形山睡峰師の講話をお聴きして
二ヶ月に一度開かれています「読書のすすめ」での 形山睡峰師の禅談が10月26日にありました。
『善の研究』西田幾多郎著 を読み解く講話は、今回で二十数回を数えます。
私は、ほぼ毎回、聞かせていただいています。
私が求めるところが深く掘り下げられ、また普遍的な真理へと広がってゆくような感覚がします。
私という玉ねぎの、概念という一枚一枚を剥いて、いつか遥か彼方で、普遍的な真理の「空」になるのでしょう。
今回の形山睡峰師の講話を、私が受けとめた言葉でまとめてみました。
人の一生は、自分の間違いに気づき試行して正したり、至らないところを見て補ったり、進歩成長を目指す歩みです。
それでも、自分のなかで十分に尽くしていないところを感じているからこそ、十分に尽くすことを求め、今日を生き明日を生きるのです。
西田幾多郎の哲学は、自分の既存の思考が立ち行かなくなったところから、愛する者の度重なる死から、始まりました。
命の存在やこの世界の在り方への、自分の見方考え方の間違いや至らなさに気がつき、普遍的で絶対的な真理とは何か、その考えを進めていくことが善の研究だったのです。
現代は、善の研究が足りない。
普遍の真理を求める心が足りない。
その真理の高みへ跳ぶには、西田のように、地に深く沈み込むような「屈」が、はからずも必要になってきますが、
そうしたことに出会わずとも、真理の高みへ昇るには、読書でいろいろな人の見方考え方に触れ、
しかし、それを善•真理に触れたとすることなく、
その読書を、自分のなかの 善•真理を追究していくための梯子にして、高みへと。
読書は答えを見い出すものではなく、本を通して善•真理を自分に問い追究していくものなのです。
そうした梯子を幾つも幾つも昇った自分にとっての最高の善•真理が、全世界の善•真理とつながらなければならない。
自分にとっての最善は、他の最善と響き合うものだから。
そのように、自分のなかで十分に尽くして生きたいと願いながら、十分に尽くしていないのにかかわらず陥りやすい危うさが、独りよがりや慢心。
常に、形山睡峰師の言葉を心にとどめて自分を見極めて、善•真理へ、十分に尽くことを追い求めたい。
「その考えは、全世界を救うことができるか?
それは、歓喜に震えるものか?
本当にそうなら、その喜びに突き動かされるぞ」
『善の研究』
https://dokusume.shop-pro.jp/?pid=163916322
次回、形山睡峰師の講話は11月16日となります。
「読書のすすめ」にお問い合わせください。
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【形山睡峰師のご著書】
『禅と哲学のあいだ』
https://dokusume.shop-pro.jp/?pid=153073590
『非ずのこころ』
https://dokusume.shop-pro.jp/?pid=159812948
『和するこころ』
https://dokusume.shop-pro.jp/?pid=173643425
形山睡峰師は、
山岡鉄舟の住居跡に建てられた東京中野高歩院で、大森曹玄老師の下で出家得度、曹玄老師に法を受け継ぎました。曹玄老師は、鉄舟を深く敬愛し、寺内に「鉄舟会禅道場」を建立して、形山先生もそこで修行され、日々に鉄舟の心に学べと教えられ、また鉄舟の書を臨書するのが、日々の修行だったそうです。
現在、茨城県かすみがうら市の無相庵・菩提禅堂で、坐禅の修行道場をされ、各地で禅会も開かれています。
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