずっと待っていた、とでもいうように。
翌日、私は約束の時間に十分遅れた。ザンおじさんはすでに石の椅子に座って待っていた。
ビンズオン(訳注:ドンナイ省の隣の省)に二人いるよ。ここから四十キロだ。ちょっと遠いから、いやかね。電話はしてあるんだ。気のいい人たちだよ。
いやなことなんてあるもんですか、行きましょう。
十キロほど行き統一病院に着くと、私はそこにバイクを預け、ザンおじさんのバイクの背に乗った。
そして今、私はバクダン島にあるカフェで、そのおじさんたちと一緒に腰かけている。
ドンナイからここに渡るにはフェリーに乗らなければならない。私はフェリーを待っていた。川岸の家から南部民謡が聞こえてきた。「田やはたけ、水牛の群れとともにある喜び。バンヤンの木、竹の茂み、キンマの生け垣とともに。竹の橋がかかる堤とともに。僕の足はどれほど遠ざかっていただろう。もう、すっかり荒れ果て苔むしている。」(「武器に別れを告げる Giã Từ Vũ Khí」ニャット・ガン)悲しみを歌った曲だが、耳ざわりがいい。今やアップテンポのリミックスバージョンもある。目の前には川と中州が広がり、隣にはいつも物思いにふけっているザンおじさん。私は心をざわつかせながら聴いていた。この風景には見覚えがある。
Giã Từ Vũ Khí - Chế Linh [Bản Chuẩn] (☚Youtubeのリンクです)
フェリーで川を渡ると中州は静かに青く陰っていた。通りはきれいで道行く人も少ない。道の両端に沿って松葉牡丹の花が並んでいる。
ゴルフ場を越え、青々とした田を越え、ザボン畑を越えていく。おじさんと私が乗るバイクの後ろからついてくる男性がいる。おじさんが電話して今朝会うことにした友人だ。情けないことに、帰る段になっても私はそのおじさんの名前を聞けていなかった。そんなに重要な事柄ではないだろう。またきっとここに戻ってきて会うだろう、と思っていた。そのおじさんを愉快なおじさん、と呼ぶ。おじさんと私は楽しくおしゃべりした。私はフオンケー弁をしゃべり、おじさんは南部弁をしゃべるので、時おり二人のうちどちらかが黙り込み真意を推測する。
もう一人現れた。寂しそうな顔をした人である。そのおじさんを寡黙なおじさん、と呼ぶ。寡黙なおじさんは市場からの帰り道で、バイクの前方にシジミの袋を下げている。その日の昼食には、大きくてうま味たっぷりのシジミがふた皿と、川の恵みが何皿か並んだ。ここの魚やエビは、爆弾を使ったりしなけりゃ幾世代食べても食べきれやせん。爆弾を使った漁は国中どこでも行われていますものね、と私は言った。私の田舎じゃ、天然魚が特産物になっていますもの。魚の養殖をしている人たちは、高値で売るために川の魚を捕まえている、って言いますよ。
義足が本当の脚と組み合わされ歩くこと半世紀、すっかり馴染んでいる。おじさんたちは素早く、機敏に歩く。ザンおじさんが言ってくれなかったら、気が付かなかった。お二人とも一本ずつ脚が無いなんて。
お二人とも、バイクタクシーを仕事としている。今朝はこの約束のために仕事を休まざるを得ない。
大したことじゃないさ。お前さんが来てくれたらわしらは嬉しい。わしを気にかけてくれる仲間がいるなんて、かみさんにも鼻が高いしな。
この人はハーさんっていうんだ、サイゴンで知り合った。お前さんたちに会って、兵隊に行っていたころの話を聴きたいそうだ。ザンおじさんが友人たちに私を紹介する。
お安い御用さ。寡黙なおじさんが言う。
寡黙なおじさんは、声が小さすぎる。正面に座り、帰宅後に聴けるようレコーダーのスイッチを入れる。
解放の日から今日まで、わしらはわが身を憐れんで、沈黙して生きてきただけさ。
このくらいの時間になると、わしはサイゴンに向けて薪を押して坂を上っていた。四十キロの距離、普通の人にとっても大変だろうが、一本足のわしにとってはなおさらだ。押し車一台分の薪なんて大した金になりゃせん。だが、薪でも割る以外に何をしたらいいのかわからん。かみさんはえらく体が弱くてな、重たい仕事はできんのだ。サイゴンの都会育ちでね。
仕事が安定してきたころ、親父がわしの嫁の心配を始めた。わしに会いにサイゴンに来た時、薬工場から出てくるかわいらしい子を見かけたんだ。様子を見ていたら、工場の職員だとわかったらしい。それで、その子の家を探し当てた。親父はその家に入っていって母親に会った。二人で何をしゃべったんだか、何日か後に田舎に帰って式の準備をした。あの頃の結婚はそんなふうに簡単なもんだったよ。
わしは言論新聞で植字工をしていた。その仕事が好きだった。毎日新聞が読めたしな。文化的な環境で交流することができた。植字の仕事のおかげで、わしはつづりの区別がつくようになった。いまじゃ、孫たちが間違えるもんだから、しょっちゅう注意しているさ。
