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銀幕狂詩曲

寝ても覚めても

誰かに好きでいろ、等と言われた覚えもないが、幼い頃から映画が好きで、今でもそれは変わっていない。一般の人が数時間空いたから、と友達を呼び出してお茶をしたり飲みに行ったりするその"数時間"が手に入った暁には、近くの映画館を探して上映中のタイトルや上映時間を調べたりする。

映画を観るなら映画館でなければダメだ、とも思わないし、DVDを借りて家で観ても良いのだけれど、ずっとそうして来たせいか多少の癖にはなっていて、それは独身時代も結婚した今も変わっていない。

自宅で過ごす時間にもその癖は色濃く出ており、宅内に私独りきりであれば映画を流しているか音楽を流しているか、のどちらかで、用もなくワイドショーをたれ流したり、は、自分の中のしきたりとしては置いていないかんじ。当然そうした過ごし方をするので、子供達も必然として映画にはなじみ深く、私にする事が何もなければ

「映画館にでも行かない?」

と長女の方から要望が飛んでくる。学校に行かない彼女は映画館ならば喜んでついて来る。あの作品を観た?と聞かれて、独りで観て来てしまった、なんて言おうものなら、一日中文句を言われる。自分から映画を観たいという年齢になるだなんて成長したものだなぁ、と思う。今日はその、映画を通した、思春期との過ごし方、について。

共に過ごす時

長女と私とは約30年以上の差がある。同じものを同じように眺められるか?と言われるとそれは到底無理な話で、この年齢差は案外、厄介だったりもする。年齢が違う為の視点の置き場所や好みの違いで、それはあなたの年代のもの、これは私の年代のもの、と色々を分けてしまいがちになる。同じものを見つめないと、相手がどんな感情や考え方を抱いているのかよく理解できないまま、日々を過ごす事になる。理解が及ばないまま話をしていて、何か一言を投げたとしてもどうしても、頭ごなしに言ったように受け取られたり、時代が違うよと跳ね除けられたり、の色々が勃発する。

当たり前の事だ。そこまでの理解が及ばない相手に互いに腹の内をみせる事もなければ、わかったふりをしていても上辺だけでそれら話が流れていってしまう。


そうした意味で、映画、という媒体は私たちの関係を繋ぐよい架け橋になっている。作品を鑑賞した後、二人で向かい合って座るカフェでの時間も込みで、私たちはお互いに感想を述べあい、共感したり、教えあったりして時を過ごす。私たちの映画時間は、そこまでが映画なのだ。

勿論、映画には年齢制限という物があり、彼女はまだ14歳なので年齢制限に引っかからない物……例えば、年頃の子が楽しめそうな作品を探しては一緒に出向くこともあるし、それ以外では私が気になると言っている作品に彼女の方がついて行きたい、と言う場合もあったりで、大人過ぎて楽しめないかもしれないよ?と一言口添えをしてもそれでも、という場合には同行願う状態である。

大人びた彼女

一緒に映画に行くと色々な発見がある。面白かったのはノマドランドを観に行った時の事だ。

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内容からして、年齢層も高めの大人向けの作品であり、大人の哀愁漂うような作品なので一人で行くべきだな、と思っていたところ、捕まってしまった。自然の織り成す芸術と人生を照らし合わせたような作品だろうから、また今度にすれば?と言ってみたが、一緒に行くといって聞かなかった。

鑑賞後、どうだった?と、内容的に聞くまでもなく、その余韻を楽しみましょうと珈琲を啜っていたところ、本人の納得のある場所が幸せのある場所だよね、と彼女が言った。いや、まさにそう、それ。天才かよ、となってしまった。どんな生き方であっても、他人が評価する事は出来ないし、その人の背景に何があって今があるのか解らない。家も持たずに好き勝手に暮らしているだなんて……女の幸せは!子供産んで!育てて!旦那を支えて!等と言う子であれば、それはそれでまた私の気苦労が増える。あまりの良回答に

「そうね」

と一言だけ放ち、二人で静かにお茶を楽しんだ、よいひと時であった。


理解のある場所

私の子育てはあまり親らしいとは呼べない子育てである。親という生き物を私自身が立派だと思った事もなければ、子育て世代になり自身も身をもって

"大人とはいえ、これは子供の延長に過ぎない"

と感じているし、模範的であり、間違いをひとつも起こさない人間である事が親だ、等とは捉えられない。全部が手探りなその状況に、正しい、なんて何一つないだろうから、絶対的に自分が彼女たちに出来る事とは何か、それも親という立場で、を、考える。

私は誰がどう言っても、彼女たちよりも早くこの世を去る。今はまだ私も生きているからよい。何かがあっても手助けが出来る。しかし、去ってしまうとそれが出来なくなる。きっとそこからが本番なのだろうと思う。

