あなたの人生は、あなたのものだと思っていた。
夫の人生に、意見するのが苦手だ。
どんなに仲が良くたって、一緒に暮らしていたって、相手の人生は相手のもの。わたしが彼の人生を代わりに生きられるわけじゃない。
どんなにわたしが「Aの選択肢のほうがいい」と思っていても、最終的な決断は本人が下さないと、どこかで遺恨が残ると思っている。
「君がAのほうがいいと言った」
「やっぱりBの方が良かったじゃないか」
「君のせいで人生を誤った」
わたしは、大切な人からそんな糾弾をされるのが恐いのだ。
夫がそんなことを言う人じゃないことは、わたしが一番よくわかっているはずなのに。
よく、夫の友人から「奥さんは理解があって、優しい人」という褒められ方をする。
違う。わたしは優しいから夫の決断を尊重しているわけじゃない。
ある意味で、とても冷たく利己的な人間なのだと思う。
『相手の人生は相手のもの』
その言葉を盾に、誰の人生の責任もとろうとしていないのだ。
というか、人生の責任なんて最終的には本人にしかとれないと、どこかで思っている。(子供を持ったら、それはまた別の話かもしれない)
どんなに近い存在として側にいたって、結局はその人生を歩んでいくのは、本人ただ一人しかいない。
死ぬときに「やりきった」と思って逝くためには、本人が動くしかないと信じている。
わたしと夫は、とても仲のよい、限りなく運命共同体に近い、個と個だ。
お互いが心地よく暮らしていくための工夫や話し合いは、もちろんする。
ただ、個と個であるわたしたちの下す決断が、お互いに相いれないものになってしまったときは。『あなたのせいで/君のせいで』という恨みを持つ前に、袂を分かつと思う。
『幸せにするから、言うとおりにして』と言葉にできて、実際に行動にうつせる人のほうが、きっと優しい。
でもきっと、わたしがそんな考えをもっていたら、夫はわたしを選ばなかったし、その逆もしかりだ。
わたしたちは、この関係だからお互いを伴侶として選んだ。
こんな調子で結婚7年目。
最近、すこしだけ考えが変わった部分がある。
「あなたが好き」というわたしの言葉が追いつかないくらい、夫を疲弊させる人や場所があらわれたら。
その時こそわたしは、「会わないで/行かないで/やめて」という言葉を使う気がする。
一緒に暮らす者として、2人で育ててきた生活を脅かすモノにNOを言ってしまうだろう。
「幸せにするから、言うとおりにして」と、口走るかもしれない。
進歩なのか、後退なのか、よくわからない。
どちらでもなく、ただ関係が変化しているだけなのかな。種が木に育ち、実が熟していくように。
どこの瞬間をきりとっても、その存在に正解も不正解もないように。
わたしたちの関係が完熟し、実が落ちるのは、どんな瞬間だろう。
できれば他人にもがれたり、熟しきる前に木が枯れたり、しませんように。
自然に地面に落ちて、また次につながる養分になるような、そんな最期を迎えられる夫婦でいられたらいいのにな。
(思ったよりとりとめのない投稿になっちゃった。こんな日もあるさ)