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コロナ禍にクロちゃんを推す

夜道を歩いていると、後ろからやってくる車のライトが私の長い髪を地面に映し出して、本人の気持ちとは無関係に、その毛先は力強くたなびく。

着ていたトレンチコートが相まって、小学校と畑に挟まれた街灯の足りない頼りない夜道で、一瞬だけ5番街をヒールで歩くようなゴージャスな気分になった。


それにしても、盆地特有の寒暖の差は未だに堪える。
昼間にちょっと暑くても軽いコートを羽織って家を出るものの、夜にはそんなヤワな上着では間に合わず、指先を真っ赤にして帰路につく。
結局一日中損をした感じになっているのが悔しい。
車から降りて来た薄着のおじさんが、ジーンズのポケットに両手を入れて肩を少し上げ、小走りに喫茶店に入ってくるのを、ちょっと羨ましく見てしまった。
早く車移動の生活を手に入れたい。


今日は以前から気になっていた本を読んだ。
読書は滅多にしないけど、強烈なタイトルと本屋で立ち読みした冒頭の読みやすさで久しぶりに購入したのが「推し、燃ゆ」です。

最後まで本当に読みやすくて、でも読み進めるごとにしんどくなっていくのは、だいぶ前に読んだハンガンの菜食主義者と同じような感覚でした。

そう言えば、“推し”という感覚は自分にはまだよく分からないけど、韓国では似たような言葉に"bias"があると聞いて、個人的にはそちらの方がしっくり来ました。
「私のbias」といった具合に使うようです。
どんな意味で使われているのか厳密には分からないけど、私の見方を狂わせる人みたいな感じがして、好きです。

私も高校生くらいまではbiasのように夢中になったミュージシャンや芸人さんがいました。
今となっては彼らを懐かしむことすらも無くなってしまったけど、すなわちそれが"消費"、つまりエンターテイメントなのかなぁと思ったりもします。余談ですが。

そんな当時はファンやオタクであることに、(みんなには分からないだろうけど私には分かるのだ)というような思春期ならではの自我の肥大による誇らしさがあった。

いわゆるこの"誇らしさ"は、実際それ自体もあったかもしれないが、それだけではなく、家族であっても他者と完全には分かり合えないという自分自身を有名人に投影し、擬似的な自分(みんなに分かって欲しい自分を代弁してくれていると思われる対象)として愛でることなのかもしれない、とこの本を読んでいて思った。

オタクや推し活動というものは信仰や祈りなのだと思う。
自分で自分を生きるというのは、そうありたいと願うのに、実際は相当頑張らないと退屈で、面白くするにはとても難しいので、しんどい。
だからこそ我々は家族や推しを作り、彼らを愛でることで祈りながら自分の人生を背負ってもらう。

私自身も最近はガーデニングに精を出しているが、やはり何かを愛でる(=他者のために生きる、頼られる)という行為は自分を生きることを一休みし、孤独を和らげながら自尊心を高めることが出来る気がする。
他者の存在によって自分の人生が形成されるのだ。


もしかしたら、孤独や自我が肥大化した現代(特にコロナ禍)の我々大人にとって、推しはとても重要な存在かもしれない。

私の今の推しはなんだろう、もうしばらくないな…
でもあえて挙げるとすれば、毎晩clubhouseで配信を聞いているクロちゃんだろうか。
そういう今も、クロちゃんの推し(SKE珠理奈ちゃん)の話を聞きながら記事を書いている。

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