①クリミア戦争に敗北したロシアはロシアの後進性は
農奴制にあると認識し始めた。ロシアの農奴制はロマノフ朝と
ともに強化されていった。
②17世紀にはステンカ・ラージンの乱、18世紀のプガチョフの乱
といった反乱は弾圧され農奴に対する規制がしばしば強化されていった。農奴のあり方には差はあったが国家や領主から厳しい収奪を受けていた。
③アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を発布した。
こうして農奴は領主による裁判や売買などから解放され政治的自由を得た。しかし解放されても生活手段になる土地を得るのは有償であった。
④ロシアの農村共同体のミールを単位とした解放だったので課税や徴兵などはミールを単位としていた。
日常生活はほとんど変わらなかった。賃金労働者による道が開かれた事が大きな変化であった。
⑤1870年代からはナロードニキという青年知識人たちが出現した。西欧的な知識を得た中産階級のインテリであったがロシア伝統にも着目していた。農村共同体ミールを基盤とすればロシアでも社会主義体制が実現できると考えた。
⑥ヴィ・ナロード(人民の中へ)を標榜として農民覚醒に取り組んだ。農民は意図を理解する力はなく1881年にアレクサンドル2世はナロードニキの一派によって暗殺された。
⑦ナロードニキ運動は弾圧された。その精神は1901年に結成されたエスエル(社会革命党)に継承された。
ロシアに流入してきたマルクス主義思想を信奉する人々は1898年にロシア社会民主労働党を結成した。
⑧1903年にはメンシェヴィキとボリシェヴィキ(ロシア共産党)に分裂した。1917年のロシア革命を指導する事となる。
⑨ロシアには産業革命の前提資本である本源的蓄積がなかった。政府は外国資本の導入を行うがフランスが積極的に応じた。1891年に結ばれた露仏同盟の背景からも両国の経済関係が見られる。
⑩ロシアの工業化を推進したのは財務大臣と運輸大臣の要職を兼ねたウィッテであった。
産業革命において鉄道建設は最重要課題の一つであった。1891年に建設を始めたシベリア鉄道は別格であった。
⑪ロシアが中国への進出をはかるためのものであった。中国東北部を縦貫する東清鉄道に乗り入れて大連までの到達は1901年、1903年からは営業運動が始まった。1904年に勃発した日露戦争で重要な役割を担った。
⑫ロシアの産業革命では労働者に低賃金で長時間労働を強制していた。そうして国内市場は脆弱となり市場を求めて周辺地域への侵略が不可欠になった。
対外的には高関税政策が採用された。これが資本家保護となった。ゆえにロシアの産業革命は帝国主義的傾向が強かった。
■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社