私が亡き後、何かがあった時、彼女たちが助かるであろう唯一の方法は、道に迷った時に伺いを立てる、胸の中の母、にある。その時に

『あの人ならこう言っただろう』

と、思い返した時に迷わずに道を教えてやれる存在でいる事、それが親として絶対的にできる事であり、また、親として初めて効力を発揮する時なのではないか、と思っている。生きている間は、あの人いっつも適当だったけどね、でも、何でもいい。だけど、こういう時、あの人ならこう言っただろう、という絶対的な信頼は常日頃から積み上げておくべきで、それは昨日今日思いついたからといって得られるものではない。その分、相手に正直であり誠実でもあらねばならぬので、大人の問題だから子供には関係ない!と言った事もなければ、なんでもきちんと話すようにしている。だから、たまに、叱られる。だめな母、と。

でも、そんな事は取るに足らないのだ。私が残したい足跡はそんな物じゃない。私がいつも何も隠さないので、彼女たちも何も隠さない。叱られると解っているような事でも、正直に話してくれる。だから、関係性上ではこれでいいのだ。あそこのご家庭はお母さんがいい加減だから、だからあんな風に子供が不登校になって……と言われていてもよい。私はその方の母でもなければ、お互いに何の責任もないし、何の責任もなければ誰だって好き勝手な事を言う。これと言って、困らない。

「じゃあ、あんたが代わりに行きゃあいいじゃない?娘の分の出席とってきてよ。あわないところにわざわざに身を置いて身を滅ぼす程、馬鹿馬鹿しい事ってないわよ?会社ならね、嫌だと思えばやめられんのよ。義務教育課程だから行くのが当然って、そんなルールおかしくないの?」

と言ってしまうタイプの人間であるので、どうでもいい。不登校児にかぶさるのは、親の世間体ひとつ。勉強は、したい事や学びたい事が出てきた時に本人がやる気を出して手に入れていけば良い、その過程で死んだ目をして生きてさえいなければ、そうした時が必ず来る、そう思っている。きちんとした信念があれば、人は負けはしないし、それを努力だとも思わない。だから必ず掴んでくる。今の間は、理解のある場所に身を置いて、理解してくれる人のもとで、どれくらいに人間力が育めるか、に、かかっている、と思う。

年齢は同じでも

先日、面白い事があった。暇だから映画でも、と探していて、渋谷で上映していた17歳の瞳に映る世界を観に行った時の事。

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思春期でもあり、女の子でもあるので、丁度よいかなぁと思い鑑賞に誘ったら、明日ママと映画に行きます、と気になる男の子にLINEをしていた長女。

その気になる男の子が、どんな話なのかと尋ねてきたらしく公式サイトを差し出すと、返信が

「なるほどね。最終的にできちゃった結婚とかするようなどうしようもない話?そんな事より、学校来なよ」

だったらしく、長女がカーッとなってしまい

『できちゃった結婚の話じゃないのはあらすじ読んだらわかりそうなもんだけど?ところで、できちゃった結婚の何がいけないと思って言ってんの?出来て堕ろせよ、なんて言われるより、その命に対して二人で責任とろうって言ってるんだから祝福されるべき話じゃない?そもそも考え方が全然違うんだから、学校なんか行ったって楽しい事ないしね』

と、返信し、ぷんぷん。リビングにやってきて、受け売りで物言ってるに過ぎないのが目に見えて、ほんと、うんざり、どう思う?と尋ねてきた。

「さぁ……彼も立派な大人になる為に頑張ってるんじゃないの?」

とだけ答えて、まぁまぁ、と熱いお茶を一杯。その一件で彼女の恋は儚くも散っていった。あらすじさえ読めねぇって何勉強してんだよ、と、勉強もしていない人が息をまいて語っていたのが面白くて、青春のよさにうっとりとした。


翌日、二人で渋谷に出向き鑑賞し、帰り道に感想を述べつつ、駅まで歩いている途中の事。映画のあらすじをここでざっと説明すると、とある男の子供を身ごもった女の子が自分一人ではどうしようもなく、いとこの女の子と共に中絶手術を受ける為に別の都市に渡る、という傷心ロードムービーで、私がそれに対し

「何がしんどかったって、その事を誰にも語れなかった事だよ。少しでも理解のある大人がいれば、また少し違っただろうに…。気の毒でしかなかったわ。。あなたもあれよ?そんな事があったら、叱られる、なんて考えずに、それは命や体の問題も含むんだから、隠さずに話してよ?代わりは出来ないけど、力にはなるから。」

と告げたら

『言われなくても!聞きたくないって言われても、他には内緒にしててもママにだけは聞いてもらうわ!だって自分だけじゃなんとも出来ないし、どう考えても人生の先輩じゃん。知らねーわ、お前の問題だろ、考えろや、とはそんな時には言わない人だっての、理解してるもん』

