【歴史概要87】ギュイエンヌ・フランドル・スコットランド・カペーの奇跡・ヴァロワ朝
①中世の両国関係の問題はノルマンコンクエストを端緒とする。
フランスの一諸侯であったギョームがイングランドの王となった。ここに領土や経済が絡み問題が複雑化していった。
②ギュイエンヌは現在はアキテーヌと呼ばれている。フランスの南西部を示す。プランタジネット朝が始まってからフランスのほぼ西半分をイングランドは領有していた。
③フランス王権の拡大でそれを奪われて百年戦争の頃はギュイエンヌ地方しか領有していなかった。
ここの領地問題は百年戦争の鍵となる。
④1259年のパリ条約でヘンリー3世がルイ9世に臣従を誓った代償にここの領有が認められた。
⑤フランドルは現在のベルギーを中心にした地域である。この地域はノルマン人の侵入に対抗するためにフランドル伯国やブラバント公国が台頭していた。交通の要衝であり中世の経済的発展を背景として都市が誕生していった。
⑥フランドルのガン(ゲント)やブルージュ(ブルッヘ)、アントワープ(アントウェルペン)などが主要な都市である。
11世紀には毛織物産業の勃興も見られた。原料となる羊毛はイングランドから輸入されていた。
⑦ブリテン島の北部にはスコットランドがある。イングランドは
13世紀になると侵攻を激化していった。
14世紀にスコットランド王が亡くなるとエドワード3世は攻撃を仕掛けて傀儡の王を擁立した。
⑧正統を任じるデイビッド2世がフランスに亡命した。エドワード3世はフランス王から謀反人として追われていた人物を保護しイギリスやフランスの関係は悪化していた。
⑨987年に成立したカペー朝の君主は長命で有能な人物が多かった。また嫡子に恵まれた。これをカペーの奇跡という。
⑩中世のフランス王権は弱かった。王を上回る諸侯はたくさんいた。イングランドとの関係もフランスを混乱させるがカペー家の拠点であったイル・ド・フランス地方は経済力に優れていた。それを用いて巧みな外交戦術を展開して王権を拡大していった。
⑪13世紀後半には十字軍運動をフランス国王が主導し14世紀にはフィリップ4世は教会対立のために三部会を開催した。教皇ボニファティウス8世を幽閉するアナーニ事件などが起こった。
⑫またテンプル騎士団を解散させて財産を没収しローマの教皇庁を南フランスのアヴィニヨンに移した。
教皇のバビロン捕囚である。
⑬フィリップ4世は3人の息子に1人の娘がおり子どもには恵まれていた。しかし1314年にフィリップ4世が亡くなった後に息子ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世が数年の在位で次々に亡くなった。1328年にカペーの奇跡は終焉した。
⑭そして傍系ヴァロア伯のフィリップが王位を継承してフィリップ6世としてフランスで戴冠式をあげることになった。これにイングランドのエドワード3世が異議を唱えた。
⑮エドワード3世の母親はフィリップ4世の娘イザベラであるので王位継承の正統性を主張した。
フランスの諸侯たちには容認されずギュイエンヌ公として臣下の礼を行った。フィリップ6世の王位を認めた。
■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』関 眞興 日本経済新聞出版社
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