あのころがわしの人生で一番穏やかな日々だった。朝一番にコーヒーを一杯飲む。仕事に行く。夕方仕事が終わるとズボンのポケットに新聞を突っ込んで、自転車をこいで帰宅する。
かみさんはお腹が大きくなると仕事をやめ、実家に帰した。何週間かごとに会いに行く。
ある日、やつらが親父のところにやって来て、わしを帰省させ入隊させよと告げた。親父は四回わしに言ってきたが、帰らなかった。日々新聞を読んでいて、戦況はわかっていたんだ。
わしが帰省しないでいると、数日後にやつらがまたやって来た。そこに居座って、両親に家鴨を絞めさせ、酒を買ってきて飲んだ。親父も飽き飽きしていた。母も言った。こんなの耐えられない、家族の食べ物だって足りないのに。親父はサイゴンに出てきてわしを探した。息子よ、帰りなさい、ずっと隠れていられるわけじゃない。やつらは家族まで苦しめた。帰省して、地方軍に入隊した。
かみさんは間もなく出産を迎えようとしていた。行かなきゃならん恐れを彼女に伝えた。出征前日の夜、わしは彼女に問い続けたよ。
もし俺が脚を失ったらどうする?
大丈夫。
もし俺が腕を失ったらどうする?
大丈夫。
片目がつぶれたらどうする?
大丈夫。
両目がつぶれたらどうする?
大丈夫。全部大丈夫よ。
わしは泣くように言った。「俺は死ぬのが怖いんだ。行きたくない。」
行く前はぶるぶる震えていたが、戦場に立って銃声を聞いたら怖くなくなった。そのうち銃の火薬のにおいを嗅いだらなんとも親しみを感じるようになったよ。
夜、おふくろがしくしく泣くのを聴き、かみさんは息をひそめていた。かみさんは子どもを抱きしめていた。今度の戦いであなたのお父さんはきっと死んじゃう。
わしは脚を失った。おふくろはひどく泣いた。かみさんは何事も無かったように平静だった。かみさんはおふくろに言った。あの人が脚を一本失くしたのを見て、私は死ぬほど嬉しかったんですよ、何を泣くことがあるんです。あの人、脚を失っただけですもの。死んでいない。これでもう、行かなくていい。
かみさんはあの時まだ十九だった。かみさんの姉さんは、別れさせようとした。別れさせてサイゴンに帰り、最初からやり直す。かみさんは首を振った。私、あの人と約束したから。たとえ死んでも、ここにいて、あの人を祀るわ。
三回手術をして、わしは義足をつけてもらった。サイゴンに行き、以前の仕事につかせてもらうよう頼んだ。植字の仕事は一日中立ち作業で、脚はしびれて固くなった。仕事から帰ると、かみさんが温かい塩水を入れたバケツを持ってきてくれ、わしは痛みが和らぐようそこに脚を浸した。
新聞社が活動を停止したので、わしら夫婦は子どもを抱えて田舎に帰った。田畑なんてろくに無い。夫婦で森に入って薪を割った。かみさんは薪割りなんて知らんよ。ふつうは乾いた枝を切るところ、彼女はみずみずしい枝を切った。水を含んだ枝は重くて背負えやせん。林の真ん中で体と薪が棘のある木に引っかかって身動きが取れず、立ったまま泣きべそをかいたもんだ。わしの方は義足が邪魔してな、持ち上げたり下げたり大変だった。かみさんが泣いているのが見えても、慰めの言葉もかけてやれなかった。まあ、哀れで悲しい日々のことは語っても語りきれんよ。
悲しいったって、わしよりはましだろうよ。
愉快なおじさんとザンおじさんは、寡黙なおじさんの語りにじっと耳を傾けていた。
わしなんか、あと三日したらかみさんに捨てられてちょうど二十年さ。二人の子どもは、二人とも死んだ。ひとりは病気で、もうひとりは交通事故で。今は老いた母と暮らしている。七十の息子がバイクタクシーをやって九十三歳の老母を養っているのさ。
ザンおじさんは、私に言った。「さっき指さした家はこのひとの家だよ」
その家はトタン屋根で、小さな道のわきにぽつんと建っていた。私はザンおじさんに言った。夕方帰る道すがら、お母さまにご挨拶しましょう。
愉快なおじさんが言う。「ザンさんよ、わしは誰かを助ける金なんか持っちゃいない。たまにあんまり大変そうな境遇のお客さんがいると、ただで乗せてやるくらいさ。」
寡黙なおじさんが言う。「時々昔の仲間が金を送ってくれると、胸にぐっとくる。かみさんに言うんだ。あいつらだって困ってないわけじゃないのに、俺らのことを想ってくれている。わしらはその金をしまっておくんだ。あっさり使ったりしない。使えば無くなるが、しまっておけば、仲間の存在が眼に見える。」
私たちはカフェから寡黙なおじさんの家に行った。奥さんが昼食の準備をしてくれていた。おじさんは、新しいお客さんとして私を奥さんに紹介した。奥さんは焼いたライスペーパーを割ってシジミを掬い、器によそって、私を特別な来賓のようにもてなした。奥さんの表情は明るく朗らかで、おじさんのように寡黙ではなかった。私が聞き取りやすい質問をしてくれた。私が北部からやってきたことを知り、家にある特産の乾物をあれこれ出してくれた。
