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【物語1】主人公は女性研究者

この物語は一人の女性研究者の話である。名前はなんでもよい。名無しは不便だから、前田詩子としよう。現在の彼女を表す言葉を並べてみた。

  母。娘一人。シングルマザー。アラフォー。一人親家庭。
  研究者。歴史家。ポスドク。非常勤講師。翻訳者。
  ど田舎出身。地方都市在住。
  両親・兄弟とは絶縁。

ちなみに、筆者はこれまで日本で、詩子以外にシングルマザーの研究者に会ったことがない。その意味で彼女は、女性研究者と言うマイノリティの中でもまた更にマイノリティかもしれない。それゆえ、読み手の共感を得るのは難しいかもしれないけれども、こんな人間が日本のどこかにいることを知ってもらえればいい。

12年前、彼女は研究を続けるために、親戚も知人もいない地方都市に5歳の娘と二人きりで移り住んだ。前夫や実家とはいずれも絶縁状態で、誰からの経済的支援もないなかアルバイトをしつつ娘を育てながら大学院に通い、この春ようやく博士号を取った。詩子は長らく「院生シングルマザー」だった。シングルマザーの研究者も少ないだろうけれど、院生シングルマザーはたぶんもっと少ないだろう。

現在、詩子は出身校でポスドク研究員として働いている。地方の国立大人文系と比べれば、幾分予算に余裕のある旧帝大の研究所である。任期は2年。まだオーバードクターだった去年の9月に着任し、丁度一年が経つ。この仕事に就いてようやく日々の食事に困らなくなり、研究に時間も意識も使えるようになった。そして、そのおかげで彼女は博論を書きあげることができた。つまり、それまでの彼女は、日々の生活費用の調達に常に気をもみ、起きている時間のほぼ全てをアルバイトと子育てに費やしており、研究することなどできなかったのである。
  話が逸れた。この仕事は名ばかりは「研究員」だが、契約書の職務内容欄には「研究会等の運営」とあり、さらにひどいことに教授殿曰く「『○○の仕事はするな』とは明記されていないから、どんな仕事でも宛がうことのできる役職」だそうだ。つまり、雑務をする仕事である。もっとどキツイ言葉を使えば、教授殿のパシリである。はっきり言って博士号などなくてもできる。むしろ会議を運営すれば自身は研究発表ができない。業績にはならない。大学の使い捨て傭員だ。ただし、これまでバス掃除、製麺工場、チェーン店での給仕・皿洗い、コンビニ、郵便局での徹夜での仕分け、新聞配達、市場での仕分け作業などのアルバイトをしてきた詩子にとっては、研究に携わる仕事というだけでもありがたく思えた。無論、だからと言って、彼女はポスドクがこのような使われ方をするのを容認しているわけではない。
  この仕事は平日朝8時半から17時15分、うち1時間休憩のフルタイムである。殆どの研究者がとっている労働裁量制でもない。本当に、まるで事務員である。異なる点は、契約書中に研究に充てられるのは30%とわざわざ記載されていることである。そして、30パーセントしか研究に充てることを許されていないにも拘らず、研究業績は他の研究者と同等に求められる。
  詩子はまた給与の安いことにも些か不服であった。新卒並みかそれ以下の給与しかなく、手当も通勤手当しかなかった(しかも満額は支払われない)。同一の役職名を冠していても、その業務実態は一様ではない。要は、教授殿の仰る通り、雇う側の都合でなんにでもできる役職名なのだ。この春まで同じ部局で同じ役職名で働いていた男性は、週に30時間しか勤務しなかったが、フルタイムの詩子よりも給料が良かった。彼も同じPh.D.だ。なんなら詩子の方が10年以上もキャリアは長い。しかも、彼の任期は3年で詩子より1.5倍長く、その間一度も会議の運営をしなかった。唯一の仕事は、海外にいるボスに頼まれて本を一冊だけスキャナーしてメールで送ったことである。彼は直属のボスに恵まれたのだ。そのボス教授曰く「ポスドクのうちに研究をしっかり行うべきだ」と。詩子はそれを聞いたとき、大いに嫉妬した。
  話を戻そう。この職に就くときに詩子は事務のおじさまに言われた。「ごめんなさい。前田さんのキャリアならこれだけ支払われるべきだけれども、予算の関係上日当はこれで」と。彼の言葉には怒りがあった。そのおかげで詩子の怒りは軽く済んだ。とはいえ、その差約5000円。一日5000円の差は、一か月20日出勤で換算すれば10万円になる。彼女は決して研究業績が多いとは言えない。そんなオーバードクターが職を頂けるだけでもありがたいことだということは、彼女も重々に承知している。だが一方で、娘が中高一貫校に在籍するためにこの地から身動きできないことで、人事権を持つ教授殿らに足元を見られている気がした。詩子が少ない給料でもこの仕事を蹴らないことを見越されているように思われた。
  そもそも、この職の求人が出たのは昨年2月。詩子が着任する半年前だ。2名を募ったが、長らく一人の応募者も現れなかった。この求人は博士号を取得していることが条件であった。だが、実際には教授の一声で修士号さえ持たぬ者がその役職名を冠して就職できること(実際にそうした研究員が数名いること)を詩子は知っていたため、せめて応募だけでもしてみようと思い切って指導教員に申し出た。部局内の役割分担により、彼は向後2年間会議の運営を担当することになっており、求人中の研究員2名は彼の部下として働く。しかし詩子の相談は一蹴された。「だめ」。ものの3秒だった。その頃彼女は、課程博士として博論を提出できる期限が一年を切っていた。だが生活の為に普段はカレー屋でバイトをし、シフトのない日はイベント運営などの日雇いバイトをして食い繋いでいた。研究など全く進まなかった。博論の完成など夢に見ることさえ厚かましく思えるほどであった。
   5月になりようやく一人の応募があり、直ちに採用が決まった。関東在住のポスドクである。だが、いざ着任となったとき彼は辞退を申し出た。おそらくたった2年のために関東圏の非常勤講師を全て辞めて、この地方都市に赴任することに躊躇したのだろう。人事は白紙に戻った。そうして夏の終わりに、指導教官から詩子に話が来たのだ。公募がかかったときには応募さえさせてくれなかったのに、なんて現金な話だろうと腹立たしく思うと同時に、詩子はそれでもそれに縋るしかない自身の置かれた立場を情けなく思った。背に腹は代えられない。
  詩子の後にもう一人女性が着任した。彼女は詩子よりも幾つか年上で、何年も前に博士号を取っていた。昆虫を研究する彼女は、同じ大学の理学部に勤めていたが任期が切れたために離職し移ってきた。半年後、彼女は辞めていった。同じ身分だがより給料が高く、より任期も長い、学内の別の部局に就職した。彼女もまた子どもがいて、夫がこの大学で教鞭をとっているために県内で働くほか選択肢はないと話してくれた。ちなみに、彼女の後任については未だに募集さえしていない。詩子は同じ賃金で倍の仕事をする羽目になった。
  地方に住むポスドクの仕事枠は多くない。県内には本校を含めて国立大が2校(もう一校は教育大)、公立大が1校、私立が4校。家族等のために県外で暮らすことのできない研究者は、この数少ない「研究者」枠になんとか収まって仕事をしなければ研究の継続は困難である。だから口が裂けても「給料が安い」なんて言えない。「仕事があるだけ感謝しろ」なのだから。自分の運命を恨んで泣き寝入りするしかないのだ。

