きっと僕は「世間」教の信者
宗教というものを、僕は殆ど知らない。
多くの日本人と同じく無宗教だし、
しっかりとそれについて考えたこともないから
まったく知識もない。
父は仏教徒で、母はクリスチャンだけど、
そこまで敬虔な訳ではないし、
両親の宗教を知る機会は、祖母が亡くなった際のお葬式と入るお墓の違いでしか認識したことがない。
そういう背景もあって、
もう誤解を恐れずに言うと、宗教に全く興味がなかったし
今でもどうしてそこまで神を信じれるのか、分からない。
(批判している訳でも、否定している訳でもありません)
というか宗教というものを教えてくれる(紹介してくれる)人がいなかっただけなのかも知れない。
何だか日本では宗教の話はタブーのように感じられるし、
敬虔な方ともあまりお会いしたことはなかった。
インドネシアでは約9割はイスラム教。
この国にいると宗教というものをすごく身近に感じる。
まずこの国では必ず宗教を持たないといけない。
日本のような無宗教という人はいない。
病院に行けば問診表に宗教を書く欄があるし、
結婚をするときには別々の宗教にすることは出来ないので、どちらかに合わせる必要がある。
イスラム教徒は毎日のお祈りを欠かさないし、
時間を守らない人でも、早朝のお祈りの時間には起きるし、
食べることが好きな人でも、断食の時期には日中にものを口にしない。
小学校によってはイスラム教とクリスチャンでクラスを分けたり授業が分かれたりもする。
インドネシアの友人から連絡をもらった。
「今日の夜時間ある?またみんなで集まるから来ない?」
前にも誘ってくれて、6人くらいで集まってKFCでおしゃべりしたメンバー。
みんなクリスチャンの25歳前後の若い子たちで、
言葉分からない日本人にも、分かりやすい言葉使ってくれたり、
話題に置いてかれない様に丁寧に説明してくれたりする本当に親切な人たち。
きっと今日もKFCかどこかで集まってお喋りするんだろうなと思って
「行く!」と答えた。
行ってみると全然違った。
クリスチャンの集まりで、神父を囲んで集まり、
神父を中心に聖書を読み深め、理解を深める為のような会だった。
(知識がなく正確な言葉であるかは分かりません)
最終的には15人くらいが集まった。
神父が聖書の箇所を指定し、みんなでそれを読んで、
その後にそれぞれがその具体的な意味や解釈を発表しあい、
理解を深めていく。そんな会。
神父が一人一人当てていく。
「あなたにとってのこの文章の解釈は?」
25歳前後のみんなは一人一人その解釈を話して、
時には聖書の別の部分を引用して自分の考えを話す。
初めて見る光景だった。
その話の中で、おそらく気を使ってくれたんだろう、
「あなたは神を信じてる?」
と聞かれた。
僕は空気も読まずに正直に「いいえ」と答えた。
「だったら今日から寝る前に神に祈りなさい。
神様はあなたの心の中にいる。
まだ結婚していないんでしょう。
神に祈ればきっと運命の相手とも出会える。
きっと正しい道に導いてくれる。」
そんなようなことを言ってくれた。
宗教と聞いて一番思い出すのは遠藤周作の「沈黙」という小説。
江戸時代のキリシタン弾圧という逆風の中で
それでも信者がいるからと日本に船で渡った司祭の話。
隠れながらも信者と時間を過ごすが、
ついには司祭は幕府に捉えられる。
信仰を捨てることを強要され、それに応じないと信者の命が奪われてく。
自分を殺せを言えども、信者が殺されていく。
司祭はその中でも神に祈りを捧げるが
神は何も語ることもなく、状況は変わらない。
果たして神とは何なのか。祈ることとは何なのか。
神に祈ること。
おそらく今までの自分の人生の中で神を信じたくなる程の大事がなかったんだと思う。
誰かにすがらなくては生きてはいけない程の悲惨な現実に、
幸運なことにきっと出会っていないんだ。
宗教と科学が対立して語られることがある。
科学が発達する前は何かにすがらなければ生きていけないような状況が多くあるだろうことは想像出来る。
治療法も分からない奇病に掛かれば、何かに心の拠り所を求めたくなるだろう。
