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【歴史概要56】フレンチ・アンド・インディアン戦争・課税ラッシュ・ボストン茶会事件

①フランスはセント・ローレンス川を遡ってカナダとミシシッピー流域を探検しながらルイジアナ植民地を開いた。先住民と毛皮の取引を中心に植民地経営を行った。

②イギリス人は主に定住を目的としていたがフランス人は主に交易が目的でありインディアンと友好的な関係を形成していった。

③ルイジアナはルイ14世にちなみ、ニューオーリンズはオルレアンにちなみ、モントリオールはモンテ・ロワイヤルにちなむ。現在でもカナダのケベック州はフランス語が公用語である。

④オランダやスペインも新大陸に植民地を建設していた。オランダはニューネーデルランドを打ち立て中心がニューアムステルダムであった。1664年の第2次英蘭戦争でイギリスに併合されニューヨーク州となった。ニューヨークのウォール街はオランダ植民地時代の城壁に因む。

⑤旧大陸(ヨーロッパ)の戦争は新大陸にも拡大した。スペイン継承戦争に対応するのがアン女王戦争、七年戦争に対応するのがフレンチ・アンド・インディアン戦争である。

⑥イギリスは前者の講和条約ユトレヒト条約でニューファンドランドやアカディアを取得し、後者のパリ条約でカナダ、ミシシッピーから東のルイジアナ、フロリダを獲得した。ミシシッピー以西のルイジアナはスペインに譲られた。

⑦フレンチ・アンド・インディアン戦争は結果としてイギリス13植民地の社会を揺らす事となった。17世紀初頭から始まったヴァージニア植民地建設から1世紀半を経た。人口は増えて経済力はついてきた。しかし本国の重商主義政策で自由な経済活動が制限されていた。ただ密貿易に関してはむしろ緩かった。

⑧戦争はイギリスの財政状況を悪化させた。本国は先住民との戦いや植民地統治の費用を植民地の人々に負担させようとし始めた。1764年の砂糖法から始まり、1765年の印紙法が制定され植民地人の不満は高まった。

⑨問題となったのは本国の議会が植民地人の代表がいないにもかかわらず一方的に砂糖法や印紙法などを定めた事にあった。

そのため「代表なくして課税なし」が植民地人の共通認識となっていく。

⑩植民地人の反抗により印紙法は廃止された。

しかし1767年にタウンゼント諸法とまとめられる税法でガラスや鉛、茶などへの課税が決定した。これは不買運動によって茶を除いて廃止となった。

⑪当時のイギリスの重商主義を牽引していた東インド会社は産業革命の進行などによる自由貿易の拡大で財政がひっ迫していた。そのためイギリスは東インド会社の救済のために1773年に茶法を発布した。新大陸の業者には大打撃となった。

⑫1773年12月16日にマサチューセッツ植民地のボストン港でインディアンの恰好をした市民50人ほどが東インド会社の船を急襲した。積み荷の紅茶を海に投げ入れた。

これがボストン茶会事件である。

⑬1774年にイギリス政府はボストン港を閉鎖した。マサチューセッツに与えられていた自治権をはく奪するが、ジョージア以外のイギリス12植民地の代表はフィラデルフィアに集結した。そして本国の理不尽な対応と対決する意思を確認した。

⑭1774年にはケベック法が制定された。カナダのケベックに加えて合衆国のオハイオ川以北にある五大湖周辺でのカトリック信仰の自由が認められた。新大陸に移住したプロテスタントはカトリックに危機感を抱いていた。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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