ザンおじさんに、息子からの電話が入った。父さん、帰宅して僕をサイゴンまで送ってほしい。おじさんは、帰る合図を私に出した。
私はまだ愉快なおじさんのお母さまにご挨拶もしていない。おじさんたちにだって、まだ大して質問もできていない。
次の機会にしようや、今日はこうやってひとまずお近づきになったということで、とおじさん。
わしの息子は盲目なんだ。フェリー乗り場を過ぎたところでおじさんは言った。
私は黙っておじさんのバイクの背に乗っかっていた。私はザンおじさんについてまだよく知らない。おじさんの人生が、この数日間に会ったすべての人々より平穏なものであると勝手に思い込んでいる。
統一病院に着くと、ザンおじさんは、もう一泊しないか、明日、ある人のところに連れて行ってやるよ、と私に尋ねた。その人は両脚が無く、片腕も無く、両目が見えない。行って、そんな人生もあると知るだけさ、どうせ耳も聞こえないんだ、君が何か尋ねたくても尋ねられん。
何が尋ねられるだろうか。そのような人物に。
雨が急に降り始めた。ザンおじさんはあわてて雨合羽を着て、息子を迎えに帰った。私は病院に入り、バイクを受け取った。
私はバイクに座ってぼんやりとしていた。私もサイゴンに帰ろうか、それとも宿を探してもう一泊しようか。
雨が止んだ。私はザンおじさんに電話をかけ、明日の朝六時にチャコー教会の前で待っていると伝えた。
私とザンおじさんは腰かけて朝ごはんを食べた。おじさんはフォーの小を注文したが、半分しか食べられない。わしはここ十年ほど少食でな、胃も慣れたよ。私は、昨日バクダンでもおじさんが茶碗の三分の一しかご飯を食べていないのを見た。おじさん、体の調子はどうなんですか?元気さ、瘦せているだけだよ。君も見ただろう、昨日はビンズオンからザンディエンに帰り、そのまま息子をサイゴンに送って、夜八時前には帰宅した。今朝も四時には起き、教会まで歩いて体操をしたよ。
ザンおじさんは間もなくやってくる人について軽く説明してくれた。名前はグエン・ゴック・リー、1961年入隊、1970年クアンナム(訳注:ベトナム中部の省)のトゥオンドゥックで負傷。十年ほど前に家族ともどもカムミー(訳注:南部ドンナイ省の郡)のゴム農場に流れ着いた。
おじさんは友人と一緒に、この人の家を探し続けてようやく探し当てた。地元の人に何人尋ねても、誰ひとりグエン・ゴック・リーを知らない。住所を教えてくれた人に再度電話をかけた。彼らも行ったことはなく、そのあたりに傷痍軍人が住んでいると聞いただけ、とのことだ。同行したおじさんの友人は、こんな風に探し出すのが難しい人というのは大概ひどく苦しい生活をしていて、誰にも知られずに暮らしている、だからこそどうしても探し当てなけりゃいけない、と言った。
小さな家は、ゴム農場から借りた土地に建っていた。奥さんは、日雇いで草取りをしていた。子どもたちも学校は出ておらず、同じく日雇いの身だった。
おじさんが家の中に足を踏み入れたとき、目に飛び込んできたのは土間に敷かれたぼろぼろのござの上に横たわるひとつの身体だった。片腕は肩まで無い。両脚は、付け根まで無い。短パンが一応覆っている。シャツは着古されており、ボタンも落ち、あっちのボタンがこっちの穴に合わさっている。
奥さんが言う。「食べるだけでも苦しいのに、私はこの人の世話をして、励まして、見守らなきゃならないんです。この人、死ぬことしか望んでいないから。」
家の中に、家財と呼べるようなものは何ひとつ無い。食事用の茶碗さえ、ゴムの樹液を入れる容器を奥さんが拾ってきたものだ。プラスチックスプーンが数個。ゆがんだアルミの鍋がいくつか。食事の時には、奥さんはご飯とスープを茶碗で混ぜ、食べさせる。その人はむしゃむしゃと噛み、飲み込む。この時代に、このような生活があるとはとても想像できなかった。
一週間後、おじさんと仲間たちは声を掛け合ってその人を訪ねた。道中、市場に寄って素焼きの鍋、茶碗や箸、蝿帳、寝具、衣類、さらには孫たちのために本や文具も買った。その年から、新学期になると仲間たちが毎年順番に本や文具を贈った。遠方の仲間は、事情を知ってこの夫婦のためにお金を送ってきた。
一番つらいのは、彼が自分で用を足せないことだった。おじさんたちはリーさんに合うトイレをその場に設計することを考えていた。
末の息子は両親思いだったが、あまりにも貧しかった。おじさんはこの末っ子に連絡用の電話を買ってやった。
おじさん、今日私たちが行くことをその末っ子さんに電話したの?
