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ベトナム・ドキュメンタリー文学紹介【連載第9回】『私はお父さんの娘です』 「コマンド野郎」
ファン・トゥイ・ハー, ベトナム婦女出版社, 2020。“Tôi Là Con Gái Cha Tôi” Phan Thúy Hà, Nhà Xuất Bản Phụ Nữ Việt Nam, 2020.
【訳者Mikikoより】
今回は、クアンチ省の省都、クアンチ町(Thị xã Quảng Trị)出身の方のお話です。中に、「フエからクアンチまで夜中に歩いて帰った」というくだりがありますが、Google Mapで確認したところ、国道1号線を通る最短距離でも57㎞、徒歩で12時間44分と出てきました。本書の登場人物たちが何でもないように語る移動距離に、とても驚かされます。
今回のお話からは、中部の仏教徒の運動(「仏子家庭運動 (phong trào Gia đình Phật tử)」)や、南ベトナム軍のエリート部隊だった「コマンド(biệt kích)部隊」にいた人たちの戦後をうかがい知ることができます。「再教育キャンプ(học tập cải tạo)」とは、1975年以降、南ベトナムの軍人や政府関係者などを強制的に収容した施設のことで、収容期間は数か月から数年、中には十年以上にわたり収容された人もいます。収容された合計人数ははっきりわかっておらず、数十万人とも言われています。
今回も、著者から写真の提供をいただきましたので本文最後に掲載しました。
※本文中、身体の障がい、政治的な立場等に関する差別的な用語を使用することがありますが、原文を忠実に反映するため、そのまま掲載いたします。
◇ 目次 ◇
● まえがき
● クオック・キエット
● ザンおじさんと二人乗りした三日間 (前半)
ザンおじさんと二人乗りした三日間 (後半)
● フエへ
● カムロの母
● 「戦争が今まで続いていなくてよかった」
● チンおじさんの親指
● トゥオンサーの夜
● 「コマンド野郎」 ☚ 今回はここ
● ヤシの老木
● ホイトン寺の鐘の音
● サイゴンのバイクタクシー
● 女軍人
● 車いすの年老いた宝くじ売り
● 家鴨の卵のバーおじさん
● 私は疲れない
● カオラインの朝
● 「戦争は終わったのになぜ父さんはそんなに悲しそうなの」
● フエへ(再び)
● 傷痍軍人の歌声
● さようなら
● 私はお父さんの娘です
「コマンド野郎」
私はクアンチの人間だ。クアンチの町(thị xã)で育った。我々の世代は実に不幸だ。自分の人生を生きられなかった。
十歳の時、両親は私を「第一村仏子家庭(Gia đình Phật tử thôn Đệ nhất)」に参加させた。当時のクアンチ町は5つの村(thôn)に分かれており、各村には会衆(khuôn hội)と呼ばれる仏教組織があって、仏教徒たちに仏の教えをもたらすことを目的としていた。他者を思いやる心、あらゆる人々に対する仁愛などを教えていた。
もしもそこでの誓い通りに生きることができたなら、どれほど素晴らしい人生になるだろう。
なのに、当時のサイゴン政権は独裁的独断的方法で仏教の発展、仏教の拡大を抑制し、人権や信仰の自由に反する弾圧や逮捕を行った。だから私は、信仰の自由を求める闘争にデモ行進という形で参加した。
生徒・学生協会はチャン・トアン(Trần Toàn)さんが主席だった。1975年以降、私はチャン・トアンさんに会っていない。今どこにいるのかも知らない。仏子家庭の指導委員長だったグエン・カック・ウン(Nguyễn Khắc Ưng)さん、クアンチの仏教界を代表する議員だったルー・トゥオン・コン(Lữ Thượng Công)さん、トゥ・ドー・ミン(Tư Dồ Minh)さんはその後刑務所行きとなった。彼らについての情報も知らない。第一仏子家庭連盟長のファン・ヴァン・ヴィン(Phan Văn Vinh)さんは現在八十歳を超えており、グエン・ヴァン・フイ(Nguyễn Văn Huy)さんはドンハーで暮らしている。
1963年、私は、仏教徒に不利益を与える決定や憲章の撤回を求めて当局と戦うため、デモ行進や絶食、ストライキ、学校での授業ボイコット運動を発動したり、仏教徒が立ち上がって参加するよう動員をかけたりしていた。
