【歴史概要35】ハイチ共和国・解放の神学
①ハイチがある島はスペイン語でエスパニョーラ島、
フランス語でサン・ドマング島という。
コロンブスの第1回航海の時に発見されてエスパニョーラ島と名付けられたが、17世紀末にこの島の西半分がフランス領となりサン・ドマング島と呼ばれるようになった。
②ハイチは1804年にトゥーサン・ルベルチュールが主導して
初の黒人共和国として独立を果たした。
しかし後にハイチ内部で諸勢力の対立が続き国家は分裂した。
ラテンアメリカ諸国から独立は認められないという状況が続きフランスが独立の代償として求めた賠償金がハイチを困窮させた。
③19世紀の後半はサトウキビ産業を中心に経済基盤が確立され
そうになったがドイツがこの地域への進出を目論んでいた。
カリブ海を自国の内海と考えたアメリカは1915年に海兵隊を派遣してハイチを占領した。この時に多くのハイチ人がキューバやドミニカに亡命した。
④アメリカは占領機関中に政治機構の整備や軍事の訓練などを行った。フランクリン・ローゼベルトの善行外交で1934年に海兵隊を撤退した。
⑤第2次世界大戦後も状況は不安定だった。1957年にデュバリエが権力を握り軍隊と秘密警察を使った独裁政治を行った。デュバリエ死後も息子が継承し1986年まで暗黒時代は続いた。
⑥1987年にアリスティド(元サレジオ会司祭)が民主的な選挙で大統領に当選した。
アリスティドはラテンアメリカで支持を集めていた解放の神学(聖職者が主導で社会変革を目指す運動)の実践者であった。
1991年に大統領となったがクーデターで失脚した。復位・失脚を繰り返し中央アフリカに亡命した事などを学びました。
■参考文献
『ライバル国からよむ世界史』 関 眞興 日本経済新聞出版社
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