電話をする必要は無い。あの人はどこにも行けやしないだろう。
私は落ち着かなかった。ここからリーおじさんの家まで、六十キロ。
私とおじさんは、カフェの前で止まった。私はおじさんに、息子さんの番号に電話をかけて、と言った。
おじさん、父は亡くなりました。みなさんにお知らせする間が無かったんです。
ザンおじさんは、黙り込んだ。おとといは、クオック・キエットの父親、今日はグエン・ゴック・リーおじさん。昨日、バクダン中州で、おじさんは今年亡くなった二人の傷痍軍人の家に繋がる二本の小道を指さして私に教えてくれた。
ほらね、おじさん。彼にも行くところがあったじゃない。死の世界に行けたじゃない。
ザンおじさんは、また服のポケットから手帳を取り出した。
私はおじさんに言う。「でも行きましょうよ。私、奥さんにお会いしたいです。」
奥さんは、二か月前に亡くなったんだよ。
ザンおじさんは、携帯電話に保存している故人の写真を私に見せてくれた。リーおじさんと、その奥さん。奥さんは、人生のすべてを、身体の半分を失った夫に寄り添って過ごした。人生はなんて彼女に不公平だったのだろう。最後に撮った写真は、リーおじさんが病に臥せっていて、身体にはしわしわのフェイスタオルがかけられているものだった。おじさんはそのようにして、朝も昼も、何か月も、何年も過ごしたのだ。そのようにして、人生の三分の二を過ごしたのだ。
おじさんはなぜ生きなければならなかったのか。お医者さんが手を尽くして救ってくれたから。四十八年間ずっと、やさしい奥さんが一日もおじさんを見捨てなかったから。
四十八年。四十八年間、自分で用を足せない人。もし、おじさんの立場だったら。そんな残忍な仮定を、自分自身に課してみる人はいない。
私は、彼らが亡くなってから、彼らを知った。彼らの喜びは何だったのか。ずっと考えている。彼らの悲しみとは何だったのか。彼らの悲しみは、彼らの人生そのもの。だとしたら、彼らの喜びとは、彼らが自らの人生を生きなくてよくなること?だとしたら、彼らが亡くなったと聞き、私は喜んだらいいのだろうか。
私がいま生きている世界では、悲しみの反対は喜び、というわけではない。
帰るしかないな。ここから六十キロのところに、別の人がいるから連れて行くよ。友人は多いんだが、私的な話を、胸襟を開いて語ってくれる人はほんの何人かしかいない。みんな遠方に住んでいてな、悪いな。
私たちはスアンロックのスアンバック(訳注:ドンナイ省)に住む、チュオンおじさんの家に向かった。
君に何を語ったらいいのだろう。何十年も経ってしまった。わしの頭の中は空っぽさ。日々の暮らしでいっぱいいっぱいなんだ。
自分にこんな日が来るなんて思いも寄らなかったよ。日夜、神さまにお祈りしていたんだ。我を理解し、共感する女性に会わせ給え、ってね。わしのつぶやき声が神さまの耳に届いたのか、願ってもいないほどの妻をわしのもとによこしてくださった。かみさんは男の子ひとりと女の子ひとりを産んでくれた。二人の子どもたちはもう成人したよ。これほどの恵みを授けてくださった神さまに感謝している。抱えきれないほどの恵みを。
この十八年間、わしら家族は家鴨粥の店を生業としている。ちっぽけな家鴨粥屋だが、家族を養うには十分なんだ。かみさんは、わしが無用の長物にならんような仕事を見つけてくれた。朝、かみさんが市場に行き家鴨を買って帰ってくると、わしが台所に入る。ひとつの鍋は湯を沸かし、もう一つの鍋は粥用だ。台所では午後二時までぐつぐつやっている。午後二時に、かみさんはすべてを荷車に並べ、店まで押していき、夜十時まで店にいる。その後、器や箸、鍋を洗うのはわしの仕事だ。わしの手足は機敏なんだ。それが嬉しい。最近、大家が賃料をひと月三百万ドンから四百万ドンに上げると言ってきた。その人らと交渉した。もし、大家家族が何か修理したりする金が必要ならわしは追加で払う、でも値上げをしてほかの人に貸すのは、考え直してほしい、と。今日までまだ返答が無いよ。時々こういう予期しない事態が起きる。でも大丈夫さ。それも人生の一部だから。
