うちの会社に入るってことは、野球でいうメジャーリーグの球団に入るようなものだよ。
就職活動の真っ只中ですね。どの会社に応募しようかと迷っている人も多いかと思います。今回は就職先をこんな風に選んで欲しくないと思うことを僕の経験談からまとめてみました。考え方の一つとして参考にしてもらえれば嬉しいです。
かれこれ十数年前。僕は転職活動の真っ最中でした。今回のタイトルは、僕が外資系金融への転職を目指す中で人事の方から言われたセリフです。
残すは役員面接だったと記憶しているので、段階で言えば終盤だったと思います。
場所はマンダリンオリエンタルのバー。五つ星のホテルを面接の場として選ぶところなど、さすが外資系金融でした。
当時の僕はまだ社会人5年目くらいの若手。そんな高級なお店に行くことはほとんどありません。不慣れな環境に戸惑いながらも、自分も煌びやかな世界の住人になれるのだとかなり悦に入っていました。
何を話したかは覚えていませんが、面接は運よく通過。いよいよ最後の役員面接に向けて準備している最中でした。僕の中でどうしても払拭できない違和感が芽生えてしまったのです。
「うちの会社に入るってことは、野球でいうメジャーリーグの球団に入るようなものだよ」
直前の面接で言われたこの言葉がなぜか自分の中で引っかかってしまうのです。
最終面接の日程が近づけば近づくほど、このまま面接に臨んで良いものかと疑問が大きくなるばかり。結局、最終面接へは進まず、採用の話も流れてしまいました。
違和感の理由
当時の僕は金融業界に向いていないことを薄々感じ始めていた頃でした。そこにエージェントから届いたスカウト連絡。まさに流されるままに転職活動を始めました。
仕事への漠然とした不満や不安の解消だけが先走っていたため、転職に対して明確な目的意識はありません。短絡的に社名や収入、肩書きなどいわゆるステータスを高めることだけがゴールになっていたのです。
今ならば断言できますが、僕は肩書きなどで人を判断することが嫌いです。自分の仕事をステータスシンボルのように扱うことに対して強い違和感を感じます。(以前のnoteにも書いているのでもしよろしければ。)
自分の志向性が明確で無い当時でもメジャーリーグ発言の裏に隠された「外的なステータス」頼ろうとする姿勢に対し、直感的に転職活動に「マッタ!」がかかったのでした。
「自分」で世の中に対峙したい
ちなみに僕は今、自分で小さな会社を運営しています。というと輝かしい響きもあるかもしれませんが、まだまだ成長途中です。
残念ながら現在でも10年前に提示された年収の半分にも満たない給料で暮らしています。家も都心のタワーマンションではなく、地方都市の小さなマンション暮らし。愛車は高級車ではなく、チャイルドシートの付いたママチャリです。
はたから見たら、完全に間違った選択をした負け犬。僕自身も時々思うことがあるので、そう考える人がいても全く驚きはありません。
それでも僕は今の自分の方が好きです。
会社名や肩書きなんて全く無いけれど、自分の人生を自分で生きている気がするからです。自分そのもので世の中と対峙している手応えがあるからです。
肩書きやステータスに自分を委ねない
まだ実績らしい実績すらも残していない僕がいくら声を挙げたところで、説得力に乏しいと思うので、偉人たちの力をお借りします。
人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります。
植村直己
肩書や資格を取るために、作品を書いているのでもないでしょう。
太宰治『風の便り』
大切なのは肩書きではなく責任である。責任をもつということは、仕事に相応しく成長したいといえるところまで真剣に仕事に取り組むことである。責任に焦点を合わせるとき、人は自らについてより大きな見方をするようになる。
ピーター・ドラッカー
転職を考えるときは、煌びやかな社名や肩書きは確かに魅力的です。
ましてや自分が追い込まれていた時に、そんな人参を目の前にぶら下げられたら、ホイホイついて行きたくなる気持ちもわかります。
でも、そんなものに依存したところで自分というものは何も変わりません。しかも会社を離れ、肩書きがなくなった瞬間に自分を見失ってしまいます。
自分は何のために働くのか。なぜその会社や仕事に就職・転職しようとしているのか。一度立ち止まって考えるきっかけになれればと僕の経験談を共有してみました。
P.S.
メジャーリーグ発言の会社ですが、数年前に日本から撤退したため、もう存在していません。
【おとなの新路相談室やってます】
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