1966年になると、高校2年生の時にフエに移りタインニャン学校(Trường Thành Nhân)で学んだ。再度、当局と仏教徒がぶつかった。日々、私と友人たちは仏(ほとけ)の祭壇を持ってザーロン通りを遮るように座った。時には「打倒 ティエウ/キ(訳注:当時の南ベトナム大統領グエン・ヴァン・ティエウと首相グエン・カオ・キのこと)」という標語も持っていった。生徒、学生、僧侶や尼僧、仏教徒たちは温和で非暴力的な闘争を選んだ。状況は日増しに複雑化する。運動は弾圧され、瓦解した。私の友人数名も逮捕され拘留された。中には北部に逃げた人もいた。授業もままならなかった。
仏教闘争運動は、表面的には瓦解しているように見えたが、内部ではなお活動していた。私はクアヴィエット(Cửa Việt)に行き、仏子家庭運動を起こした。以前のように公開では活動せず、ひそかにチラシを配り歩いた。クアヴィエットから再びフエに戻り、何とか生徒・学生運動を復活させた。
上層部からの指示を受け、夜中にフエからクアンチまで歩き、一軒一軒訪ねて回り、仏の祭壇を持って通りに出て座るよう説得した。まだ何の成果もあげられていないのに、政権に指名手配され、フエに逃げ帰らなければならなくなった。当局関係者が毎日家に来た。私は、家に帰れなかった。
ホンさんという女性が、「フエ仏子青年(Thanh niên Phật tử Huế)」にいた。彼女は私を自分の家の地下壕に二か月かくまってくれた。彼女の家は、フエの王宮地区、蓮池の傍にあった。午後、私は地下壕から出てきて、散歩に行く。幾人かの友人たちもやってきて、池の傍で肩を組みチン・コン・ソンの歌を歌った夜もあった。
「毎夜、大砲の音が街に響く
通りを掃く人は手を止め、耳を傾ける
大砲の音が響き、母の目を覚ます
大砲の音が響き、幼子が悲しみに沈む
地下壕は破壊され、ああ、黄色い身体も
毎夜明かりを灯しつづけるのは、ふるさとの眼」
Đại Bác Ru Đêm - Khánh Ly | Nhạc trước 1975 | Hình ảnh người dân di tản khỏi vùng chiến sự.
(👆Youtube「大砲の子守歌」 チン・コン・ソン作、カイン・リー歌)
周辺の人たちは私がそこにいるのを知っていたが、誰も告発しなかった。ホンさんの家の向かいには警察支所副所長がいた。その人は私のことを何回か目にしたが、何も言わなかった。ある午後、ホンさんのところにやってきて、今夜逮捕令が出るから逃がしてやれ、と彼女に言った。私はまたクアンチに戻り、仏教徒の家々に一時避難した。半年近く、そんな風に潜伏生活を送った。半年間、自宅で寝たことは一度も無かったし、親戚の家にも泊まらなかった。両親は、私と妻の結婚式を執り行った。式を終えたその夜、妻は私の両親の家に泊まり、私は別のところで眠った。
私はあまりにも恐怖を感じすぎていたのかもしれない。今になって振り返ると、悶々とする。でもあの頃、状況はとても混乱していて、私には逃亡することしかできなかった。
北に行くことができなかったので、私は戦場に出ることにした。
1967年3月1日、私は志願してProvincial Reconnaissance Unit、つまり省の偵察部隊に入った。
私の任務は四人組でベトナム・ラオス国境や17度線地域に赴くことだった。解放軍が南に侵入するための拠点や輸送路を探し出すのだ。
我々には高給が支払われた。正規軍歩兵の給料がひと月2500ドンだったが、私は給与以外にジャングルに出向く日は毎日500ドンの手当てが付いた。ひと月に十五日ジャングルに行く。妻と子どもたちは様々な制度の恩恵を受けることができたし、軍隊の人たちより給与も高かった。
コマンドは凶暴な兵士だ。人はそう決めつける。戦争中、誰かが行方不明になると「コマンドに消されたんだろ」と人びとは言ったものだ。
そして、戦後。
お前のようなコマンドは、共産党と国家の寛大な政策が無かったら射殺されていたはずさ。
お前のようなコマンドは、共産党と国家の寛大な政策のおかげでこうしていられるんだ。
お前のようなコマンドは。
お前のようなコマンドは。
私は反省文を書く。毎週書く。毎月書く。机の上には紙の束。
誰も読まない。書き終わると、彼らは破る。
もう書かない。八年間行軍し、二年地域で監視下に置かれ、毎回書くたびに紙の束。指がしびれるまで書き続ける。
何で書かないんだ?
