改めて自我を問い直す
「自我とは宇宙を入力とした時の部分関数である」という言葉、2016年にも投稿していてこの堂々巡り感に自身で苦笑している。
紛いなりにも大学-大学院時代の触感覚の研究、新卒社会人での聴覚に関する研究を工学的な見地から行ってきた僕は、概念的にはこの言葉はかなり的を得ていると感じている。僕らは一般的に五感によって体外の情報を得ている、遠い情報から光としての視覚、音としての聴覚、皮膚への近接刺激としての触覚、空気中の化学分子を取り込む聴覚、そして食すという行為によって体内への異物を取り込む味覚である。それらは単一で存在することはまれで、例えば素晴らしい料理を頂くときには目が喜び、音に感化され、香りが鼻腔をくすぐり、味覚と咀嚼を伴う歯ごたえや舌ざわりなどの触覚を伴う味わいによってその美味しさを堪能している。加えて自身の経験や、その料理が持つエピソードなどが相まってその喜びを更に更に増幅してくれる。
美食家の人々がその料理の素晴らしさを感ずるセンスのようなものは、その入力に関する分解能の高さに加えて、数多かつ振れ幅の大きな体験に基づく蓄積された経験知の積み重ねにより、素晴らしいものを素晴らしいと感じることができているのであろう。また、高級店ならではの顧客志向のサービスを愉しむだけの余裕や、テーブルマナー、店内の設え、料理や店舗や人に関する知識、誰と食べているかなどなど、料理を1次性能とするならば2次ー3次といった、その時の心情に関与する全てが高度なレベルにおいて満足をもたらしているのだと思う。どんなに旨いご飯でも、目の前の人に怒られながら食べるご飯ほど美味しくないものはない。
何を言いたいかというと、同じ入力をもってしても私たちがその入力に対して素晴らしいと思うかどうかという点は、結局のところ私たち次第によるところが大きい。太陽が燦燦ときらめく光景を前にして、「うだるような暑さで嫌だ」と思うか、「きらびやかに世界を照らし出してくれてありがとう」と思うかは私たち自身に委ねられている。これが自我なのだ。
これまでの僕は、「こういう事を言うと嫌な気分にさせてしまう」とか「こういう事をするのは嫌だ」とか「こういうことをした方がいい」とか、かなりの事象を先に頭の中で処理をしてしまっていた。これはある意味自身の自我に対しての信頼を持っていたからなのだが、どうも上手くいっている気がしなかった。
そこで、先日の投稿にあったように、「生まれ変わる」ということを決めたのである。生まれ変わるという事は、自我の再構築を改めやっていくということである。先日の投稿に関しての決意表明の”一歩一歩の積み重ね”とは、まさにこの自我の再構築を丁寧に行っていくことなのだ。なんだか恥ずかしいからやらなかったことや、ビビッてできなかったこと、(勝手に嫌がられると思って)やらなかったこと、プレゼントするにも自身の主観は捨ててむしろ欲しいものを聞くようにしたり、自信が持っていた偏った色眼鏡を疑い再度実験的に試して行くことが、積み重ねのファーストステップなのだと思った。無論、長きにわたって僕の中にこびり付いてしまった自我というものが一瞬で綺麗になくなるかと言えばそうではない、けれど、この一歩一歩のが必ずや明日僕に見える世界をより美しく感動的にしてくれるはずなのだ。
明日は父親の誕生日、何か欲しいかとの問いには照れくさがったのか「〇〇がほしい」とは応えてくれなかった。なので、いつも父親が飲んでいる焼酎と高くはないウイスキーを持参して年に一度の機会をわりと厳かにお祝いにかけつけた。なんてことはないが、かつての僕が感じていたものと違った1日にできたと思う。こうして明日もまた、新たな自我と向き合っていくのだ。