十二歳の年、小学校を終えると神父さまがチャウドックにあるアータインフン(訳注:Á Thánh Phụng亜聖奉)神学校の試験を受けるよう紹介してくれた。神学校とは、神父の芽を育てるところさ。わしは家族や小さなきょうだいたちと離れアンザンに行き、同年代の子どもたちと一緒に一つ屋根の下で暮らすことになった。先生方は神父さまたちで、神学生はあらゆる科目を教わることができた。外国語は英、仏、ラテン語の三言語を学び、カトリックの教義も学んだ。毎月の学習を終えるとみなの前で点数が読み上げられ、品行の評価も下る。すると数人は辞めていき、その繰り返しで神父という職にたどり着く。
神さまは大勢に声をかけるが、選ぶのは一人だ。高校一年を終える前、点数が読み上げられた後、上の人が道を変えるように言った。
わしはサイゴンの家に帰ったが、普通の学校と神学校ではカリキュラムが違う。自分がどこに編入したらいいのかわからず動揺した。高一か、高二か。わしは進学しなかった。
「勇敢な男なら、誇り高き海の虎隊、迷彩帽隊に向かって行進しよう。留まることなく戦い続ける。不屈の戦士の名声を胸に」。あらゆるメディアは、戦闘の音楽、戦場の時事ニュースを流していたので、戦争の空気がごく身近に流れていた。兵役に行く年齢にもなった。先輩たちに続き、志願して陸戦海兵隊に入隊した。
わしのふるさとはフンイエン(訳注:ベトナム北部)だ。人生の中の多くのことは忘れてしまったが、三歳のころ、父が担ぐ天秤棒の籠に入れられて、南部行きの船まで行った映像は記憶にはっきりと焼き付いている。わしは籠の中に座り、母はその隣を歩き、片手に妹(弟)、片手に荷物の袋を抱え、人々の群れに懸命についていく。
両親はサイゴンに家伝のライスペーパーづくりを持ち込んだ。一家全員がこの仕事によって生きていた。1975年、わしの父親がある金額を銀行から借りた。1975年四月の終わり、銀行の職員が家に来て、厳しく返済を求めた。父は仕方なく製粉機を売り、金を返した。製粉機を売ってしまったので、粉を挽くたびに人に借りなければならなかった。解放後、多くの人が仕事を失った。この人たちも粉を挽きに行って、各種ライスペーパーをつくり、行商をした。製品を作る費用は上がったが、売り上げは次第に減った。次第に減って、売れ残った。ライスペーパーは、ぜいたく品。楽しみに食べる物。当時のサイゴン人で、ぜいたく品を楽しみに食べる人はほとんどいなかった。
生きづらい。父は長い溜息をついた。餓死の恐怖よりも大きな恐怖。遅かれ早かれ、行かねばならない。
父はいろいろと調べ、一家でソクチャン(訳注:南部メコンデルタ地方に位置する省)に行くと決めた。ソクチャンは土地が肥えていて、豊かな穀倉地帯だ。そこで、家族で田を耕そう。
父は急ぎ、安値で家を売った。家を売った金は、ちょうど家族のバス代と荷物の輸送費、そして田んぼが二反分になった。
父は水が苦手だった。メコンに行くフェリーに乗るたびに、父は怖がった。なのに、何と父は主要な移動手段を小舟とする地域への移住を選んだ。もし、ちゃんと落ち着いて考えられたなら、もう少しましな解決法があったに違いない。残った人たちだっていたんだから。一度、耐えられなくて、母が長い溜息をついたことがある。ほかの人たちは家族が二手に分かれて、残る組と田舎で住処を探す組となり、いいところが見つかってから、そこに住んだのに。道選びを誤ったことに気づき、父は深く悲しんだ。
ソクチャンに行くと、ほとんどの土地にはすでに持ち主がいた。疎開していた人が帰ってきたり、治安の悪い地域の人たちがやってきたりしていた。十一人の人間に二反の土地で、どうやって暮らせるというのか。
私は田仕事ができなかったので、家で粉を挽いてライスペーパーを作った。手で粉を挽いた。できあがったライスペーパーは、だれも買わなかった。ライスペーパーづくりは両親で三代目だった。代々続いた職を、ここでやめた。