このフルタイムの仕事に就くまでに、詩子を度々救ったのは翻訳の仕事であった。
  彼女はアジアのある地域を対象に歴史を研究している。その言語を使える人は多くない。ましてや、その言葉で学術論文を書ける日本人は僅かだ。そのため、詩子には歴史研究者らから論文や発表原稿の翻訳・校正などのオファーが不定期にきた。だが、残念ながら、その翻訳が彼女の業績になることはなかった。どの研究者も「前田詩子 訳」とは明記せずに論文を投稿したり、学会資料を配布していた。金で翻訳させることのできる、怠け者の研究者を詩子はしばしば羨んだ。とはいえ、先に挙げたような肉体労働のアルバイトに比べれば、これらの仕事の賃金は割がよかった。何より、研究に関わることだから楽しかった。たまに入る翻訳の仕事は、詩子親子の生活を一瞬だけ潤してくれた。

幸運なことに詩子は現在、上のフルタイムの仕事のほかに、県内の私立大学で週に1コマ非常勤講師をしている。この春からだ。指導教員でもゼミの先輩でもないのに、この仕事を紹介してくれた先生には心より感謝している。だが問題は、この授業が詩子の専門ではないことである。大学で新しく取り入れるアクティヴラーニングの授業だった。これを彼女に任せる大学もどうかと思ったが、ポスドクの間に教師としての経験をつけなければ就職はできないと言われているため(半ば脅されているため)、詩子は無責任だとは思いつつも引き受けた。そして、引き受けたからには必死に勉強した。その専門の先生などこの世で一人も知らない。ネットで片っ端から各大学のシラバスを調べ、別の旧帝大で教鞭をとる教授を見つけ出し、全く面識もないがメールを送って教えを乞うた。優しい先生だった。何度もメールをくれた。論文や著書を多く紹介してくれた。詩子は全力でシラバスを作成した。博論の最終提出日を控えた冬のことだった。
  先日、前期の授業が終わった。感染病対策のために全てオンライン授業となった。講師としての仕事は、専門科目ではないとはいえ、とても楽しかった。学ぶ意欲のある学生と接するのは、詩子にとって至福の時間だった。
  カンカン照りのある日、オンラインでしか接したことのない女性の学生が、詩子の研究室を訪ねてきた。大学院進学についての相談だった。地域は異なるがアジアの歴史を研究したいと言う。ポスドクには身に余る内容に思えたので、詩子は適当な先生を数人紹介した。その先生方との面談に詩子も同席した。学生の目は輝き、頬は赤らんでいた。それを見た詩子は、この若い一人の女性が、この先納得するまでずっと研究を続けられることを切に祈った。

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