書いても皆さん破ってしまって、読まないですから。
虚偽の申告だな。
どこが虚偽の申告なんですか。
誰がお前に口答えしていいと言った。
あなたは公安でしょう、なぜお前などという言葉を使うのですか。
なぜならお前が悪党だからだ。
私は二年間、家で畑を耕しキャッサバを植えた。1977年の中頃、食糧部門で仕事をすることになった。仕事は、米の運搬だ。米が南部から車で運ばれてくるので、それを担いで運び、倉庫に並べる。朝から昼まで米を担ぎ、昼から夜まで米を担ぐ。共産党と国家の寛大な政策のおかげで、この仕事をさせてもらえている。私はそのことを心に刻んでおかなければならない。
ホアンカットの再教育キャンプから米を受け取りに来た人がいたので、私は仲間のために少し薬を預けた。仲間は私を疑う。なぜ俺らは再教育キャンプに入れられているのに、あいつはグループ長だったにもかかわらず家にいるんだ。
私は再教育キャンプに行かなかったが、監視下に置かれた。地域当局の許可が無ければ、地域外に出ることは許されなかった。
検査は、あらゆるときにやってきた。台所にまで入って、何を食べているかも見た。時には裏庭からやってきて、戸を開けて台所に入り、鍋の蓋を開けて今日は何を食べるのか見ることもあった。魚の煮つけを見つけると、現行犯逮捕したかのように喜ぶ。
この家は幸せだな。どっから手に入れるんだ?人民から盗み、田畑から盗んで売りにでも行かなきゃ、どこに食料を買う金があるんだ。
母が子どもたちのために魚の煮つけを五匹よこしたんです。
口答えするつもりか。お前のような悪党コマンドは射殺すべきなのだ。
人民委員会での連絡係の仕事をあてがわれたことがあった。何分か遅刻した。
机を叩き:なんで今頃やってくる。何時だと思っているんだ?
土砂降りで、道が滑ったんです。私はただの村びとです、数分遅れたってどうということはないでしょう。
誰がお前を村びとだと言った。お前は悪党コマンドだ。お前のようなコマンドが、よくも村びとだなどと口にできるもんだ。
もう我慢がならなかった。私も机を叩き:あなたが聞いたから答えたまでです。答えると口答えだという。私の顔はここにある。外に連れ出して撃て。撃て。撃ってくれ。もうこんな風に生きる必要などない。
大きな声を出した後、もう、商業部門で米運びをさせてもらえなくなった。水牛の世話をしなければならなくなった。
仕事が与えられれば、その仕事をする。
早朝、水牛を連れて山に入る。この時間帯は、本当に静かだ。空は青く、雲は白い。雲は白く、草は青い。鳥がさえずる。山には私と水牛しかいない。
太陽がてっぺんまで昇ると、私は水牛を連れて帰る。小川を横切るとき、水牛を洗ってやる。水牛の皮膚をこすってぴかぴかにする。ハエの一匹もとまらせない。
水牛を連れ帰り、木の切り株に結んで昼休みをとる。
こいつは水牛を家に繋いだまま、食べさせに行ってないな。
よく見てください、食べさせに行かなかったら、どうして水牛はあんなに太っているんです。今連れ帰ったばかりなんですよ。
口答えするつもりか。お前みたいなコマンドは本来今頃再教育キャンプに行っているはずで、こんなところにいるはずじゃないんだ。
再教育キャンプに連れていってくれ。一生懸命教育を受け、帰ってくる。あなたたちとこうして暮らすのは、再教育キャンプに行くより耐えがたい。
私が何をするにも、彼らは無理やり押し付けてきた。私の神経を逆なでする。私は苛立ち、悪態をつく。
去るしかない。奴らには我慢がならない。私は妻に言った。
妻も、この生活に耐えられなくなっていた。彼女は子どもと家に残り、私が先に下見に行く。
私はトゥアンハイ(訳注:Thuận Hảiは1976年から1991年まで存在していた、現在のビントゥアン省とニントゥアン省を合わせた省。1977年からファンティエットが省都)に行った。トゥアンハイには妻方の叔父がいる。トゥアンハイにはハタ(訳注:魚の種類。cá mú)が数えきれないほどいる。水路沿いにも魚がいっぱいだ。米袋ひとつひとつには、米がぎっしり詰められている。ここの米四袋は田舎の米五袋だ。私はちょうど収穫の時期に行った。毎日、収穫のための日雇い人夫として働いた。毎日ひと籠の米が支払われた。二か月後、私は田舎に帰り、家を閉じて妻と子を連れて移住した。