弟たちは、網を広げ竿を刺して漁をしたり、田を耕したりした。ライスペーパーを作らないとしたら何をしたらいいのか、わしは知らなかった。水が果てしなく広がる田んぼの真ん中で、義足を一本抱え、何をしたらいいのかわからなかった。わしは、漁の網を引くことにした。半日引き続けても、一合の米にも交換できなかった。
何もできない者は、言葉選びも慎重にならなければいけない。弟たちは私を迷惑そうに見る。無意識に、あるいは意図的に発せられる言葉。両親は疲れすぎていて、子どもたちどうしがどんなふうに暮らしているか、もう見る気も起きない。
わしは家を出た。ある年上の女性と出会った。小さな男の子を持つ母親だった。夫は戦死した。孤独な二つの魂は、通じ合うものを見出した。わしは小舟を漕ぎ、彼女は野菜を売った。こそこそ話。二人とも出かけるのが嫌になった。わしらは黙って寄り添っていた。
近所の人が、ドンナイのある新しい地域が住みやすいと教えてくれた。わしらは川と水の土地を離れそっちに移ることにした。二年後には二反の田んぼと五反の畑を手にしていた。いい土地だった。稲、トウモロコシ、豆、芋に虫や病気がつかない。暮らし向きがひとまず安定した。1979年旧正月の元日、彼女に陣痛が来て、出血し、病院に行って手術した。赤ん坊は生まれる前に死んだ。一年後、彼女もマラリアでこの世を去った。わしはすべて売り払い、ソクチャンに帰り、祖母と暮らしていた彼女の息子にすべてを渡した。
わしはまた移動した。新しい生活を、別の川辺の土地で始めた。荒れ地がまだ多く残っていた。わしを憐れんで、五反の土地を与えてくれた。
彼は郡の水利課の技術幹部として北部から派遣されてきた工兵中尉だった。小学校教師の妻とともに南部入りしていた。奥さんは授業準備をしながら時々手を留めて、屈託のない様子で算数の問題の解き方を聞いてきた。わしは住む家が無かった。彼は、ここに住んで、ここで食事をすればいいと言い、収穫の時期になれば毎月米八十リットル分を支払ってくれた。わしらは家族のようにともに暮らし、手に入るものを食った。お互い、戦争の話は避けた。彼もわしの心に血を滲ませるようなことはしなかった。いまやわしらは遠方から来たものどうしだった。互いの性格を好み、大切にした。
彼らと暮らして一年余り経ったころ、わしはまた移動した。わしの家族はソクチャンを去り、ドンナイに移って畑をしていた。わしは両親のところへ行った。その後、私用を片付けに兄さんの家を再訪したが、帰りの長距離バスのチケットを買う金が無い。中尉の兄さんに正直に打ち明けた。兄さんだって余裕があるわけじゃない。青米を売って金を作り、わしに渡してくれた。
戦争はまだわしの頭の中にある。ひっくり返して探す必要は無い。小さな刺激であふれ出てくる。
クアンガイの、大隊から一キロほど離れた丘の上にある前哨基地で、午前三時、銃撃音が立て続けに鳴り響いた。わしは蓋つき蛸壺塹壕に飛び込んだが靴を履く暇はなかった。ロケットランチャーB40が三メートルほど先で爆発した。鉄製ヘルメットを、弾丸の破片が貫通した。五時間の抵抗ののち、大隊は七人が死傷した。残りの八人では防衛線を守りきれなかった。地域の多くの地点が同時に攻撃された。援軍は来ない。上官は部隊を後方へ退却させる決断をした。
道路には地雷が埋まり、両側は乾いた草原だった。道路が唯一の脱出路だ。銃が鳴り、爆弾が炸裂する。あと百メートルで脱出だ。どんっ。わしは二メートル先にひっくり返った。立ち上がれない。片方の足先は無い。身体のどこも失っていな四人が、一歩一歩探り探り四人の負傷者を救急飛行機待機地点まで連れて行った。流血がひどいので、包帯で腿をきつく巻いてくれた。明け方から午後五時まで待ち、ようやくクアンガイからクイニョンの軍医病院に運ばれた。わしは気を失い、気づいたときには、脚は膝まで切断されていた。
私が一日魚を売れば、あなたの分のお米一合くらい買えるわ。
