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#27 「ぼくは誰かを傷つけているかもしれない」というリスクを引き受けながら、生きる
例えば、カウンセラーの資格を持っているという人に対して、「え、じゃあ今度ぼくの相談に乗ってよ〜」などと言ってしまうのは、少し軽率であるような気がしていて。
もちろん友達なら普通に相談に乗ったりすることはあるのだろうけど。
その人が資格を持っていて、仕事として対価をもらってやっていることを、軽視している、と捉えられてもおかしくない発言だな、と思う。資格を持っている、みたいなときはわかりやすいけれど、それだけじゃなく。
誰かが仕事として、プライドを持って取り組んでいって、時間やお金やエネルギーを費やしてスキルをつけてきた物事を、「友達だから」みたいな関係性を口実に搾取しないようにしたい。
少なくともぼくは、周りにカウンセラーを目指している友達や、カウンセラーをやっている知り合いが多くいて、ぼくがカウンセラーという仕事を本当にリスペクトしているので、「カウンセラーだから」相談に乗って欲しい、と伝えることはしないようにしている。
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なんて偉そうに語ってきたけれど。これはあくまで意志の話であって。こうありたい、という態度の話であって。
先日のnoteのテーマとも重なるけれど、日常の会話の中で、うっかりそんな風に伝えてしまうことはある。実際に最近もあって、反省しながらこのnoteを書いている。
ありたい自分である、ということは、やっぱりとても難しい。
してしまった発言を後から反芻して後悔することがめちゃめちゃある。毎日くらいのペースで起こる。その度に軽い自己嫌悪に襲われる。
ちなみに、#25 で書いたのは、どちらかと言うとぼくの信念にまつわる話だが、ここで書いているのは、誰かを傷つけたかもしれない、みたいな話として、ぼくの中でなんとなく弁別している。
後者に関して怖いのは、後から振り返って気付けているのはいいことかもしれないけど、それはきっと氷山の一角で、気付けていないまま誰かを傷つけていることがきっとあるのだろう、ということだ。
ほんとうは、誰も傷つけずに生きていきたいから、ぼくの言葉で傷ついているかもしれないという可能性は、ぼくにとってはとても怖いこと。
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でも同時に、誰1人傷つけずに生きていくことなんてできないんだろう、という諦めみたいな感情もある。
人と人は違う生き物だし、たくさんの人が周りを気にしながら生きていく中で、「傷つけない」を達成するのはほとんど不可能だ。
だからこそ、そのリスクを引き受けた上で生きていくこと、そして傷つけてしまったときにその責任を負う意志を持つこと、が大切だ。
「誰も傷つけない」は難しくても、「誰も傷つけたくない」という意志を持ち、「誰かを傷つけているかもしれない」ことを意識し続け、「傷つけてしまった」ことがわかったとき、責任を持って、その人に謝ること。
そんなことができる人でありたい、と思う。
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というわけで、最近傷つけてしまったなあと感じた人に、折を見てきちんと謝ろうと思うのでした。それを宣言するためにこれ書いた。
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毎日note
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