【日本史7】鎌倉史備忘録13
鎌倉時代の学習を深めていきます。
本日の学習は、
①幕府のトップは将軍である。しかし頼朝は征夷大将軍=武家の棟梁とは考えていなかった。
②1192年(建久3年)に頼朝が征夷大将軍に就任したが元々頼朝が望んだものではなく朝廷には大将軍の称号を望んでいた。
惣官、征東大将軍、上将軍など幾つかの候補の中から征夷大将軍を選んだ。
③当時の将軍は鎌倉幕府の棟梁を表す鎌倉殿と呼ばれていた。
鎌倉殿に仕えたのが御家人である。領地を与えられて支配権を保証してもらう代わりに有事の際は軍人として活動する御恩と奉公が基本であった。
④御家人はあくまで頼朝の支配下に入った武士だけであり非御家人の武士はたくさんいた。
また西国の御家人たちは冷遇されていた。
⑤将軍下で幕府を統制した機関は3つあった。1つ目は1180年(治承4年)の時点で成立した御家人たちを統率するための侍所である。初代別当(長官)は和田義盛であった。合戦に動員された御家人の管理・監督を行った。
⑦2つ目は行政を管轄した政所である。公文所が改称された組織で幕府の経済基盤として重要だった関東御領の経営や年貢徴収を担当していた。初代別当は京から下った官僚の大江広元であった。
⑧3つ目は裁判を管轄した問注所である。当事者から訴えを聞き結果を将軍に報告して判決をもらう仕事だった。問注所は鎌倉幕府独自の機関で朝廷の裁判を重視する考え方が現れている。初代執事(長官)は三好康信である。
⑨こうした中央機関のもとで諸国管轄をしたのが守護であった。
荘園・公領を管轄したのが地頭であった。
⑩守護は国(現在の都道府県)ごとに置かれ国内の軍事・警察業務を担った。平安時代に国司があったが守護が成立する契機となったのは惣追捕使の存在であった。
⑪守護の具体的な仕事は支配国内の地頭・御家人の統率、京都大番役の実行、催促、犯罪者・謀反人の捜査・逮捕であった。
しかし諸国にある国衙よりも影響力のある守護が存在したり国によっては守護が設置されていなかったり職務範囲は国によって違った。
⑫地頭は御恩と奉公の中核を担った所領の制度と関わっていた。鎌倉幕府は御家人に直接土地を与えるのではなくある土地の地頭に任命することで土地の管理権を与えた。
⑬地頭たちは荘園や国衙などの他人の土地で年貢徴収・納入を請け負い荘園領主たちから給免田や加微米の取得権を得ていた。
主に地頭設置は平家没官領や謀反人たちから没収した所領が中心だった。
⑭確かに鎌倉幕府が成立して政治の担い手は朝廷から武士に転じていく。
しかし鎌倉幕府の初期はまだ朝廷が全国支配を続けていたため日本全国が鎌倉幕府を中心にまとまっていたわけではない。
⑮一般的に鎌倉幕府の土地を通じて結ばれた支配制度は封建制と呼ばれる。中世ヨーロッパの荘園制を中核とした体制と鎌倉幕府の支配体制と類似している。
■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社
いいなと思ったら応援しよう!
学習教材(数百円)に使います。