彼女はそう言った。決心していたんだ。わしと結婚したら、わしを養わなければならない、と決めていた。わしと結婚したら、自分が重荷を背負う。わしと結婚するのは、頼りがいのあるところを求めているからじゃない。あなたと結婚するのは、あなたが家を持ち、もう放浪生活を送らなくていいようにするためなの、と彼女は言った。主は、私の手を借りてあなたを主のおそばに置いたんだわ。
私が一日魚を売れば、あなたの分のお米一合くらい買えるわ。
あの頃のわしらは、生きるっちゅうのは一日魚を売って一合の米を買いそれを炊ければいいというほど単純じゃないとは予測できなかった。魚が売れない日もあった。生活には食べる以外にもいろいろある。
双方の家族は結婚に反対した。
彼女の母は「おまえはまだ若いし、健康なのになぜ脚のない十何歳も年上の男と結婚しなきゃならないの」と言った。
わしの家族の者たちは「兄さんは何もできないんだから、頼れる女性と結婚しなきゃ」と言った。
家族は、わしを経済力のある、年上の女性と結婚させたがっていた。両親は先方の家族と会って話もしていた。
家族に反対され、わしらは教会に行った。
神父さまは言う「結婚は小説の中のようにはいかない。あなたはよく考えたのですか」。
彼女が言う「はい、神父さま。私も結婚が小説のようにはいかないとわかっています。でも私はいっそ現世で苦労をして、来世に安泰を得ることを望みます」。
神父さまは彼女の手の上に手を重ね「あなたがそのように考えられたことを祝福します」と言った。
酒が入って、初めてお前さんの話をこんなに聴いたよ。
ずいぶん長らく飲んでなかった、肺炎なんだよ。今日は友に会えて、嬉しくてさ。
戦場での友人が会えば、話はどこかへ行ってもまた戦闘に戻ってくる。チュオンおじさんが地名を忘れても、ザンおじさんが日付を覚えている。あの出来事がこの出来事とつながっていく。私は静かに聴く。
チュオンおじさんも休まなきゃならんから、そろそろお暇するか。ザンおじさんが、このおしゃべりもずいぶん長くなったことを上手に私に伝える。チュオンおじさんには、台所での仕事がまだまだたくさん待っているからな。
ザンおじさんは朝来た時よりもバイクを飛ばす。時の流れの色に染まった長い髪が私の顔の前で翻っている。
帰り道のついでに、空挺部隊にいた人の家にも寄ろう。なるべく迷惑をかけないよう、先に知らせてはいない。家にいればいいんだが、いないとしても、わしらのせいで仕事を逃したら悪いだろう。
空挺部隊のおじさんは、家にいなかった。奥さんが出てきて、門を開けてくれた。奥さんの顔立ちは、この数日間私が会ったおじさんたちの妻とは全く違っていた。奥さんは北部で歌垣を歌う女性たちの顔立ちをしていた。私が何年にもわたり会いに行った、かつての青年突撃隊の一員かと思うようないでたちだった。奥さん、北部からの移住者ですか。いいえ。ベンチェの人間よ。
ザンおじさんが小声で言う。奥さんは軍人さんだよ。
私はザンおじさんにお願いして、十分だけ奥さんとお話させてもらった。奥さんは、とても温厚で親しみやすい人だった。どんな質問にも答えてくれるだけでなく、この子変なこと言うわねえ、といぶかしがったり不安がったりもしなかった。
奥さんはヴンタウの軍病院で看護師をしていたが、結婚してサイゴンの病院に異動した。
解放後のサイゴンはどうでしたか。いろんな尋問をしに来る人たちがいたわ。答えてもまた聞きに来る。そして同じ尋問を繰り返すの。夫は再教育キャンプに行き、私たち母子は手を取り合ってふるさとのベンチェに帰った。ベンチェでも同じ。尋問をしに人が来て、答えてもまた聞く。尋問ばかり。
弟がアメリカに行ったか?と聞かれた。私は、はい、と答えたわ。すると彼らは私を社(訳注:社は郡の下位の行政単位で「村」に近い)から出さなかった。看護師だったけど、社の内側にいる人しか助けられなかった。隣の社のひとが出産するときも、手伝いに行かせてもらえなかった。夫がキャンプから帰ってくると、彼は家族全員を連れてここに来たわ。静けさを求めて、少し離れたのよ。
ここに来ても、尋問されましたか?
