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言葉とは、言語?なのか


コロナが明けて、小中学校の頃の友人や、両親や兄妹や、高校時代の友達と会ったり、話す機会が増えてきた。

たとえ半年ぶりの電話でも、どちらからともなく話が長くなってくる。
ひとしきりお互いの近況をざっと話したところで、ずっと好きで応援していた人(『基本読書』の冬木糸一さん)に、ブロックされてしまったという話をする。どんな人かを聞かれる。みんな一様に、忘れてしまうのが一番だよ、という。SNS、怖いよね。

私は、一度書いた文章をできるだけ1週間くらいは訂正するけれど、そのあとは手を入れずに置いている。うわ、ひどいなぁ。って思う文章も。恥ずかしすぎて死なないのがすごいな。って自分でも思えるような文章まで、きちんと公開して、残してあります。

個人としての自分にとって、それが良いか悪いかは分からないけれど。いずれ一人の人間の思考がいかに整合性がないか、そして、その中で何がどう変化していくか、していかないかの世の中にある、ありふれたサンプルにはなるかな。と思います。

仲のいい人たちなら、分かってくれることがあって。
そして、分からないこともあって。どちらにも、意味がある。

彼らは小学校、中学校、高校生の頃から私を知っていて。
新井素子先生の本を端から端まで読んでいた私を知っているけれど、
冬木糸一の『基本読書』を読んで、自分の住んでいる世界と、そのほかの世界を繋げてきた私のことは、たぶんあまり知らない。

人間の世界と、地球の世界と、科学の世界と、宇宙の世界と、科学に縛られない世界と、「世界をどの視点で見るのか」や、ノンフィクションの手法を精緻に模倣しながら異なったリアルが描かれる別の世界のあり方にも。一視点の拡充に親しむ。そのような機会は、動き回れるこの世界では、そうたくさんは、持てない。けれど、本の中では別で。

冬木糸一noteからの発信は届くけれど、こちらからの発言は封じられる。
そういったことが、簡単に行われるネットの世界。

何を隠そう、歴史が昔に戻っていくのだと思う。
自分を育ててきたはずの価値の根底から、大きく殴りかかられている。

私は小学校2年生の頃から、なぜ日本が戦争をしたのかについて考える機会が多かったので、なにかにつけて、目にしたこと経験したことが、どう戦争につながるのか考えてしまうのだけれど。

誰もが嫌だと思うのに。
それなのに、戦争を止められなかった戦前と同じで。
戦争の前に、戦争を始めてしまうと終わりだとわかっている人は確実にいたけれど、その声は、力を持たなかった。

冬木糸一さんは、自身が戦争に対峙するのはきっと、嫌だと思うだろうと思う。そしていざ戦争が起きたら、力の限り、どこかへ逃げていくと思う。

冬木さんは2022年の8月ごろに、アーマードコアというゲームについてロシアという現状と照らし合わせる視点を持った動画を配信していたことがあって。こちらでは、プーチンの個人的な加齢と状況によっては、ありうる核の存在も話題になっていた。

動画で冬木さんは、広島に原子爆弾を落とすシチュエーションを選べるシーンで、選択肢としてそこにあることすら正視を躊躇されている他の配信者のかたに対して、「ゲームだから何でもできる。むしろ原爆を落としてみる機会を得たのだから。」と、原子爆弾を広島に落とすことに、ためらいをまったく持たない様子だった。

原子爆弾を1945年の8月に落とす側に立つシチュエーションを模倣して、そうすることで得られる何かがきっと、冬木糸一にとっては重要であって。きっとそれは、バルス的な何かであるのだと、思う。

冬木糸一の目線は、バルス的なところにある。
SNSは、人が使う。
冬木糸一が、どういった人の間で、どういった状況でどういった風にあるのかということは、引き続き関心を持っていきたいと思う。


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