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【日本史8】平安史備忘録29(貴族の日常生活・女房・清少納言)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①男性貴族の1日は4時半ごろから6時半ごろに起床していた。
起きて具注暦という陰陽寮が発行する暦を見て
その日に取ってはいけない行動(禁忌)などを確認した。

②前日の出来事を記録するのは大事な日課であった。
当時の貴族にとって公的行事や職務をスムーズに行う事は
重要であって子孫のために宮中における作法や儀式の順序などを
日記や備忘録として記録する貴族が多かった。

③身支度を整えて粥などの軽食を済ませると公卿たちは職場である内裏へ牛車で出勤した。下級官人はそれより先に出勤した。

④午前の間に陣定が行われると午後は自由となった。
メインの食事は2食で帰宅後の昼食と自由時間を経て夕食をとった。夜に宴が開かれる事もあった。

⑤下級貴族は公卿など上司の機嫌をうかがい、良い対偶を得られることを期待して職務をこなしていた。辞令にあたる除目の発表を祈るような気持ちで待っていた。

⑥後宮とは天皇が清涼殿で暮らすようになる平安時代中期以前に天皇の生活の場だった仁寿殿の背後に建っていた建物群の総称であった。

⑦後宮には後宮十二司という12の役所があった。女官はそのいずれかに属していた。皇族の衣食の世話、書物・文具・楽器類・薬の管理、学問の講義などの職務が割り当てられた。后らの家族も出入りしていた。

⑧女官のなかで後宮に局(部屋)を与えられて住み込みで働く女官は女房と呼ばれた。女房のなかでは清少納言と紫式部が有名である。2人は教養の高さを買われ天皇の后につ明けた。

⑨随筆『枕草子』の作者として知られる清少納言は993年(正暦4年)から1000年(長保2年)まで一条天皇の皇后である定子に仕えた。下級貴族の清原元輔が父親であった。

⑩元輔は優れた詠い手であった。平安時代中期の貴族で歌学者でもあった藤原公任(きんとう)が選び出した36人の歌人(三十六歌仙)の1人もである。

⑪清少納言の本名は不明である。

定子から紙の束を与えられて何かを書くことを勧められて後宮での自身の体験や出来事を綴るようになった。

⑫『枕草子』が書き始められたのは定子の父である藤原道隆が亡くなり兄である伊周が左遷された後の996年(長徳2年)ごろであった。

⑬出家した定子が内裏に戻って一条天皇との間に皇女、皇子を産んだ。1000年(長保2年)に第2皇女の出産直後に亡くなると清少納言は後宮を去った。

1001年(長保3年)ごろにはほぼ完成したとされる。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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