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「発達障がいは障がいか才能か」の中間として「特徴・特性」という考え方を拡げたい【レビュー記事】

障がいのあるなしにかかわらず、皆さんはそれぞれの特徴・特性をもっています。
「発達障がい」かどうかは、ひとつのものさしで測れるでしょうか。
「AとBの特性に当てはまるから発達障がい」という決め方が正しいとは、とても言い切れないと思います。

しかし多くの企業は、採用や職種などあらゆる「働く」ことに対して、一定の基準を設けています。

一定のものさしで測れない特性と、企業の求める一定の基準。
この2つをうまくマッチさせることが私の望みです。

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「障がいか才能か」という二分の考え方は極端なものさしですが、
その中間として、「特徴をもっている・特徴に変えていく」と考えてみると良いかもしれません。

たとえば絵がとても上手なことなど、何か突出して秀でた特性をお持ちで、それが社会的な価値につながるのであればどんどん伸ばしていけば良いと思います。

しかし、どの人も突出した分かりやすい特性をもっているわけではありません。
才能をどんどん伸ばしていけばいいという考え方は、誰にでも必ずマッチする考え方ではないと思います。

才能・障害のような極端な分け方ではなく、
うまくいかないことを「特徴」に変えていき、誰もが生活(社会に属しながら生きること)ができることを目指したいです。

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では具体的にどうすれば良いでしょうか。

すべての行為が別の行為・工夫で代替できる、と考えてみると良いと思います。

たとえばAが苦手ならBで代替してみよう。
AもBもうまくいかないならじゃあCを使ってみよう。
そうした代替の方法をどんどんやってみることが、一人ひとりの特性に沿う方法ではないでしょうか。

ただ自分自身では代替案が見つからないこともあると思います。
そこで必要なのは、いろいろな人に意見を聞いてみる・いろいろな人と意見を交わすことだと思います。

まずは2択のような極端な考え方に向かわないこと。
いろいろな人の意見を取り入れていくこと。
これらがまず私たちが共通してできることなのではないでしょうか。

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以下記事本文より引用
*プラスハンディキャップ様より掲載のご了承をいただいております。

発達障害はびっくりするくらい両極端なイメージを持たれていると感じています。


ひとつは「発達障害は才能である」というタイプ。例えばエジソン、アインシュタイン、最近だとスティーブ・ジョブズなどのように、過去の天才と呼ばれる人たちの中に発達障害ではないかと噂される面々がいることの影響は少なくありません。


もうひとつは「発達障害は、あくまでも障害である」というタイプ。ここ数年の風潮でもある気がしますが、発達障害と聞いただけで、コミュニケーションが苦手で、仕事は長続きせず、配慮が必要で…という印象をもたれることがありますが、その印象の積み重ねの影響も大きいものです。


それぞれのイメージは「発達障害を特別視しすぎている」という点で共通していると思っています。私なんて、自身の発達障害を伝えると「えっ、見えないですね」と驚かれることもありますが、きっと「一定数の発達障害者は才能でも障害でもなく、ふつう」なんだと思います。

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発達障害に「才能」というイメージがくっつくようになったのは「能力差が激しいこと」が挙げられます。いわゆる凸凹と表現される特性です。


能力差があると、得意なものは「才能」のように見えるのかもしれませんが、発達障害による困りごとを補って有り余るほどの、プラスの面がないひとだってたくさんいます。エジソンやアインシュタインのように「学校の勉強ができなくても、これは得意!」みたいな絶対的な武器を持てるひとばかりではありません。天才は数が圧倒的に少ないからこそ、天才です。


もともと、ひとが持っているものは不公平なのです。


マイナス面を分析してみると、なんとかしてそのマイナスをクリアする方法を編み出そうとします。後天的に独自の強みができる人はいるかもしれません。しかしそれは、才能なのではなく、うまく生きていくための適応の仕方が他の人と違っただけではないでしょうか?


「発達障害は、あくまでも障害である」という認識でいるひとと対峙したとき、私の場合で言えば、部屋を片付けられないの?と言われたり、「超コミュ障」だと受け取られたりということがありました。中には、電車の時刻表にめっちゃ詳しいの?と聞かれたこともあります。


たしかに苦手ではありますが、部屋の片付けはしていますし、多少、集団でいるときに会話がちぐはぐで浮いていることもあるんでしょうが、パッと見でわかるほど変な行動はしていないはずです。発達障害を他の誰かから指摘されたことは30年生きていて1回だけです。


障害は、その特性が色濃く出るひともいれば、薄くしか出ないひともいます。発達障害がメディアで取り上げられていても、その大変なところばかりが強調されるのは、正直いって、ピンと来ません。あまりにも大変そうな方々が特集されていると「私程度で、発達障害とか名乗っちゃいけないのかな」と、たじろいでしまうくらいです。

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才能だという捉え方も、障害だという捉え方も「発達障害の特性を過大視したイメージである」という点では共通しています。もちろん、ポジティブに「伸びる場所を探す」という才能論の方がありがたくはありますが、大きすぎる期待は時と場合によっては負担にもなります。実態に即していないのは、どちらも同じだと思っています。


発達障害の認知拡大、理解促進のために、わかりやすいイメージを作り上げたのかもしれません。当事者たちも、配慮を受けるために、自分たちが生きやすいように、そのイメージ作りに乗っかった部分もあるように感じます。


配慮についていえば、発達障害だからといって、配慮を受ける必要なんてありません。その特徴によって「困っていること」があるときに、他の誰かの力を借りればいいのだと考えています。もっと突っ込んで言えば、たとえ発達障害があったとしても、困っていないのであれば、わざわざ診断を受ける必要はないのかもしれません。


発達障害に限った話ではありませんが、特別視しすぎたところで、いいことってあまりありません。実態に即していないイメージを持ちやすくなり、本来の姿が見えにくくなってしまうからです。


才能とも障害ともいえない、中途半端な感じの発達障害の人もいるんです。


まぁ、こんなことを書いている私自身が、つい2年前まではものすごく特別視していたので、偉そうなことは言えないんですが。


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