【日本史9】明治史備忘録57(奉天会戦・血の日曜日事件・日本海海戦・連合艦隊・バルチック艦隊・東郷平八郎・秋山真之・ポーツマス講和会議・樺太占領・竹島編入)
①日本側はロシア軍が集結した奉天(遼寧省瀋陽市)に攻勢をかけた。3月1日に日本陸軍約25万人、ロシア陸軍約32万人が衝突した。これが奉天会戦である。日本陸軍が勝利した。しかし約7万5000人の死傷者がでた。軍需物資も底をついた。
②ロシアでは物資不足から国民の不満が高まっていた。旅順要塞陥落後に議会の開設を求める反政府デモが起こった。政府はデモを弾圧して多くの死者がでた。これが血の日曜日事件である。こうしてロシア第一革命という大きな反政府運動に繋がった。
③5月27日に対馬海峡を望む韓国の鎮海湾で連合艦隊とバルチック艦隊は衝突をした。これが日本海海戦である。
海軍大将は薩摩閥の東郷平八郎であり参謀は軍事や国際法に詳しい秋山真之が担当していた。
④バルチック艦隊は乗員が疲れており増援艦隊が旧式であり速力が遅かった。連合艦隊は訓練を重ねており正確砲撃でバルチック艦隊を玉砕して勝利した。
⑤メインの2つの艦隊が壊滅した。黒海艦隊の水兵が大規模反乱を起こした。ロシア国内では大きな反政府運動が続いていた。ロシアは日本と戦争をする事が困難となっていた。
⑥日本政府はアメリカの大統領であるゼオドアローズヴェルトに講和の斡旋を頼んだ。双方はローズヴェルトの勧告を受け入れた。8月にアメリカの東海岸のニューハンプシャー州の港町のポーツマスで講和会議が行われた。
⑦ローズヴェルトが訪米した金子堅太郎に樺太(サハリン)を占領するように進言したため日本軍は7月中に樺太全土を占領した。
⑧1905年(明治38年)1月28日に日本政府は日本海の隠岐諸島の沖合の無人島を竹島(独島)と呼ぶ事と島根県へ編入して日本が領有する事を閣議決定した。
⑨江戸時代には現代の韓国領の鬱陵島(ウルルンド)が竹島と云われており竹島は松島と云われていた。幕府はどの島も日本の藩の統治下にはないと想定していた。明治時代になっても日本政府はどこの国にも属さないと想定していた。
⑩近隣の隠岐諸島の漁民が竹島に上陸して漁業を行うようになると政府で竹島を領有する事が検討された。ゆえに日露戦争の間に領有が宣言された。とりわけ諸外国からの抗議はなく日本は現代になっても竹島領有の放棄を宣言していない。
⑪第2次世界大戦以後に大韓民国が成立してからは独島(竹島)は自国の領土であったと主張し始めた。1952年(昭和27年)に自国の領海範囲に組み入れた。ゆえに竹島領有は現代の日本政府と韓国政府と見解が分かれている。
■参考文献 『1冊でわかる明治時代』 大石学 河出書房新社
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