分からないことを、分からないと言う勇気。

今日は知り合いのカフェの店長さんにNPOの人を紹介してもらえることになった。


事前にその店長からウエストピッカーの子供への教育をするNPOの人を知っている、
という話だけを聞いていて、
今度紹介して!と言って実現した今日だけど、
詳しい活動内容は知らないままそのカフェに集合。



はじめましての後に話を聞く。
「どんな活動してるの?」
色々な話をしてくれた。本当にいっぱい。
どんどん話をしてくれる。とどまることなく。


20%くらいしか分からない。
部分部分で分かる部分はある。
それでも全体像が全く見えない。
本当に途中で逃げ出したくなるくらい分からない。

こちらが何か意思表示しなければ
ゆっくりしゃべるとか、難しい単語使わないとか、
分からなさそうな顔してたら気を遣ってくれるとか
そんなことはこちらでは大概ない。



青年海外協力隊で、というか語学学習の中でよくい言われているのは
分からない言葉が出た時に、分かったふりをしないこと。
分かったふりをすれば、その部分はずっと分からないまま。
自分自身でも分からないことを忘れて、後々それを調べることも出来ない。

それは本当に大事なことだと思う。
受験勉強の時だってそうしていた。
例えば英語の長文読解。
問題には関係ない部分でも分からない単語が出てくればそこをチェックしておいて、後々ちゃんと調べて吸収する。
分からないをそのままにしてはいけない。
そんな風にやるべきだというのは十分理解している。


だけど頭で分かっていても出来ないことってある。
実際はそんな風には出来ないんだ。




理由は簡単。
話が全く進まなくなるから。あまりにも無知すぎる。
そして特に初対面の人には、何より申し訳なさが勝つ。


一生懸命、自分の為を思って説明をしてくれている人に、
話を止めてまで分からないって言えるだろうか。
しかもそれを始めたら、1センテンス毎に話を止めることになる。
そして例えば言い換えてくれたとしても、
それが理解出来るとも限らない。
そんなことしてたら、途中で相手はがっかりしてイラっとして、
説明することを諦めてしまうだろう。

それでもそうすべきなのかもしれないけど
昔からの事なかれ主義、空気を読むことしか考えられない
典型的で標準的、量産型日本人の俺にはそれは出来ない。

日本でだってずっと
ただただ空気を読む人ではなく、空気を作る人間になりたい。
そんな風に思っていても
そんな人間には遠く及べなかったのに、
意思表示がどうやっても必要になる国では、本当に向いていないこの性格。

どうやったって申し訳なさが勝つ。




悔しい。不甲斐ない。
もう頑張ってそれ以上説明してくれなくていいよ。
その辺でもうやめて。
そんな思いも届かずに、すごく優しい目を真っ直ぐにこちらに向けて
一生懸命伝えようとしてくれる。
そんな時間が、ただただ、申し訳ないんだ。


そのまま話は流れていく。
そうやって時間は過ぎていった。



青年海外協力隊のことをすごく面白いと言ってくれたんだけど
何を求めているのかも、彼らが具体的に何をしているのかも分からない。
こうやってミスコミュニケーションが積み重なって行くんだろうなと思いつつも
そんな状況を打開できる力もなく。



途中でたまたま元々JICAで働いていた現地スタッフがカフェに来た。
その人にこそっと「20%くらいしか理解出来なかったからフォローして」って言ったら
「こいつ理解出来てないからもう一回説明して!」
と面と向かってNPOの彼に言い放った。
もっとそれとなーく助けてくれることを期待していたんだけど
何の遠慮もなくさらっとそう言い放つ。

イラっとされるかと思ったけど、彼はそんな素振りをおくびにも出さず
頑張って分かりやすい言葉を使って改めて説明してくれた。
その説明を、申し訳なさいっぱいで聞いた。



彼は多分あんまり気にしていない。きっとそういう文化なんだ。
「これでもさっきもゆっくりしゃべってたんだよ」って言ってたけど。
改めて聞いても50%くらいしか理解出来なかったけど。


ただ、来週また会う約束は出来た。
活動を見せてもらえる。

分からないことを分からないと言えない分、
足りない情報をつなぎ合わせて、徐々になんとなく全体像を掴んでいく、
そんな力はついている気がする。
でも結局正解が一旦どんなものか分からないから、
それももしかしたら全体の中の一部なのかもしれないんだけど。


分からないことを素直に分からないというには勇気がいる。
もっと勇気をもって、申し訳なさを棚に上げることにしよう。


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