障害者 〜障害の社会モデル〜
みなさんも、障がい者(障碍者)という表記を見た事があるだろう。
子供と子ども、みたいなものだ。
「障害者は害ではない、だから、害を使うのは不適切だ。」
という考え方から、害の字を使わない表記が広く浸透した。
めちゃめちゃお世話になっている特別支援の先生も、害の字を使わないのが当たり前だったと仰っていた。
しかし昨今、この表記が障害者に戻る向きもある。
どうして、わざわざ害という漢字を使う表記に戻すという意見が出ているのか。
その根拠となっているのが、「障害の社会モデル」だ。
障害の社会モデルとは、「障害があるのは人ではなく、社会の方だ」という考え方だ。
最近(悪い意味で)話題になったけど、例えば、足に障害があって車いすに乗っている人がいるとしよう。
それこそ、その人が電車に乗る為に、駅に行ったとする。
すると、その人が行った駅には、エレベーターやスロープが設置されておらず、階段しかない。
その人が電車に乗る為には、誰かの手を借りるしかない。
これはつまり、エレベーターやスロープのない駅が、この人が電車に乗る為の障害となっているという事だ。
これが、障害の社会モデルという考え方だ。
これならば、障害者という表記に問題はない事になる。
なぜなら、車いすに乗っている人にとって、エレベーターやスロープのない駅は、電車に乗る為の障害になっているからだ。
個人的には、障害の社会モデルで考えた場合、(今回の場合で言えば)車いすに乗っている人は、階段という障害による不便を強いられている。そういった点で被障害者(障害を被る者)という表記にした方がいいんじゃないかなぁ、と思ってはいるのだけれど。
もちろん、エレベーターやスロープのない駅や、鉄道会社を非難するつもりはない。
確かに、エレベーターやスロープのない駅は、車いすに乗っている人にとっては障害になっている。
いずれ、全ての駅に、エレベーターやスロープが設置されるといいとも思う。
しかし、設備の改修には金がかかる。
慈善事業ではないし、財源に限りはあるのだから、今すぐ全ての駅を改修しろというのは、ちょっとムリだ。
財源だけで言うなら、補助とか出るといいんだけどね。
だけどそう考えると、世の中にはたくさんの障害、大勢の被障害者が存在する。
もちろん、障害のある方が暮らしやすい様に、社会側の仕組みもどんどん整いつつあるのだろう。
しかしやはり、障害のある不便から完全に解放されるのは、きっと難しい。
きっとこれは、人類が一生取り組んでいかなければならないテーマ。
健常者と被障害者の差をなくす事は、恐らく不可能だ。
だけどやっぱり、全ての人が暮らしやすい世の中になるといいよね。
あ、もちろん、当人が嫌な思いを持つなら、障害者っていう表記は使わない方がいいと思うよ。
最後に、障害について過去に聞いた話や、自分自身の意見を少しだけ。
1つ目。
障害を持つ、と言ってはいけない。
なぜなら、持つというのは能動的な行動だが、障害は持つ・持たないの選択はできない。
ただ事実として、障害はある。
だから、障害は持つものではなく、あるもの。
2つ目。
障害は、不便だ。しかし、不幸ではない。
乙武さんの、五体不満足より。
もちろん彼の場合、周囲の多大なサポートもあっただろう。
しかし、周囲が勝手に、当人の幸不幸を決めてはいけない。
幸せは、いつだって自分の心が決める。
相田みつを
3つ目
障害と個性の境界は、診断が出たかどうかと、もう1つ。
生活に大きな支障が出るかどうかだと思っている。
生活に大きな支障が出るなら、障害と呼ばれるし、そこまででなければ、個性と呼ばれる。
万人が、特性を持っていると思う。
俺は、自分にADHD(注意欠陥多動性障害)の傾向があると思っている。
ただ、診断を受けてないし、生活にそこまで大きな支障がない(と思っている)から、個性の枠にあるだけだ。
昔に比べて障害についての研究が進んで、世の中には多くの生き辛さを抱える人がいる事がわかってきた。
先述したけど、それぞれ違いはある。
その差をなくす事はできないけど、誰もが生きやすい世の中になっていくといいね。