もちろん。やっぱり社の外には出させてもらえなかった。でも夫の友人で社の職員の人がいたので、その人が、我々夫婦が何をしても、どんな問題を起こしても私が責任を取ります、と保証書を書いてくれたの。だんだん、誰も尋問をしに来なくなった。そうして、普通に暮らしているわ。ほかの人たちと同じように畑を切り開き、作物を育て、収穫して。
ザンおじさんは、もう門の外のバイクに腰かけて待っている。私の好奇心を満たすための十分間はもう過ぎ去った。
短くて、まとまらないおしゃべり。慌ただしく、時間をひねり出しての会合。私はここにすべてを書く。ザンおじさんのバイクの背に座っていた三日間の、どの出会いも私は省略したくない。おしゃべりの内容がどうだったからではなく、ザンおじさんが私に示してくれたあまりにも誠実な気持ちに心が震えたからだった。知り合ったばかり、おととい会ったばかりの奥さんと私とおじさん。
スアンロックの玄関口であるスアンロック大聖堂まで連れて行ってくれた。歴史を勉強していたら、君もきっとこの地名は知っているだろう。紹介する必要はあるかな。
バイクはゴム林を抜けていく。私は、都会の人に時間を惜しまず遊びに連れだしてもらっている田舎の子どもになった気がした。ザンおじさんはゆっくり走り、私がどんなにいらだたせるような質問をした時でも喜んでこたえてくれた。
おじさんがなさっていることに対して、なにか嫌がらせを受けたことはありますか?
ないさ。ああ、一度バイクを停めて宝くじ売りの人に話しかけたことがあった。その人は手を振ってこたえなかった。すでに誰かが情報を聞きに来て、写真を撮りでもしたんだろう。その人は自分の姿が何かに利用されると考えたのかもしれない。その時だけさ。
どうしてチュオンおじさんと知り合いになったんですか?
ナムおじさんが紹介してくれた。
ナムおじさんて、どなた?
翌週フェイスブックを開くと、ナムおじさんから友達リクエストが来ていた。友達になってくれてありがとう。チュオンおじさんが君のことを話していたから。もしわしのことを気の毒に思ったら、わしのことを書いてくれ。いま、ソクチャンに住んでいる。南に来ることがあれば連絡をくれ、ドンナイまで帰るから。わしもレンジャー部隊にいた。チュオンおじさんと同じように、脚を一本失ったんだ。
ザンおじさんがザンディエンまで送り届けてくれたとき、強い雨が降り始めた。おじさんと私は、教会の向かい側の小道にあるカフェに立ち寄った。ドンナイでは、どの方向を向いても教会の屋根が見える。
空はあっという間に暗くなった。ザンおじさんは背もたれのある椅子に身体をもたせかけた。おじさんは、とても疲れているのがわかる。
おじさんはコーヒーにこだわりがあったが、私と一緒の時は、どの店でもいいよ、座っておしゃべりができればいいさ、と言ってくれた。私はおじさんに聞きたいことがたくさんあったが、今、言い出すことができない。無粋な質問になってしまうのを恐れた。三日間は、おじさんのことを理解するには十分ではなかった。
雨降る森の夜、ランプの光が揺らめいている。夫婦は台所に座っている。奥さんには泣くための涙がある。おじさんは泣くことができない。
自分が腹を空かせるのは耐えられる。子どもが腹を空かせるのは耐えられん。おじさんはキャッサバ畑に行き、分けてくださいとお願いする。もらえないと、夜を待ち、盗む。
おじさんの友人が、アイスキャンディ売りをするための自転車を貸してくれた。夫婦は子どもたちをともない、ニャチャンに向かった。
1988年、ニャチャンは大型の台風に襲われた。その台風のとき、おじさんの一歳の子どもが熱を出した。熱で、髄膜炎を起こした。病院に連れて行った時には、医者も手の施しようが無かった。
病院を出た。奥さんは雨合羽をかぶり赤ちゃんを抱いて自転車に座った。おじさんは何もかぶらず、雨合羽も無く、台風のただ中、妻と子が乗った自転車を押した。
翌日、ドンナイに連れ帰った。赤ん坊は死ななかったが、合併症が起き、盲目になった。
脳に影響が無かったのは幸いだった。いま、トゥードゥックのカフェで琴を弾いているよ。あいつは十六弦琴がうまいんだ。嫁さんも、音楽を教える盲目の人さ。息子たち夫婦はいま親戚のところに住んでいるよ。
昨日、息子をサイゴンに送っていった。わしに身体をぴったり寄せた。父さん、なんて痩せているんだ。わしがいつか死んだとき、お前たちが運びやすいようにさ。
雨が止んだ。もう遅い。私はザンおじさんにお別れを言い、サイゴンに戻った。
ザンディエンからサイゴンに戻る際、工業地帯をいくつも横切る。人影のない道端、木の根元、ある輸出加工区入口の門の向かいで花売りの少女が冥銭を焚いている。次の木の根元でも別の花売りの少女が同じことをしていた。アラブで家政婦をしていて、やめて帰りたいが契約違反金を払えないでいるドンナイ生まれの女性のことを思い出した。私のふるさとでは、中学や高校を終えた少年少女たちがドンナイにやってきて、工場労働者となっている。
(了)