インドに行っても、ぼくの世界は壊れなかった #なかむらインド旅行記
インドについてよく聞く、こんな言葉。
「インドに行くと、自分の世界が壊れるよ」
「インド、人生観変わるよ」
そんな噂を信じて、インドへ行ってみました。
2週間の長旅で、いろいろな街を巡りました。楽しい経験も、嫌な経験もありました。日本では得られない刺激が沢山ありました。その度に内省して、メモを取りました。
でも、ぼくの世界は壊れなかったし、ぼくの人生観は変わらなかった。
8年前からインドに惹かれていた
高校1年生のとき、無性に旅に憧れていました。世界一周、バックパッカー、旅人。そんなキーワードで検索して、出てきたブログを読み漁っていました。
その中で、ずっと興味を持っていたのがインドでした。インターネット上には、いろんな旅人が体験したインドの情報が溢れていました。
ガンジス川のほとりの火葬場。
道を行き交う牛や犬。
動物の糞に塗れた道路。
ぼったくりや詐欺まがいのインド人の手口。
良いことも悪いことも沢山書いてあったけど、そのどれもが日本では絶対に得られない体験に見えました。インドがこことはまるで違う、よく分からない、でも魅力的な世界のように感じました。そんな別世界に、キラキラとした憧れを持ちました。
またその数年後、知り合いの先輩2人がインドに移住したことも、さらにぼくのインドへの興味を掻き立てました。彼らが日々、SNSを通じて面白おかしく発信するインドの日常生活は、別の世界だったインドを、ぐっと身近に感じさせてくれました。
「いつかインドに行きたい!」という思いが、少しずつぼくの中で育っていきました。
なんとなく日常に物足りなさを感じていた
4月ごろから、よくも悪くも安定した、変わり映えのしない日常を過ごしている感覚がありました。
就職活動も落ち着き、今後の進路も決まった安心感。
朝起きて、インターンか大学へ行くルーティーン。
いつも会って話すのは同じ人たち。
決してこの生活に不満があった訳ではありません。毎日楽しく幸せで、充実していました。ここで享受していた「安定」も、気持ちがぐらついている時は喉から手が出るほど得たかったものです。
でも、なぜか「物足りない」と感じている自分がいました。もっと不確実で、訳の分からない刺激が欲しい。思考する間も無く感情が一杯になってしまうような、ずっと頭から離れないような何かが欲しい。
そんな思いを背景にして、ずっと育ててきたインドへの憧れがむくむくと沸き起こってきました。
インドには、日本でのぼくの日常と地続きの、でも一番遠い世界があるんじゃないか。
そこを旅してみることは刺激に溢れているはずだ。
それによって、ぼくの世界は壊れて、全く新しいものが作られるんじゃないか。
そんな思いを胸に、9月7日、ぼくはインドに旅立ちました。
たしかにインドは、ぼくの常識が通用しない世界だった
滞在期間は2週間。インド北部を西から東へ横断するような形で、最初は1人、途中から友達と2人で旅をしました。
実際に生身の五感で体験したインドは、本当にぼくの日常からは程遠い刺激に溢れていて、日本の社会常識みたいなものが全く通用しないことを痛感しました。
例えば、ルールを全く守らない人々。交通ルールはめちゃくちゃで、車もトラックも牛もリキシャ(画像右下。トゥクトゥクのような三輪のタクシー。)も自転車、それぞれが走りたいように走ります。
また、列の順番を守るなんて、絶対にしません。隙間があったら前に行く、隙間がなくても無理やり前に行く。悪びれる様子は全くないです。その様子は、そもそもルールなんてないんじゃないか、「列を抜かす」という概念がそもそもないんじゃないかとすら思わせます。
例えば、日本ではタブーとされてうまく隠されている死や排泄物や汚さが、日常に当たり前に存在すること。道路のそこかしこにこびりつく牛や犬の糞、散乱しているゴミ、そしてそれを漁る動物。どの街にも、そんな風景が当たり前に広がっていました。
また、有名なガンジス川のほとりの火葬場では、誰にも見える距離で布に包まれた遺体が川で清められ、焼かれていました。同時に、その火葬場には牛も犬も悠々と闊歩している。その場にいるインドの方々も、決して悲しそうな雰囲気ではなく、チャイを飲んで談笑する姿もありました。死が日常の延長線上にありました。
ここに書いたのは、ほんの一部。書ききれないくらいの刺激や体験が、ぼくのメモには残っています。
でも。
当初想像していたような、根源的な揺さぶりは得られませんでした。
ぼくの世界は壊れなかったし、ぼくの人生観は変わらなかった。
どうしてぼくの世界は壊れなかったのか
もしかしたら、「世界を壊す」「人生観を変える」という期待が正しくなかったのかもしれません。
行く前と比べると、事実たくさんの変化はありました。ぼくの世界は壊れなかったけど、少し形を変えました。たった2週間の旅に期待することとしては、そのくらいが丁度よかったのかもしれません。
ただ、同時に感じてしまうのは、ぼくは果たして主体的にインドと関わろうとできていたのか、ということです。
旅でインドを訪れるぼくは、あくまで「よそもの」。ともすると、あちらとこちらの間に境界を作って、出来事を観客のように眺めてしまう可能性もあり、それでは期待していたものは得られない。それは理解していたつもりでした。
とはいえ、どう主体的に関わればいいのかが分からなかったのも、正直なところです。見るからに観光客であるぼくを、たくさんのインド人があの手この手で騙そうとしたり、ぼったくろうとしたりする中で、誰を信じるべきか、誰と関わるべきかは、どんどん分からなくなっていきました。
すごく疑心暗鬼になっていたし、それはぼくが安全にインドを旅行するためには必要なことでもありました。
「もっと主体的に関わっていれば」という後悔と、「しょうがなかった」という諦めの間で、今も揺れ動いています。
結局、日常を変えるのが手っ取り早いのかもしれない
このnoteを書きながら振り返る中で、インドに行ったことよりも、例えばcotreeと関わるようになったことや、毎週noteを書き始めたことの方が、ずっとぼくの世界を壊してくれたんじゃないか、と感じました。
ぼくが今、主体的に生きられている日常を変えることの方が、人生を変えるためには手っ取り早いなのではないか。そうした時、旅のような非日常は、それ自体で世界を変えてくれるというよりも、むしろ日常を見つめ直すきっかけを与えてくれるものとして、捉えることができます。
これはあくまでぼくの場合は、という話でもあって。日常に閉塞感や息苦しさを持っている人は、非日常だからこそ主体的に生きられることもあると思います。
いずれにしろ大切なのは、環境や場が何かをしてくれるのを待つのではなく、意思を持って自ら機会を作ることなのだと思います。
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