と言われ、おいおいだからって出来ても平気、ママがいるから大丈夫、は、やめてよ?STDだって怖い世の中だから、そういう時には避妊もきちんとして恋愛を大いに楽しんで下さい、と返した。

でも、この時に、ああ、私はきっと、この世から消えても、あの人ならこう言うだろう、がきちんと積み上げられている音を感じ、安心した。性の問題は、早いも遅いもなく誰にでも訪れるもの、と考えている私の事をきちんと長女が理解している事や、時に人は好奇心から踏み外してしまう事もあるだろう、という事、でもその時にどうすべきか、降ってくる責任は、そして誰が傷つくか、そうした事も全て彼女が理解した上でのやり取りだったので、とても良い時間になった。

同じ年齢でも、昨日の彼と長女ではこんなにも考え方が違うのだな、という事も同時に感じて、これでは教室で過ごすことは少し、残酷かもしれないな、とも考えさせられた一本だった。


文化、そしてネット社会

この度、そんな長女に、コスタリカで暮らす歳の近い友人が出来た。ネットを介しての事だが、二人はお互いにその国の文化や学校の事、年頃の悩み、それらに興味を示し、毎日毎日、翻訳機を使っては会話を楽しんでいる。

相手の子が言うそうだ。あなたは今まで知っている日本人の誰とも似ていない、と。長女は、母の影響が大きいです、と答えたらしい。

例えば、映画を観る上で私が学んで欲しかったのは、決まりきった事を当たり前に発言する子にはなっては欲しくなかったし、彼女はそれが出来る子である。日本では善くないとされる事も、その国の文化や生活状況などもあって、そうでなければ生きられない物を誰が悪いと言えるだろう、という感覚や、その人にあわせた環境があり、それらもきちんと見定めてから発言のできる子でいて欲しかった。その為に色んな文化に触れさせて、色んな国の映画を観せていた、というのもある。

自分の知っている場所が狭いと、その内でしか判断を下せないが、眺める事で、なるほどそういう事もあるのか、という考え方をして欲しかった。そういう事もきちんと伝わっていたんだな、と、その返答に嬉しくなった。


それから、やっぱり自分の気持ちを端的に表現できる術を持ちたいので、語学くらいはきちんと学びたいな、と言い出した。もしかしたらコスタリカのその友達が遊びに来るかもしれないし、その時には自分が観光にも連れて行きたい、いちいち翻訳機を使ったりせずに自由に表現したい、との事で。


早くからネットを与えた事で、当時、私は周囲から総スカンを食らった。あんな物は百害あって一利なし、分別もつかない子供にそんな物を持たせるとろくな犯罪をおかさない、などなど……。

しかし、長女が連れてきたものは、異文化であり、楽しい毎日であり、学びたい、という気持ちだった。大人はいつまで大人の考える事は絶対だ、と言うのであろうか。私は危ない危ないと言うよりもしたいのならばさせてみて、自分に合うか合わないかを自分で決めればよい、と思っている側の人間なので、その子のする事を信じる。今すぐに答えが出ない事であれば、長い目で待ってやればよい、とも思っている。私が正しい、という話ではなく、私はそのように考えているので、当然、何かがあれば責任はこちらが取らねばならぬのだろうが、それを面倒だとも、信用ならないから与えられないとも、考えた事はない。そしてそれは良い兆しを見せた。結果的によかったから、の結果論だ、と言われればそうなのかもしれないが、悪い側面に落とす事も結果論ではないのだろうか、とも思う。物事はどのようにも変えていける、と信じているし。どこで結果として区切るか、でも、出来事は大きく変化を遂げる。


最近の長女はイキイキしていて、更に忙しい。英語の勉強もその一つだが、最近一緒に観に行った少年の君の不良少年を演じた中国アイドルの男の子

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易烊千璽くんに夢中だからだ。彼の為にも中国語を覚え、字幕なしで楽しみたい、というのがここ最近の夢なので、親である私たちは、したい事は存分にやってみろ、と大きく構えている。


先ほど、眠る前に長女がリビングに顔を出し、こんな鳥がいるんだって、窓をあけたらこんな美しい鳥がいるんだって!行ってみたいな……と話していた。

「さっさと勉強して習得して行ってくればいいじゃない。若いんだからなんだって出来るでしょうよ。帰ってこないのは嫌だけどね。あんたがいないと映画ひとりだし、あんまり楽しくないかも」

と言うと

『明日、何か、観よ♡デイサービス終わったら、翌日は休みだし。タイトル決めといてね!』

と言いながら去っていった。

あの子も、もし、母になる日が来たら、おばあちゃんは大の映画好きだったから、と言って、自分の子供達と銀幕を楽しむ日が来るのかもしれないなぁと思いながら、まだ見ぬその日を、銀幕の向こうに観る。

いつかそんな日が来たら、きっと素敵だな、と思いながら。

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