明日生きられるか分からない生活の中では、何かにすがられずにはいられないかも知れない。
自分の力ではどうにも出来ない現実に向き合う時、一人じゃきっとつぶれてしまう。
今までの自分にそういう状況がなかったことは、本当に幸運なことだ。
きっと科学も進歩して、多くのことが科学的に分かるようになってきた。
奇病は殆どなくなり、正しい治療が出来る様になった。(もちろん完治するかどうかは別だけど)
地球の成り立ちも判明して、自然現象の多くのメカニズムが明らかになってきた。
それらの情報はグーグルですぐに調べることが出来る。
昔と比べれば自分の力でどうにも出来ない状況が少なくなっていると思う。
そんな状況の中で、同じ空間にいる自分より若い子たちは、
どうして神を信じるんだろうか。
そんなことを考えていた。
一方でガリレオ・ガリレイはこんなことを言っているらしい。
聖書は、天国への行き方を教えてくれますが、天体の動き方は教えていません。
The Bible shows the way to go to heaven, not the way the heavens go. (ガリレオ・ガリレイ)
科学と宗教は全く別もの。
科学で多くのことは解明されたが、それが何のためなのか、なぜそこにあるのかは
いくら科学が発展しても分からない。
その解釈の方法を与えているのが、どうやら宗教の様だ。
社会人4年目のころ、仕事が忙しくて帰りも毎日遅い、
守るべき家族がいる訳でもなく、土日も何するわけでもなく漫然と過ごす中、
「何のために働いているんだろう。そもそも何のために生きてるんだっけ?」
とよく思っていた。
それに対して科学はきっと答えはくれない。
その答えは、きっと宗教の中にはあるんだろうな。
神父様は「神は心の中にいる」と言っていた。
「何か困ったことがあれば、神に聞いてみればいい。きっと導いてくれる。」
心の中に誰かいて、判断する時に手助けをしてくれる。
神が、宗教がもしそのようなものであるのであれば、
今までの人生できっとそういう存在はいた。
何か行動する時や判断を迫られた時、
あの人だったらどんな判断をするだろうか、
どうするのが正しいと思われるだろうか、
そんな風に考えることが僕は良くあった方だと思う。
小さい頃は間違いなく親だっただろう。
これをしたらお父さんに怒られる!
こうしたらお母さんが褒めてくれる!
そう思って自分の行動や判断を考えたことがあったと思う。
だから親がキリスト教徒であれば、小さい頃からそういう判断軸で考えることが多いかも知れないなあ、なんて。
でもそうじゃなければ、やっぱり親の判断基準にきっと寄ってくる。
大学生では好きな女の子や彼女がどう思うのかとかを判断基準にするかも知れないし、
社会人になったら上司だったりもするんだろう。
僕も上司だったらどう判断するか、そんなことを良く考えたりしていた。
昔から自分というものがなかった。
色んな人生の選択も、心の底から「どうしてもこれがやりたい!」と思うことは寂しいことに殆どなかったと思うし、
自分自身で決めたという気がしない。
これをしたら周りから良く思われそう、とか
これをしたら恥ずかしいとか、怒られそうとか、
今考えるとそんなことばかり考えていた気がする。
世界的に見れば、日本人の多くは空気を読みすぎている。
恥の文化と言われることもあるように世間の目を気にして生きている人が多い。
日本人の例にもれず僕自身も結構世間の目を気にする方。
周りの目が判断軸の大きな部分を占めていたりする。
神が心の中にいて、自分自身を導いてくれるようなものだとすれば
きっと僕は「世間」教の敬虔な信者だ。
そんなことを考えていると、何だかすごく不甲斐なくてしょうもなくて、頼りなくて脆い。
そんな風に考えると、
心の中に軸になるような存在がある宗教って、素晴らしく思える。
多分思っている程近寄りがたいものでも怖いものでもないんだあろうなあ。
かなりとりとめのない話になってしまいましたが
思ったことをそのままに。
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