【日本史7】鎌倉史備忘録10
鎌倉時代の学習を深めていきます。
本日の学習は、
①源義経の入京後に朝廷内では平氏の追撃を続けるか、和議を結んで三種の神器の回収を優先するかで議論をしていた。
②後白河らの強い意向があり平氏の追討が決定した。
源義経と源頼範の2人が率いる源氏の軍勢が九州から福原(兵庫県神戸市)に戻って平氏を奇襲した。これが1184年(元暦元年)の一の谷の戦い(兵庫県)である。
③『平家物語』では源義経が一の谷の峠をかけ下る
「鵯越の逆落とし」で大勝したと記されているが話が盛られていると云われている。
④平氏は大敗し源平合戦の源氏優位が確立した。頼朝は西国の武士たちの御家人化を進めて1184年(元暦元年)には後白河から平家没官領(朝廷に没収された平家の所領・所職)を与えられた。関東でも知行国(朝廷から支配を認められた国)が与えられた。
⑤鎌倉幕府の主要機構である侍所、政務を司る公文所、訴訟裁判を掌る問注所が設置されたのはこの頃の話である。
⑥頼朝は御家人の統制に着手した。頼朝軍の躍進の立役者の上総広常が歯向かったので倒した。甲斐源氏の統制、無断で朝廷から官位を得た義経を叱責した。
⑦1184年(元暦元年)に伊賀国・伊勢国(三重県)で発生した大規模な反乱に手を焼いていたがこれを鎮圧し東国の御家人を従わせたシステムを西国でも採用した。
そして公的制度として承認された。
⑧阿波国(徳島県)に上陸した義経郡は讃岐国(香川県)の屋島の平氏軍の本陣を急襲した。
これが1185年(文治元年)の屋島の戦いである。平氏は安徳天皇を伴って海上を逃走することが精一杯であった。
⑨そして義経は頼範や周辺の武士たちとも連携し長門国(山口県西部)の彦島に平氏を追い詰めた。義経郡が関門海峡東端の壇ノ浦(山口県)まで行軍すると一方の平治軍勢も彦島を出発する。
⑩壇ノ浦の海上で義経軍と平氏軍の最後の戦闘である壇ノ浦の戦いが勃発した。平氏の主要人物は自害したり倒された。都の都落ちに随行した人々は生け捕りとなった。8歳の安徳天皇は入水自殺した。三種の神器とともに海へ沈んだ。
⑪平家政権は中国の秦王朝(BC221年-BC206年)と同じく15年で滅亡した。しかし源氏側は三種の神器の一つである宝剣は発見できず義経と頼朝の確執は表面化した。
義経は挙兵を決意したが失敗し東北へ落ち延びた。
⑫義経は東北にあった奥州藤原氏のもとへ行き潜伏した。頼朝は義経と脅威であった奥州藤原氏を討伐すべく軍事作戦を展開した。この際に九州の武士が集結した。
⑬追い詰められた奥州藤原氏の藤原泰衡はやむなく義経を倒した。頼朝に恭順の意を示したが頼朝は攻撃を中止しなかった。1189年(文治5年)に奥州藤原氏は滅亡した。
⑭この合戦は頼朝の祖先である源頼義が勝利した前九年の役を再現するための政治パフォーマンスでもあったと云われている。
頼朝の敵はいなくなり頼朝は源氏の棟梁、武士の棟梁となり鎌倉に君臨した。
■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社
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