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「オシャレすることが平和の象徴」とするサプール文化がなぜ生まれた?②

ベルギー領コンゴ


1908年以降、ベルギーが『コンゴ自由国』を接収して『ベルギー領コンゴ』と改名した後、ベルギー政府はコンゴの植民地統治を公的な形で行うようになり、レオポルド2世の私的統治の時期と比べていくつかの改革を行いました。

特に、彼らは人道的な観点から最悪の虐待を公式に禁止し、ベルギー領コンゴの統治をより「文明的」なものとするための努力を始めましたが、これらの改革がすべて実質的な改善をもたらしたわけではなく、多くのコンゴ人は依然として重労働を強いられ、無酬または低賃金で働かざるを得ませんでした。

また、ベルギー政府はコンゴのインフラストラクチャーの発展に資源を投入しました。これには鉄道、道路、港湾、そして都市の建設が含まれていました。


この期間には、教育と医療の提供も増加しましたが、これらの恩恵を受けられるコンゴ人は限られていました。

ベルギーの統治下での教育は、コンゴ人を低賃金の労働者として訓練するためのものであり、一部のエリートに対する限られた教育の機会を除いて、高等教育の機会はほとんど提供されていませんでした。

統治は、人道主義と「文明化」の言語で包装されていましたが、その背後には依然として経済的な搾取がありました。

ベルギーはコンゴの豊富な天然資源、特に金、ダイヤモンド、銅、ウランなどを利用し、その富を本国に送り返しました。


「風の独立」


1950年代後半までに、アフリカ全体で反植民地主義の運動が高まっていて、コンゴでも都市部の労働者、知識層、そして農村部の人々の間で、独立と自決権への要求が増大していました。

1959年1月4日、首都レオポルドビル(現在のキンシャサ)で大規模な暴動が発生しました。この暴動は、独立を求める激化する圧力の一部として見られました。

ベルギー当局は反乱を鎮圧しようとしましたが、これがさらなる暴力行為と抗議行動を誘発しました。

暴動と抗議の後、ベルギー当局は独立に向けての対話を開始しました。

この独立は「風の独立」とも呼ばれ、それはコンゴ独立までの過程が他のアフリカの植民地よりも速く進んだためです。




1960年1月:ベルギー政府がコンゴの独立を宣言


独立後、パトリス・ルムンバが初代首相に就任します。

ルムンバは独立運動のリーダーであり、新たな国家の指導者として、コンゴの民主的で非植民地化された未来を追求しました。

彼はコンゴの民族主義者であり、非暴力的手段で植民地統治に反対し、独立後は非同盟運動の一環として南北の枠組みを超えた国際連携を模索しました。

国内ではカタンガ州の分離主義運動が発生し、国際的には冷戦の緊張が高まり、ルムンバは中立政策を維持しようとしました。

カタンガ州の分離問題

コンゴの南東部に位置するカタンガ州は、コンゴの鉱物資源が豊富にある地域でした。
カタンガ州は、モイーズ・チョンベによって主導で1960年7月11日に分離独立を宣言します。

ルムンバは、コンゴの統一を強く主張しており、カタンガ州の分離独立を断固として反対していて、この分離運動を抑えるために軍を派遣します。

カタンガ州のモイーズ・チョンベ首相は、ベルギーから軍事的な支援を受け、分離を続けました。

この状況に対処するため、国連はコンゴに平和維持軍(ONUC, Opération des Nations Unies au Congo)を派遣しました。
これは当時としては最大規模の平和維持活動で、最終的に約20,000人の兵力がコンゴに展開されました。

平和維持軍の目的は、カタンガの分離運動を鎮圧し、コンゴ全体の平和と秩序を回復することでした。


1961年9月18日:国連事務総長ダグ・ハマーショルドが飛行機事故で亡くなります。

ハマーショルドはカタンガ問題の解決に向けて精力的に働いていたため、彼の死は国際社会に大きな衝撃を与えました。


当初の調査では、墜落原因はパイロットの誤った操縦や技術的な問題とされましたが、その後の年月で様々な陰謀説が浮上しています。
いくつかの説では、機体が何者かによって撃墜されたと主張されています。

この背景には、ハマーショルドがアフリカの植民地からの独立を支持していたことから、彼を快く思わない勢力が関与したのではないかという推測もあります。


これらの主張の証拠は決定的なものではなく、正確な事故原因については依然として不明のままです。


シンバ反乱

1964年から1965年にかけて発生したシンバ反乱。
この反乱は、主に東部コンゴに位置するシンバ地方で発生し、コンゴの中央政府に対する大規模な抵抗を引き起こしました。