1979年、ファンティエットには新経済区の農場に行くプログラムがあった。私の家族は一団とともに参加した。新しい土地に、新築の家が数百建ち並ぶ。私は農場の生産隊副隊長に選ばれた。楽しかった。しかし、4年目になると私たちは退去せざるを得なかった。マラリアだ。どの家庭にもマラリアの人がいた。多くの人がマラリアのために死んだ。
田舎に帰ると、家は人に取られてしまっていた。私たちは、両親の家に帰り、弟の家族と一緒に住まなければならなかった。以前コマンド部隊で私と同じ組だった弟が、藁を買うため少しの金を渡してくれたので、ベッドが一つ置けるだけの小さな家を増築した。弟は、配達の仕事ができるよう私にフェニックス自転車を貸してくれた。
自転車は没収された。理由は、その日、私が窒素肥料の袋を配達していたから。私に肥料の袋を運ぶよう依頼した人は、配給券を使って買った。
これは、禁制品だ。あなたは禁制品を運搬していたんだよ。
私は依頼されたまでで、窒素肥料が禁制品だなんて知りませんでした。どうかお許しください。
これに署名すればすぐにここから出られる。
その命令には従えません。署名はしません。
お前のようなコマンドは地域を離れろ。戻っても戸籍は無い上に、混乱まで招きやがって。
1993年、私はアメリカ行きの書類を作成した。面接に呼ばれた。
あなたはなぜ再教育キャンプに行かなかったんですか?
わかりません。私は出頭したんですが。政治教育に一週間に行きました。毎月地区の公安に行き、反省文を書きました。私がコマンド部隊にいたことは誰もが知っています。自分のことで、隠していることなんてありません。
家族に共産側の人はいますか。
共産側の人は一人もいません。
2000年、二回目の書類を書いた。サイゴンに行き、大使館に出向いた。
あなたはなぜ再教育キャンプに行かなかったんですか?
わかりません。当局に呼ばれないのに、どうやって行けばいいのでしょう。
家族に共産側の人はいますか。
共産側の人は一人もいません。
米国から帰国した友人夫妻が証人となり、書類は作成し終えた。でも、「なぜ再教育キャンプに行かなかったんですか?」の質問には答えられない。
今から三年前、重い病状の老人を訪ねた。かつて地域の公安長だった人だ。私がベッドに腰かけると、老人はなんとか少し起き上がり、私の肩を叩いて言う:あの頃、あんたはずいぶん当局とやりあっていたな。わしゃあんたに惚れ込んだよ。あんたには功績がある。だから、あんたを見逃してやった。再教育キャンプに入れなかったんだ。
答えは、こんなに簡単なものだったんだ。なぜなら、私には功績があるから?
ベッドに横たわっている人は、間もなく昇天するだろう。それは、間もなく昇天する人の言葉だった。
私はかつて善行を働いてくれた老人に感謝すべきなのだろうか?
この四十年、どんな思いで生きてきたことか。コマンド野郎。スパイ野郎。
🍂
タイおじさんは、私がクアンチに行った際に会った、最後の人物だ。
君が帰った後、わしの頭の中には映画のように過去がよみがえってきたよ。言いたいことがたくさんある。クアンチに来ることがあれば、また会って話の続きをしようじゃないか。
一週間後、おじさんからの手紙を受け取った。
毎日が忙しく過ぎていく。そして、妻が突然亡くなった。わしと九人の子どもたちが残された。三人は成人しているが、六人はまだ地に足がついていない。退学した子や日雇い仕事の子がいる。
ハーさん。わしの人生は楽しみより悲しみの方が多かった。ただ、今ここまできてみると、すべては穏やかになったように感じる。何かほかに聞きたいことがあれば、手紙を書いてくれ。返事を書くよ。
〈了〉
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