5歳で両親の愛情に期待するのをやめた。
わたし、5歳の頃に両親の愛情に期待するのをやめました。
自分の感情を表に出すのもやめて、家では「良い子でいる」ことを徹底していました。
こちらの自己紹介でもお伝えした通り、わたし4人姉妹の末っ子でして。
わたしだけが歳が離れていたので、姉が母親代わりのように面倒を見てくれていました。
隣におばあちゃんの家があったので休みの日は、おばあちゃんがわたしの遊び相手になってくれました。
自営業だったので、両親は家に帰ってくるのも遅く、お風呂も姉が毎日交代制で担当してくれていました。
21:00過ぎに両親は帰ってきていました。
そこから母は、父のお酒やおつまみの準備。
家のことなどもしていたので、母と話す時間はありませんでした。
まだ両親と一緒に寝ていたのですが、2人とも寝るのが遅いので、わたしは1人でお布団へ。
「いつも一緒にいられないから」と、母は寝る時に本を1冊読んでくれるという約束をしてくれました。
その時間だけは、母とわたし2人だけの時間。
でも次第に、その時間が訪れることはなくなりました。
始めは、わたしも今か今かと待っていました。
でも、ある時から、なんとなく今日は来ないな。というのが分かるようになるんです。
これは多分、待つ側にしか分からない、なんとなく感じる予感で。
1人で本を読んで、寝落ちする。
その繰り返し。
だんだん、待つことをやめるんです。
なぜならば、期待した分だけ、母が来なかった時の悲しみが大きくなるから。
期待しなければ、悲しくならない。
そう自分に言い聞かせて、5歳のわたしは本を読んでいました。
車でお出かけの日。
運転席に母、助手席には姉、後部座席にわたし1人。
わたしは母と話がしたくて、運転席と助手席から顔を覗かせ、母と姉の会話が終わるのを今か今かと待っていました。
「やっと話せる!」そう思うと、また次の会話が始まる。
わたしは、また会話が終わるのを待つ。
その繰り返し。
でも、わたしの番が回ってくることはありません。
大人になり、母にそのことを話すと「だって5歳くらいの子と話すよりも姉と話した方が話が通じるじゃん?」そう言われました。
なんてストレートなんだ、そう思いました。
小学校に上がると、授業参観が始まります。
母は、授業参観が終わったあとの懇談会だけ来ていました。
みんなが、お母さんが来るのを楽しみにしている中、わたしは「うちは来ない」と初めから友達に言っていました。
小学6年生の時、最後の授業参観の日。
この日だけは、卒業前 "最後だから"と、「授業参観に行くね!」と約束してくれました。
3人1組になって発表をするという内容でした。
その順番が、なんとわたしはクラスで1番になってしまったんです。
もちろん、母はまだ来ていません。
いま思えば、先生に事情を話して順番を変えてもらうことも出来たかもしれません。
当時のわたしには、そんな思考回路がありませんでした。
その時ばかりは悲しくて、涙をこらえながら発表したことを覚えています。
わたしたちのグループの発表が終わって少しした頃、母が慌ててやって来ました。
わたしは「なんでもっと早く来てくれなかったの!」と心の中で何度も叫びました。
母はいつもの笑顔と、少し申し訳なさそうな顔で「もう終わっちゃったの?」と遠くからわたしに問いかけました。
正直、どんな反応をしたのか覚えていません。
でも、授業参観が終わったあとに「なんで早く来てくれなかったの!!!」と感情をぶつけました。
それまで何も言わなかったわたしが、初めて母に叫んだ日かもしれません。
母も、「まさか1番最初だなんて思ってなかった」と笑いながら言っていました。
大人になって知ったことなんですが、母は本当は授業参観にも参加したがっていたそうです。
ただ、父に行かせてもらえず、諦めていたんだそうです。
それを聞いて、わたしは母に感情をぶつけてしまったことを後悔しました。
でも、その当時の母は「お父さんが行かせてくれなかった」なんて一言も発しませんでした。
中学にあがり、お弁当が始まりました。
入学してすぐに、母の作るお弁当は無くなりました。
ストックしてある冷食をチンし、卵を炒め、自分で詰める。
それが当たり前でした。
好きなおかずだけを詰められるので良い◎
そんな風に周りには言っていました。
それでも心のどこかで、誰かの作ったお弁当が食べたいと思っていました。
中学1年生の歓迎遠足の日。
その日だけ、母がお弁当を作ると言ってくれました。
わたしは卵焼きだけリクエストしました。
お昼の時間、ワクワクしながら蓋を開けると、リクエストした卵焼きではなくスクランブルエッグが入っていました。
スクランブルエッグなら自分でも作れる。
母が作ると言ってくれたから卵焼きをリクエストしたのに、、
家に帰って、笑い話のように「卵焼きとスクランブルエッグは大違いだよ!」と伝えました。
母は「同じ卵なんだから一緒でしょ!」そう言いました。
母にお弁当を頼むことを諦めました。
中学2年生の遠足では、長女がキャラ弁を作ってくれました。
みんなに可愛いと言ってもらえて、すごく嬉しかった記憶があります。
愛情のこもったお弁当は、こんなにも美味しいんだと感動しました。
中学を卒業する時、母と子供で手紙交換をするという企画がありました。
母の手紙には「高校にあがったらお弁当作り頑張るね」と書いてありました。
正直、期待はしていませんでした。
母は期待を裏切りません。
3日ともちませんでした。
でも、10年近く母に対する期待をやめていたので、正直悲しいという感情は一切ありませんでした。
そして、父。
幼少期は、どちらかというと父親っ子だった気がします。
肩車をしてもらったり、運転席で一緒にハンドルを握って遊んだり。
そんな楽しかった記憶があります。
4姉妹というのは、わたしの地元では珍しかったようで。
色んな方から「女の子4人なんて、お父さんは娘さんが可愛くて仕方がないでしょう」と言われていました。
それを言われる度、父はこんな風に返していました。
「男の子が欲しかったんですけどね、3人目で女の子って分かった瞬間、もう諦めましたね」
たぶん、この言葉の捉え方って人それぞれで。
「諦めた後に生まれた子」
「4人目も女の子として生まれたわたしは、要らない子なのかもしれない」
当時のわたしは、そう思っていました。
きっと父も、わたしには期待していない。
だって期待していた男の子ではないから。
4月生まれなのに、12月生まれの子より出来が悪いと保育園の先生に言われたこともあります。
わたしは要らない子。
そう思って生きていくことにしました。
傷つかないように。
自分を守る方法が、それしか分かりませんでした。
正直、大人になった今でも、自分の存在価値を探し続けています。
どこに行っても、誰に対しても、何かしらの必要性を感じていたい。
それを感じられなくなった瞬間、わたしの中で何かが崩れてしまう気がするから。
わたしが" 居場所 " だと思える場所は、まだ見つけられていない気がします。
それでも、友達や周りの人には恵まれている気がします。
大切にしたいと思う人がいたら、まずは自分自身が相手を大切にする。
いつか、「わたしにはここしかない」そう思えるように。
そう思ってもらえるように。
下は向かない。
頑張って生きるんだ。