見出し画像

【読書2】太宰治 小説の面白さ

 小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。

太宰曰く小説とは女子供の読むものであり真っ当な大人たちが読むものではない。
おまけに論じ合うような類のものではない。

小説を読んで、襟を正しただの、頭を下げただのと云っている人は、それが冗談ならばまた面白い話柄でもありましょうが、事実そのような振舞いを致したならば、それは狂人の仕草と申さなければなりますまい。

小説など襟を正すだの頭を下げたといった大層なものではない。
仮にするとしてもそれはジョークである。

小説と云うものは、そのように情無いもので、実は、婦女子をだませばそれで大成功。その婦女子をだます手も、色々ありまして、或あるいは謹厳を装い、或いは美貌をほのめかし、あるいは名門の出だと偽り、或いはろくでもない学識を総ざらいにひけらかし、或いは我が家の不幸を恥も外聞も無く発表し、以て婦人のシンパシーを買わんとする意図明々白々なるにかかわらず

太宰曰く小説というのは色々な手口を使って婦女子を騙すためのものである。
所詮その程度のものという認識が大事だ。

評論家と云う馬鹿者がありまして、それを捧げ奉り、また自分の飯の種にしているようですから、呆れるじゃありませんか。

評論家は大した事のないノベルスをそれっぽく評論して生計を立てており呆れる。

むかし、滝沢馬琴と云う人がありまして、この人の書いたものは余り面白く無かったけれど、でも、その人のライフ・ワークらしい里見八犬伝の序文に、婦女子のねむけ醒ざましともなれば幸なりと書いてありました。

滝沢馬琴の話は面白くなかったが『里見八犬伝』の序文には「婦女子のねむけ醒ざましともなれば幸なり」とある。小説はその程度のものである。

私はいつだか藤村と云う人の夜明け前と云う作品を、眠られない夜に朝までかかって全部読み尽し、そうしたら眠くなってきましたので、その部厚の本を枕元に投げ出し、うとうと眠りましたら、夢を見ました。それが、ちっとも、何にも、ぜんぜん、その作品と関係の無い夢でした。

太宰は島崎藤村の『夜明け前』を全部読んで寝たが夢は何の関連性もなかった。
小説などその程度のものだ。

■感想
読書というと小説を思い浮かべるがその小説とは太宰曰くたいしたものではない。太宰曰く従来女子供を様々な手口を使って騙してスゴイもののように思わせるものである。太宰は物書きでありながら小説を軽んじているところがこのエッセイの面白いところだろう。

いいなと思ったら応援しよう!

真のペンギン@意識低い系
学習教材(数百円)に使います。