【歴史概要111】ポーランド継承戦争・第1回・第2回・第3回ポーランド分割
①中世のポーランドはヤゲロ朝の下で覇権を持っていた。1572年に王朝が断絶した。以後選挙で国王が選出される共和制王政となった。
②1733年にザクセン選帝侯でもあるアウグスト2世が亡くなると周辺諸国を巻き込む戦争となっていった。
③1733年にシュラフタといわれるポーランド貴族の有力者であるスタニスワフ・レシチニスキが王位を要求するとアウグスト2世の息子であるフリードリッヒ・アウグスト2世もアウグスト3世と名乗り王位を要求した。
④ロシアはアウグスト側をサポートしてポーランドに侵入した。ここからポーランド継承戦争が始まった。
⑤スタニスワフはフランスに亡命した。オーストリアはアウグスト側で参戦したがスペインやサルデーニャはフランス側で参戦した。
⑥1735年のウィーン条約(1738年調印)でアウグスト3世の即位が認められた。
⑦スペインはナポリとシチリアを得た代償としてパルマをオーストリアに割譲した。スタニスワフはロレーヌ公となるロレーヌ公だったフランツ・シュテファンはトスカナ公となった。
⑧ポーランド継承戦争から約40年が経った。継承戦争の結果即位したアウグスト3世が1762年に死去した。
⑨ロシアのエカチェリーナ2世が愛人であるスタニスワフ2世を
王位につけて内部干渉を始めた。
⑩これに対してプロイセンのフリードリッヒ2世とオーストリアのマリア・テレジア(ヨーゼフ2世)はポーランドの周辺部分、3国に接する地域を分割した。これが第1次ポーランド分割である。
⑪スタニスワフ2世はポーランド改革を倒錯して1791年に憲法の制定をして立憲君主国家を根ざした。
⑫1793年に第2回ポーランド分割が行われた。マリア・テレジアは娘(マリー・アントワネット)が関わっていたフランス革命で参加できなかった。今回はプロイセンとロシアの2国で行われた。
⑬ポーランドの運動家コシューシコは対抗したが鎮圧された。1795年に第3回の分割には3国が参加して残ったポーランド領土はすべて奪われて国家ごと消滅した。
⑭ナポレオンの時代には傀儡のワルシャワ大公国、ウィーン会議ではポーランド王国が成立したがロシアが実質統治をしていた。ポーランドの主権回復は第1次世界大戦の1919年となる。
■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社
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