反乱はコンゴの植民地支配からの独立を目指し、パトリス・ルムンバの政策を受け継いでいました。

反乱軍は、一時は国土の半分を占領し、数万人の人々を殺害したとされています。数千人の欧米人を人質に取り、国際的な注目を集めました。


これに対応するため、反乱軍はベルギーとアメリカからの支援を受けて反乱を鎮圧しました。

特にベルギーは、人質救出のために自国軍を派遣しました。

アメリカはモブツに軍事的・財政的支援を提供し、CIAも反乱鎮圧のための活動に関与したとされています。


反乱軍の大将

モブツ・セセ・セコ(Mobutu Sese Seko)


本名:ジョゼフ=デジレ・モブツ(Joseph-Désiré Mobutu)

1930年10月14日にベルギー領コンゴのリサラ生まれ。

その後、彼自身の「アフリカ化」政策に従い、モブツ・セセ・セコ・コク・ンボゾ・ワ・ザ・バンガと改名しました。

この名前は、コンゴの先住民族であるングンドゥ族の言葉で
「全能者、あらゆる動きを制する者、不滅の者」
という意味を持ちます。

モブツは若い頃にベルギーの植民地軍であるForce Publiqueに入隊し、軍でキャリアを積みました。1958年には政治に関与し始め、コンゴ独立後の1960年の混乱の中で軍事的、政治的な力を増していきました。

シンバ反乱の鎮圧は、モブツが国内外での支持を強化する重要な機会となりました。

彼はこの成功を背景に、1965年にクーデターを起こして政権を掌握し、その後32年間にわたりコンゴ(後にザイールと改名)を独裁的に統治しました。

1965年:モブツ・セセ・セコは軍事クーデターを起こし、コンゴ民主共和国の大統領に就任。
彼の政権下で、コンゴは厳格な一党制を敷き、自身の権力基盤を固めました。


彼の独裁政権は、人権侵害、経済の衰退、そして広範囲に及ぶ腐敗で有名でした。彼自身は国家の富を私的に蓄積し、海外の銀行口座に数十億ドルを持っていたと推定されています。


1971年、モブツは国名を「ザイール共和国」に変更しました。


これは彼のアフリカ化政策の一環で、西洋の名前や風俗を排除し、アフリカの伝統的な価値観や習慣を復活させようとしたものでした。


彼はまた、自身を絶対的な指導者として描き、彼の像を国内の公共の場所に設置し、学校で彼の業績を教えるなど、個人崇拝を推進しました。

政府は政治的な反対者に対して暴力を行使し、拷問、逮捕、無期懲役、そして時には暗殺を行いました。

報道の自由も厳しく制限され、言論、集会の自由はしばしば抑圧されました。

汚職もまたモブツ政権下で顕著でした。

モブツは国家の富を私物化し、その大部分をスイスなどの外国の銀行口座に移動させました。

彼の政権は財産を私有化し、国有企業をモブツの家族や友人に譲渡しました。このような腐敗は、国家の経済に深刻な打撃を与え、インフレーションを引き起こし、多くの市民を貧困に追い込みました。

経済の衰退は、汚職だけでなく、国家の資源の不適切な管理、教育と保健の不足、そして基礎インフラ(電力、道路、通信)の劣化によるものでした。

モブツ政権下での経済政策は、一部のエリート層の利益を得る一方で、広範な貧困と格差を生み出しました。


モブツの「アフリカ化」政策は、西洋の影響を排除することを目指しましたが、これはしばしば人々のライフスタイルと自由を制限する形で実施され、多くの人々から反発を引き起こしました。

以上のような要因が相まって、コンゴ(ザイール)は政治的、経済的に不安定な状況が続くこととなりました。



現在では考えられませんが、1971年にモブツが訪日した際には、昭和天皇が羽田空港でお出迎えをしました。


それほど、当時のモブツは権力を持っていて、日本も大切にする人物だったのです。


モブツ大統領政権は、アメリカやベルギーから大量の資金や武器を援助してもらう代わりに、コンゴの天然資源を売りました。

この時代は冷戦の時代ですから

「社会主義勢力にコンゴの資源を奪われたくない」

というアメリカの思惑もあったと考えられます。

当時、爆弾を作るために欠かせない「コバルト」は、ソ連とコンゴにしか存在しなかったのです。




1989年に冷戦が終結すると、ソ連の脅威を警戒する必要がなくなったアメリカのコンゴへの興味は急速に冷めていきました。


その後、第一次コンゴ戦争が勃発。さらに「アフリカの世界大戦」と呼ばれた第二次コンゴ戦争へと広がっていきます。


・・・続く




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