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【歴史のない日本伝統27】仏壇・神棚

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は仏壇・神棚の歴史のなさを説明する。
仏壇に先祖供養の意味はなく神棚はお札入れであった。

氏子制度と檀家制度が現代日本人の慣習に根付いたため同じ家で仏壇と神棚が祀られている事にさして違和感はない。

まず仏壇の来歴である。

平安時代頃から自分の所有する仏像を祀る寺やお堂を建てる公家や実力者が現れた。これを持仏堂という。それをコンパクトにして屋敷内に置いたのが仏壇の始まりである。

しかしこれは礼拝用である。仏像を安置する厨子のようなものだった。

室町時代に入ると浄土真宗中興の祖である蓮如が「南無阿弥陀仏」と書かれた掛け軸を仏壇に祀ることを奨励した。浄土真宗では仏壇が広まる。しかしまだ先祖供養の意味合いはなかった。

仏教の経典に先祖供養の事は書かれていない。

それは輪廻転生から見れば当然の話であり先祖の魂は浄土へ行かない限り天界道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道で生まれ変わるからだ。

先祖供養の考えは神道や儒教寄りの発想であり仏教徒には関連性がきわめて薄い。インドには仏壇はなくタイやミャンマーなどの仏教国にも存在しない。

現在のように先祖を供養するための仏壇となったのは江戸時代になってからであり寺請制度が浸透してからだ。

檀家の菩提寺は各家に仏壇を置く事を奨励して朝夕の礼拝に加え命日などには僧侶を呼んでお経をあげてもらう現在の形となった。位牌は鎌倉時代に禅宗と同時に儒教の祭具として伝わっていたが庶民に広まるのは仏壇と同様に江戸時代になってからだ。

次に神棚の来歴である。

元々神道には神が1ヵ所に留まるという発想はなかった。人が祀る事によってその場所に出現するという考え方があった。

神の依りつくところが依代(よりしろ)で門松や鉾(ほこ)などがそれに相当する。

家のなかではトイレやかまど、井戸など生命に直結する場所に祀られていた。

なぜならそうせねば神の祟りで病気になったり死ぬと考えられていたからだ。ゆえに神棚が設けられる事はなかった。

江戸時代になり伊勢神宮で祭事を司っていた御師(おんし)と呼ばれる人々が参詣をうながすために各地で御祓大麻というお札を配り始めた。

こうして御陰参りと呼ばれる伊勢神宮参詣ブームとなった。参拝者は記念としてお札が賜られた。このお札は有難いので箪笥ではなく特別な保管場所が必要だった。こうして神棚が設置された。

明治時代になると氏子や国家神道の制度が広まり神棚で氏神や皇祖神を祀る家が多くなった。神を祀るという意味での神棚が一般に広まったのはこの時期である。

江戸時代の道場では剣の神である鹿島大明神と香取大明神が記された掛け軸を神床に掲げていた。幕末になると尊王思想の広まりを受けて天照皇大神宮の掛け軸を中央に掲げる事になった。

国家神道がもっとも影響力を強めたのは軍部が台頭した昭和前期であった。1936年(昭和11年)に文部省主催の体育運動主事会議において「道場ニハ神棚ヲ設クルコト」という答申が行われて学校道場への神棚設置が義務付けられた。

(結論)
仏壇はあるにはあったがそれは仏教に基づく礼拝用であった。
仏壇が先祖供養の意味を持つのは寺請制度が浸透した江戸時代以降である。神棚は江戸時代の伊勢神宮参詣ブームにあやかったお札入れであった。

仏壇は仏教思想とは程遠いものであり神棚は従来の神道思想からはきわめて遠いものである。歴史的に見れば仏教は先祖供養と矛盾するものであり神道は国家神道と水と油の関係であると云っても過言ではないだろう。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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