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【日本史7】鎌倉史備忘録8

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①1180年(治承4年)に頼朝は挙兵を開始した。

まずは伊豆国田方郡(静岡県伊豆市)で力のあった平氏の流れをくんだ山木兼隆が標的だった。頼朝は庇護者の北条時政の軍勢を中心に山木邸を襲撃し兼隆を倒した。

②平氏方の大庭景親(かげちか)は速やかに頼朝を討つことが得策と判断をし大軍で頼朝を奇襲し勝った。これが石橋山の戦いである。時政の息子である北条宗時を失ったが、頼朝は命拾いした。

③頼朝は同じく敗走していた三浦氏の軍勢と阿波国(千葉県南部)で合流し東国の有力豪族たちへ協力を呼び掛けた。上総国の上総広常や下総国の常胤などの勢力が頼朝に呼応した。

④そして房総半島を制圧した頼朝軍は武蔵国を平定した。その地の武士団を服属させ、相模国・鎌倉の地へ入った。

⑤平氏の側は清盛の孫である平維盛を中心とした追討軍が編成され東国に向かった。1180年(治承4年)に彼らは富士川の近くの富士沼(静岡県)で飛び立った水鳥の羽音を敵軍の襲来と勘違いし平氏方は戦うことなく潰走した。

⑥この時点での平氏は近江国(滋賀県)、三河国(愛媛県東部)、美濃国(岐阜県)などで蜂起した反平氏の反乱を鎮圧し、福原(兵庫県神戸市)への遷都を強行した。

反平氏勢力の興福寺(奈良県)を中心とする寺社勢力への対応南都焼き討ちなど畿内・西国方面への勢力を拡大していった。

⑦1181年(養和元年)に高倉上皇が亡くなり後白河院政が復活した。

平氏のまとめ役であった清盛も亡くなった。清盛の後継者の三男の平宗盛は実践経験が乏しく性格が弱かったので平氏の支配力は揺らいだ。この年には養和の大飢饉が起こり満足な軍事行動ができなくなった。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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